〇シュタイナー自伝
Ⅰ.6章 私は、教育と授業が、真の人間認識に基礎を置く、一つの芸術になるべきだと悟った。
私は、自分がこのような環境に投げ込まれたことに対して運命に感謝せざるをえない。なぜなら、このような環境にいたからこそ、 私は生きた方法で、人間本姓に関する認識を獲得しえたからである。
人間は、自己の人生に真の意味を与えるものを、己の内面の泉から汲み出そうとして努力する存在である。もし世界の仕組みによって、 人間にあらかじめ「最良の人生」が与えられるとしたら、人間は内面にある泉を、一体どのようにして溢れ出させることができようか? 外面的な世界秩序が一定の発展段階に達すると、善悪の判断が事物の側に委ねられてしまう。この時初めて、人間本性が自己意識に目覚め、 自由へと向かう指針を、事物からではなく、存在の根源から受け取る。そして発展の道を更に辿り続けるのである。

Ⅰ.8章  『人造人間』(ロベルト・マハーリンクの風刺的叙事詩)に関心をそそられた頃、私はまた、芸術的創造と美についても思索を巡らしていた。 その頃私の心を占めていたこの問題は、『新しい美学の祖としてのゲーテ』という小著として書き下された。・・・私がこの書の中で意図したのは、 フィヒテとヘーゲルが熱烈に鼓吹した大胆な哲学的理想主義が、なぜ発刺たる霊にまで到達することができなかったかの原因を探ることだった。
27歳の私は、このように(『ドイツ週報』の編集を任される。社会主義経済学者の著書の研究)、人間の外的生活に関わる「問題」と「謎」に 心を占められていたが、その一方で、魂の本性および霊界に対する魂の関係何如という問題が内面的観照のうちに、いといよ確固たる姿で私の内面に 迫ってきていた。差し当たって私は、このような内面的観照に基づいてのみ霊的な著作活動を遂行することができた。そしてこの仕事は 次第の方向をはっきりと定め、数年後に著書『自由の哲学』となって結実した。

Ⅰ.9章 彼(エドアルト・フォン・ハルトマン)の意見によれば、事物の本性は無意識の裡にあり、人間の意識には常に隠されたままの状態にある。 しかし私に言わせれば、無意識は心的生活の努力次第で意識へと引き上げられ得るものであった。彼との会話の中で、私は次のように述べたーー 表象を、現実から切り離されて意識の裡に存在する、何か非現実的なものとみなすことは許されない。そのような見解は認識論の出発点とはなりえない。 なぜなら、このような見解に従う限り、人間は表象の中で生きており表象の中で生きており表象という仮説を通してしか、すなわち、非現実的な方法でしか 現実に近付くことができないと考えるしかなく、したがってあらゆる現実への入り口が閉ざされてしまうからである。むしろまず為すべきことは、 表象を非現実的なものとみなす考えが妥当なものかどうか、もしくは、この考えは偏見に由来しているにすぎないのではないかを吟味することである、 と。これに対してハルトマンは次のように答えたーーこの点については異論の余地はない。何となれば「表象」(Vorstellung)という言葉の語義に既に、 表象には現実的なものが何一つ含まれていないことが示されているから、と。この返事を聞いた時私はゾクッとした。人生観の真剣な出発点となるべきものが、 「語義」だとは!私は自分が同時代の哲学から、いかに隔った地点にいるかを感じた。