〇創価教育の科学的超宗教的実験証明(はしがきより)
今日では、社会におけるあらゆる分野の産業が、最高の能率を挙げなければ存続できないほど進歩して いるにもかかわらず、教育のみが依然として暗中模索の状態のままであり、最低の能率に安んじていることを、 大変残念に思い、国家社会の究極的な根底である教育がそうした様相を呈しているかぎり、国家の前途は 寒心にたえないと嘆かれる、秋月左郁夫翁の見いだすところとなり、創価学会の価値が、6名の青年教師 たちの一年間の実験によって、ともかく証明されるにいたりました。本書は、その報告のついでに、大局的な観点 から同様な教育改良を考慮されている方々にとって少しでも参考になればと、まとめてみたものです。 わたし自身は、40年間、教授法の改善に没頭してきましたが、いまだ四面楚歌の状況下に置かれており、 相変わらず同情していただいている、ごくわずかな同志の方々のことを顧みると、まことに感激にたえません。
まだまだ不十分ではありますが、仏が衆生を悟りに導くまでの三段階(下種、調熟、解脱)に即して、 熟・脱の結果を示し、根源の種子を見極め、原因と結果との本来一貫した関係を明らかにしたからには、 どれほど言者が卑しくても、信用されるのは当然なことではないでしょうか。それゆえ、もしも、複雑・至難な 人間の教育について、もっともむずかしい道徳教育に関しましても、一定の軌道が見つかり、百発百中の 普遍的な方法を確立することができれば、それは、決して、人類の幸福のために冷遇視されるべきでは ありません。
このことは、生活と無関係な真理問題とは異なり、生活と直接的に関係している価値問題であるだけに、 「日の出後の衆星のごとく」という原理によれば、既成の教育者・教育学者などのは正しい評価ができず、 ますます怨嫉・軽蔑することになるかもしれませんが、そうであれば、それと同じほど、国家社会が被る損害は 莫大なものとなるにちがいない。したがって、直接的な利害を超越し、大局観に立っておられる方であれば、 傍観してはいられないはずでありましょう。しかし、速やかに信用することができなければ、せめては再検討を 加えて、公正な論議が展開されることを切望いたします。そして、価値問題については、学者の常識的な 判断よりも、実際生活の体験証明によって解決する以外に、ほかの方法がないことを、ここで確認して おきたいと思います。
教育改良それ自体がすでに遠大な計画であるのに、よりいっそう根本的な宗教問題にまで深入りするのは、 蟷螂が竜車に向かうようなものであると、最後の同情者までもあきれ果てて遠く離れてしまうでしょう。 だが、そうであってこそ、法華経に説かれている預言が適中することになるので、いよいよ確信を強くして、 毀誉褒貶を顧みず、おおいに訴えなければならない、と思います。なぜなら、一度は離れていった方々も、 やがてそのうちに冷静さを取り戻し、幸いにも本書を読破される機会が得られるなら、そのときには必ずや 悔悟されるであろうことは、法華経のなかに明記されているとうりである、と信じているからです。
そこへいたるまでには数百年も必要であるかもしれませんが、時間がかかればかかるほど、損害も大きく増加 して、真の意味での教育改革などはとうてい不可能になってしまうのではないか、と思われます。だから、 甘い果実のように賞味・珍重されたとしても、その場かぎりの一時的なものになるよりは、苦い種子としての 役目を果たし、たとえ吐き出されたとしても、遠い将来にまでその効果がもたらされるようにすることが、 わたしたちに与えられた使命ではないでしょうか。
研究不足や表現の行き届かないところは、多大なものでありましょう。それでも、どうか、忌憚のないご叱正を、 よりしくお願い申し上げます。
昭和12年8月 日中戦争のさなか 著者記す
今日では、社会におけるあらゆる分野の産業が、最高の能率を挙げなければ存続できないほど進歩して いるにもかかわらず、教育のみが依然として暗中模索の状態のままであり、最低の能率に安んじていることを、 大変残念に思い、国家社会の究極的な根底である教育がそうした様相を呈しているかぎり、国家の前途は 寒心にたえないと嘆かれる、秋月左郁夫翁の見いだすところとなり、創価学会の価値が、6名の青年教師 たちの一年間の実験によって、ともかく証明されるにいたりました。本書は、その報告のついでに、大局的な観点 から同様な教育改良を考慮されている方々にとって少しでも参考になればと、まとめてみたものです。 わたし自身は、40年間、教授法の改善に没頭してきましたが、いまだ四面楚歌の状況下に置かれており、 相変わらず同情していただいている、ごくわずかな同志の方々のことを顧みると、まことに感激にたえません。
まだまだ不十分ではありますが、仏が衆生を悟りに導くまでの三段階(下種、調熟、解脱)に即して、 熟・脱の結果を示し、根源の種子を見極め、原因と結果との本来一貫した関係を明らかにしたからには、 どれほど言者が卑しくても、信用されるのは当然なことではないでしょうか。それゆえ、もしも、複雑・至難な 人間の教育について、もっともむずかしい道徳教育に関しましても、一定の軌道が見つかり、百発百中の 普遍的な方法を確立することができれば、それは、決して、人類の幸福のために冷遇視されるべきでは ありません。
このことは、生活と無関係な真理問題とは異なり、生活と直接的に関係している価値問題であるだけに、 「日の出後の衆星のごとく」という原理によれば、既成の教育者・教育学者などのは正しい評価ができず、 ますます怨嫉・軽蔑することになるかもしれませんが、そうであれば、それと同じほど、国家社会が被る損害は 莫大なものとなるにちがいない。したがって、直接的な利害を超越し、大局観に立っておられる方であれば、 傍観してはいられないはずでありましょう。しかし、速やかに信用することができなければ、せめては再検討を 加えて、公正な論議が展開されることを切望いたします。そして、価値問題については、学者の常識的な 判断よりも、実際生活の体験証明によって解決する以外に、ほかの方法がないことを、ここで確認して おきたいと思います。
教育改良それ自体がすでに遠大な計画であるのに、よりいっそう根本的な宗教問題にまで深入りするのは、 蟷螂が竜車に向かうようなものであると、最後の同情者までもあきれ果てて遠く離れてしまうでしょう。 だが、そうであってこそ、法華経に説かれている預言が適中することになるので、いよいよ確信を強くして、 毀誉褒貶を顧みず、おおいに訴えなければならない、と思います。なぜなら、一度は離れていった方々も、 やがてそのうちに冷静さを取り戻し、幸いにも本書を読破される機会が得られるなら、そのときには必ずや 悔悟されるであろうことは、法華経のなかに明記されているとうりである、と信じているからです。
そこへいたるまでには数百年も必要であるかもしれませんが、時間がかかればかかるほど、損害も大きく増加 して、真の意味での教育改革などはとうてい不可能になってしまうのではないか、と思われます。だから、 甘い果実のように賞味・珍重されたとしても、その場かぎりの一時的なものになるよりは、苦い種子としての 役目を果たし、たとえ吐き出されたとしても、遠い将来にまでその効果がもたらされるようにすることが、 わたしたちに与えられた使命ではないでしょうか。
研究不足や表現の行き届かないところは、多大なものでありましょう。それでも、どうか、忌憚のないご叱正を、 よりしくお願い申し上げます。
昭和12年8月 日中戦争のさなか 著者記す