〇池田大作 アーノルド・トインビー 21世紀への対話〇

多くの知識人に、これからの人類の方向性を示唆する。

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池田大作 アーノルド・トインビー 21世紀への対話 (序文は、1974年にトインビーによって書かれている。)
  第1部 人生と社会
 第5章 社会的動物としての人間
  1、新しい労働運動のあり方

池田 そのように、労働運動のあり方が一つの歴史的・社会的試練に直面している現在、われわれはこれを根本的に再検討する必要があるわけです。 そこで私が思うことは、かつて労働運動が起こった本来の動機と目的は、もちろん労働者の権利の保障と労働条件の改善にあったわけですが、なお これに加えて、人間が生きていくうえでの諸権利の要求や、人間の生存を脅かす社会の病弊に対する抗議なども、新しい目標となりうるということ です。これは基本的には、欲望の追求を優先した運動から、もっと本源的な人間防衛の運動の展開ということになりましょう。ただし、もちろん それによって労働運動の本来の目的が忘れ去られ、現実から遊離した運動になってしまってはなりませんが ー 。
トインビー 新しい運動は、大いに渇望されるべきです。このままの事態が続くかぎり、決して明るい見通しは立たないと思われるからです。 ここで私の考えを結論的に申し上げれば、自由競争経済下の私企業は、そのすべての当事者が自らの貪欲さを抑制できずにいるため、結局は自らに 死の宣告を下している、ということです。自由競争経済の企業の思想における倫理的前提は ー いや、むしろ非倫理的前提というべきでしょうが  - 「貪欲は美徳であって悪徳ではない」という考えです。しかし、この前提は真実に反するものであり、その誤りは報復をもたらします。抑制 なき貪欲は、その自殺的な先見性のなさのゆえに、自己破滅を招くのです。
私は、最大限の私利追求を生産の動機としているあらゆる工業国において、自由競争経済はやがて機能がマヒしてしまうものと信じています。そして、  こうした事態が起きると、やがては独裁政権によって社会主義が実施されることになるでしょう。これはしかし、雇用者だけではなく労働者たちからも、 同じくらい激しい抵抗を受けるはずです。なぜなら、すでに労働者たちは、かって彼らの歴史の第一段階では自分たちを搾取した当の体制自体から、 今日では、たとえ一時的であるにせよ、恩恵をこうむっているからです。
 私は、社会主義の到来を予測する点では、一見、マルクス主義者のようにみえるかもしれませんが、倫理的判断のうえではマルクス主義者ではありません。 マルクスは労働力の雇用者を侮蔑し、労働者たちを理想視しました。これに対して、レーニンは労働者に幻滅し、やがて彼らに圧力を加えました。 私の見解では、マルクスが当時の雇用者たちに加えた酷評は、そのまま今日の労働者たちに当てはまります。人間の本性は、雇用者も労働者も 同じなのです。
池田 まったくおっしゃる通りです。われわれは、人間のもつその普遍的な本性を正しく見きわめ、そこから変革の原理を確立していかなければ なりませんね。従来の変革への試みは、人間自身への究明が不十分なままに、体制や機構の改革だけで社会を変革しようとしてきたところに、 ある一面では成功を収めても、全体としてみれば失敗してきた根本原因があったと思います。
トインビー 人間の本性は貪欲なものです。そして、この貪欲は、抑制されないかぎり大きな不幸を導くことでしょう。したがって、私は、 他のあらゆる人間の活動と同じく経済活動においても、自己超克こそが自己救済への道であると信じます。
 あなたはさきに、労働運動の目標を欲望充足の追求から、より本源的な人間防衛への探求に転ずる必要がある、と述べられました。この点、 私も同感です。しかし、この転換は自主的にはなされないのではないかと思われます。私は、それは一つの独裁的政権によって押しつけられる のではないかと心配するのです。そこでは、あらゆる生産工程にたずさわる当事者たちが、すべてこの体制に身をゆだねざるをえなく なるでしょう。彼らはそれを、現在の私企業制度がもたらすであろう全面的な経済恐慌に比べれば、独裁体制のほうが同じ悪でもまだましだ として、しぶしぶ認めることでしょう。
 なお、私の予想するこの独裁体制が、それにゆだねられた革命の使命遂行に成功するならば、次いで、より民主的に”世界国家”の市民を 代表する、より穏健な政権がこれに取って代わることでしょう - しかも、この政権は何らかの形の世界的独裁権を基盤としたもので あるに違いないと私は思うのです。
池田 他のあらゆる人間の活動と同じく、経済活動においても自己超克こそが自己救済への唯一の道であるという、博士のご主張には私も まったく賛成です。
 しかし、同時に博士は、労働運動における目標が、欲望追求から人間存在の本源の探求へと転換されるべき点については、それは自主的には なされず、何らかの独裁制によって達成されるだろうとの見解を示されました。これに対しては、私は一種の不安をいだいて受けとめざるを えません。もちろん、こうした博士のご見解はあくまでも歴史家としての客観的な推測であって、人類が未来に歩むべき必然の道ではないと 了解しますが - 。
トインビー もちろんそうではありません。私は、独裁制の確立を望むものではありません。むしろ恐れております。独裁制はそれ自体、絶対 悪です。
 ところが、独裁制はしばしば社会の大変革にともなう不可避の代償の一部となってきました。これまで諸民族が、いかに不本意であっても 独裁制を容認してきたのは、自分たちで提示したり想像したりできるどんな代案よりも、独裁制のほうがまだ小さな悪であるようにみえた からです。つまり、もはや機能を失ったとわかった体制を社会から取り除くよりは、独裁制を打ち立ててしまうほうが、はるかに容易だったのです。 日本の徳川家康、漢の劉邦、ローマ帝国のアウグストゥスは、いずれも独裁者でした。この三人は、彼らの前任者たち - 豊臣秀吉、 秦の始皇帝、ジュリアス・シーザー -- の創立した似たような体制が失敗に終わったにもかかわらず、いずれも永続的な独裁制の樹立に 成功しています。これはなぜでしょうか。彼らの成功の因は、一般世論が、より大きな悪を避けるためにはやむをえないと考える範囲内に、 その独裁色を抑えたことにありました。独裁制は、当時、社会的・政治的無秩序という、より大きな悪を前もって防ぐための、より小さな 悪として選ばれたのです。
人間は必ずしも、独裁制を自ら招くように運命づけられているわけではありません。しかし、独裁制が出現するとき、それこそは抑制を失った 利己主義と反社会的行為に対する報いなのです。私は、現在の世界の安定化は - 少なくとも物質面の安定化は - ある程度の独裁力に よらなければ、あるいは不可能かもしれないという危惧をいだくのです。
池田 おっしゃる意味はよくわかります。たしかに、今日の労働運動における自由放任主義や、経済活動における欲望追求第一主義が大多数の 民衆の生活を圧迫し、社会生活を無秩序に陥れていることは、独裁制への移行を推し進める契機となりうるでしょう。また、労働組合の指導者や 企業の経営者たちが、一般民衆を自分たちの犠牲にしてもかまわないという態度を改めないかぎり、独裁制による新しい秩序をを秩序を期待する 機運が強まっていくことは,避けられないかもしれません。
 しかし、このような一見不可避にみえる動向に対しても、これを食い止める道は残されていると私は信じますし、そのために、人類は最大限の 努力をすべきであると考えます。たとえば、私が冒頭にあげた公害産業や兵器産業における組合の抵抗の例は、自己の欲望追求のためではなく、 社会全体の平和と人々の幸福を守るために立ち上がったケースです。こうした目標のもとに組合労働者たちが団結するに至ったかげには、 労働者による自己変革の戦いがあったといえましょう。しかもそこには、利己という本能的欲求ではなく、社会全体の人々の幸福を守る 利他主義の、いわば宗教的ともいえる信念が基盤にあったと思われるのです。さらに、そうした信念に加えて、社会の全体的見地から、 企業が撒き散らす廃棄物の恐ろしさや、その生産性が人類にもたらす脅威を考える英知もあったに違いないと思います。
 こうした例にみられるように、労働運動の指導者や組合員たちが、宗教を根底とした信念と広い見識と勇気をもって、社会全体の調和をめざす 努力をしていくならば、私は、今日の労働運動の帰結が、あながち収拾のつかない社会的無秩序に陥ることはないと信じます。 ただし、ここに私のいう自己変革の条件とは、あらゆる人間同胞の苦悩を自己の生活の奥深くに、痛く感じることのできる人格の確立であり、 また社会全体との調和を図りうる人格とは、慈悲の精神に満ちた人間性のことです。
 もとよりこうした自己変革への戦いは、決して容易な道ではありません。そこには厳しい宗教的実践が要求されましょう。しかし、私は、 人間生活のあり方を正しく解き明かした真実の生命哲学、宗教によるならば、人類が自己変革を成し遂げていくことは可能であると信じるの です。

  第3部 哲学と宗教
 第2章 宗教の役割
  1、文明の生気の本源
池田 世界の歴史をみると、文明というものは、あたかも生命体のように、生成ー発展ー衰亡といった流転を繰り返しているように思われます。
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トインビー 私も、各文明の形態は、その文明に固有の宗教がそこに現れたものだと考えています。また、諸文明を生み出し、それを永らえ させてきた生気の源泉が宗教にあったという点についても、まったく同感です。このことは、三千年にわたるファラオ時代のエジプトについても 、殷の台頭から1912年の清の没落にいたるまでの3000年を超える中国の歴史についても、いえることです。・・・

2、文明の生気の本源
池田 宗教は常に文明の源泉であり、創造性の原動力となってきましたが、これに反して近代以降の西欧文明は、むしろ宗教からの離脱を 起点としているいわば非宗教的文明とみることができます。これは否めない事実であると思いますし、実際に本来の意味での”宗教”の 喪失が賛否両方の意味で、議論の的となっています。しかし、もう一歩”宗教”の概念を広げて考えてみると、近代科学技術文明も、それ なりの”宗教”をもっているとみることができると思うのです。たとえば、物質的な富への憧憬、科学の進歩への信念といったものは、 現代人の”宗教”となっているといえるのではないでしょうか。
  トインビー つまり、近代西欧は、宗教をもつことをやめたのではなく、もつところの宗教を変えたのだとお考えなのですね。まったく 同感です。私も、人間は宗教や哲学なしには生きていけないと信じています。宗教・哲学という二つの観念形態には、明確な区別は ありません。 
池田 宗教の本質的なものは、人間の生き方に関する思想的側面であるはずです。この観点から現代人の物質的富への憧憬や科学的進歩への 信念といったものをみると、それが現代文明において果たしている役割は、まさに宗教と何ら変わるところがないように思われるのです。 このことは、近代の科学技術文明というものを把握し、今日の課題である文明の転換の道を思索するうえで、重要な意味をもつと思います。
そして、そこから - あたかもエジプトにおいてファラオの信仰からキリスト教へ、さらにイスラム教へのと変換が行われたように、 あるいはヨーロッパにおいて宗教改革が行われたように - 現代文明における宗教的変革の道も、明らかになってくると思います。
  トインビー 西欧文明は、いまや近代的な装いをこらして全世界に - あるいは力ずくで、あるいは自主的な形で - 普及しています から、この近代西欧の宗教、ないし諸宗教を見極め、評価することが重要になってきます。一文明における宗教はその文明の生気の源泉であり、 この宗教への信仰が失われるとき、文明の生気の源泉であり、この宗教への信仰が失われるとき、文明の崩壊とすげ替えがなされる -  このことが、私の信じるように正しいとすれば、全世界があるていど西欧化している今日、西欧諸民族の近代宗教史こそが、人類全体の 現状を認識し、その未来を展開するカギとなるでしょう。
西欧文明は、かってギリシャ・ローマ世界の宗教・哲学がキリスト教にその地位を奪われたとき、このギリシャ・ローマ文明に代わって 登場してきました。キリスト教は、以後、西欧の主要な宗教として - いや、事実上、その唯一の宗教として - 17世紀の後半まで 存続してきました。しかし、17世紀も終幕に近づくと、キリスト教は、その長期にわたる西欧知識階級への支配力を失い始めました。 そして、その後3世紀の間に、キリスト教の退潮傾向はますます広範なものとなり、西欧社会の全階層にまで及びました。また、これと 時を同じくして、人類の多数者たる非西欧諸民族の間に、近代西欧の制度、思想、理想 - これはむしろ、逆に理想の喪失というべき でしょうが - などが広まったため、これら非西欧諸民族は古来の宗教・哲学による支配力から解き放たれました。つまり、ロシアでは 東方正教キリスト教の、トルコではイスラム教の、また中国では儒教の、支配力がそれぞれ失われたのです。
私の西洋史観では、17世紀における西欧の宗教的変革は、かつて4世紀にローマ帝国がキリスト教化した後の西洋史の流れの中で、 最も大きな、また最も重要な分岐点でした。つまり、この17世紀の区切り目は、私のみるところ、それ以前の宗教改革で西欧キリスト 教会がカトリックとプロテスタントの二派に分裂したこと、さらにそれ以前のルネサンスでギリシャ・ローマ文明が、どちらかといえば 皮相的な形で西欧社会に復興したことなどに比べると、はるかに重要な歴史的事件なのです。
  池田 たしかに、17世紀には、キリスト教の世俗世界における立場を揺るがせ、諸学問に対する教権を失わせるような、画期的な 事件が相ついで起こっています。・・・
・・・ルネサンスや宗教改革は、キリスト教思想の内側での変革であり、キリスト教信仰そのものを揺るがした事件とはいえません。 これに対して、17世紀の種々の変革は、キリスト教信仰と政治との関係、キリスト教神学と科学その他の学問との関係において、 キリスト教そのものの座を危うくする変革であったということができますね。
トインビー 17世紀に起こった宗教上の変革は、たんに消極的な出来事、つまりキリスト教の後退として、誤って解釈されてきました。 すなわち、人間性は宗教的空白を嫌うものであること、したがってまた、一社会内で古来の宗教が衰退すると、早晩それに代わる一つ ないし複数の宗教が必ず興ってくるということに対して、認識がなされていなかったのです。
私の見解では、17世紀におけるキリスト教の後退によって西欧に生じた空白は、三つの別の宗教の台頭によって埋められました。その 一つは、技術に対する科学の組織的応用から生まれる進歩の必然性への信仰であり、もう一つはナショナリズム(国家主義)であり、 他の一つが共産主義です。



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