〇日蓮大聖人
日蓮大聖人の仏法は、人間が社会の中で価値を創造しゆく確固たる主体となりうる生活変革の原理と、 そのための根本の実践を明かしたものです。
創価学会初代会長牧口常三郎先生は、日蓮大聖人の仏法を継承した日興上人の流れを汲む日蓮正宗に入信した 当初の心境を”言語を絶する歓喜をもって、ほとんど60年の生活法を一新した”と述懐しています。 日蓮大聖人の仏法を「生活法」として受け止め、社会の中で実証できる価値創造の力の源泉となる宗教と 捉えて帰依したのでした。
牧口先生は、入信の動機について、「法華経にあい奉るに至っては、吾々の日常生活の基礎をなす科学、 哲学の原理にして何等の矛盾がない」とも語っています。


〇日蓮大聖人の生涯(創価学会任用試験・教学入門より)
(1)誕生・出家・遊学
日蓮大聖人は、貞応元年(1222年)2月16日、安房国長狭群東条郷の片海(現在の千葉県鴨川市)という漁村で誕生されたと伝えられます。漁業で生計を立てる 庶民の出身でした。
12歳から安房国の清澄寺で、教育を受けられました。
そのころ大聖人は「日本第一の智者となし給へ」との願いを立てられました。父母、そして民衆を救うために、生死の根本的な苦しみを乗り越える仏法の知恵を得よう とされたのです。そして、大聖人は、仏法を究めるために、16歳の時、清澄寺の道善房を師匠として出家されました。
このころ、「明星の如くなる知恵の宝珠」を得られたと述べられています。これは、全仏法の根底と言うべき「妙法」についての知恵と拝されます。
大聖人は、鎌倉・京都・奈良など各地の諸大寺を巡る遊学を開始し、諸経典を学ぶとともに、各宗派の教義の本質を把握されていきました。その結果として、 法華経こそが仏教のすべての経典の中で最も勝れた経典であり、御自身が悟った南無妙法蓮華経を、末法の人々を救う法として弘める使命を自覚されました。
<「末法」とは、釈尊」の仏法が救済の力を失う時代のことで、当時の一般の説では、釈尊が入滅してから2000年以後とされ、1052年に末法に入る と考えられていました。>

(2)立宗宣言
遊学によって妙法弘通の使命とその方途を確認された大聖人は、大難が起こることを覚悟のうえで、妙法弘通の実践に踏み出すことを決意されました。
そして、建長5年(1253年)4月28日の「牛の時」(正午ごろ)、清澄寺で、念仏などを破折するとともに、南無妙法蓮華経の題目を高らかに唱えて 末法の民衆を救済する唯一の正法を宣言されました。これが「立宗宣言」です。立宗とは宗旨(肝要の教義)を立てることです。32歳の時でした。このころ、 みずから「日蓮」と名乗られました。
この立宗宣言の際に念仏宗の教義を厳しく批判した大聖人に対し、地頭(警察権や税の徴収権などを行使した)の東条景信は念仏の強信者であったために激しく憤りました。
そして、大聖人に危害を加えようとしたが、大聖人はかろうじて、その難を免れました。
その後、鎌倉に出られた大聖人は名越の松葉ケ谷に草庵を構えて、本格的に弘教を開始されました。当時、鎌倉の人々に悪影響を与えていた念仏宗や禅宗の誤りを破折しながら、 南無妙法蓮華経の題目を唱え、弘められました。
この弘教の初期に、富木常忍・四条金吾(四条頼基)・池上宗仲らが入信しました。

(3)立正安国論の提出と法難
大聖人が鎌倉での弘教を開始された当時、毎年のように、異常気象や大地震などの転変地異が相次ぎ、大飢饉・火災・疫病 (伝染病)などが続発していました。
特に、正嘉元年(1257年)8月に鎌倉地方を襲った大地震は、鎌倉中の主な建物をことごとく倒壊させる大被害をもたらした。
大聖人は、この地震を機に、世の不幸の根本原因を明らかにし、それを根絶する道を世に示すため、駿河国(現在の静岡県中央部)岩本にある実相寺で諸経典を再確認 されました。この時、日興上人が大聖人の弟子となっています。
そして大聖人は立正安国論を著され、文応元年(1260年)7月16日、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出されました。これが大聖人による最初の 国主諫暁です。国主諫暁とは、国の主権者に対して、その誤りをただし、正義を明らかにして、諌めることです。
立正安国論では、天変地異が続いている原因は、国中の人々が正法に背いて邪法を信じるという謗法(正法を謗ること)にあり、最大の元凶は法然が説き始めた念仏の 教えにあると指摘されています。
そして、人々が悪法への帰依を止めて正法を信受するなら、平和楽土が現出すが、悪法への帰依を続けるなら、経文に説かれている三災七難などの種々の災難が起こる であろうと警告し、速やかに正法に帰依するよう諌められました。
<三災七難とは、穀貴(飢饉による穀物の高騰)・兵革(戦乱のこと)・疫病(伝染病がはやること)の3種の災いと、星宿変怪難(星の運行や輝きが乱れること)・ 非時風雨難(季節外れの風雨の災害が起こること)などの7種の災難をいいます。>
しかし、幕府要人は大聖人の至誠の諫暁を無視し、念仏者たちは幕府要人の内々の承認のもと、大聖人への迫害を図ってきたのです。
立正安国論提出後まもない、ある夜、念仏者たちが、大聖人を亡き者にしようと、松葉ヶ谷の草庵を襲いました(松葉ヶ谷の法難)。
幸い、この時は大聖人は難を逃れ、一時、鎌倉を離れることになりました。
翌・弘長元年(1261年)5月12日、幕府は鎌倉に戻られた大聖人を捕らえ、伊豆の伊東への流罪に処しました(伊豆流罪)。
弘長3年(1263年)2月、伊豆流罪を赦免(罪を許されること)されて鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、病気の母を見舞いに郷里の安房方面に赴かれます。
文永元年(1264年)11月11日、大聖人の一行は、天津の工藤邸へ向かう途中、地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時の戦闘で、門下が死亡し、 大聖人も額に傷を負い、左の手を折られました(小松原の法難)。

(4)竜の口の法難と発迹顕本
文永5年(1268年)、蒙古(=「蒙古」は歴史的な呼称であり、当時のモンゴル帝国を指す)からの国書が鎌倉に到着しました。そこには、蒙古の求めに応じなければ、 兵力を用いるとの意が示されていました。立正安国論で予言した他国侵ぴつ難が、現実のものとなって迫ってきたのです。
そこで大聖人は、時の執権・北条時宗をはじめとする幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧ら、あわせて11ヵ所に対して書状(十一通御書)を送り、公の場での対決を迫りました。
しかし、幕府も諸宗も、大聖人の働きかけを黙殺しました。それどころか、幕府は大聖人の教団を危険視し、その弾圧を検討していたのです。
このころ、蒙古の調伏(敵などを打ち破り服従させること)の祈祷を行う真言僧が影響力を増してきました。また、真言律宗の極楽寺の良観(忍性)が、幕府と結びついて 大きな力を持ちはじめました。大聖人は、民衆と社会に悪影響を与えるこれら諸宗に対しても、一歩も退かず破折を開始します。
文永8年(1271年)に大旱魃(長期間の日照り)が起こった時、良観が、祈雨(雨乞い)をすることになりました。そのことを聞かれた大聖人は、良寛に申し入れを されました。
それは、もし良観が7日のうちに雨を降らせたなら、大聖人が良観の弟子となり、もし雨が降らなければ、良観が法華経に帰伏(帰順し従うこと)せよ、というものでした。
その結果は、良観の祈雨が行われた最初の7日間は雨は一滴も降らず、良観は7日の延長を申し入れていのりましたが、それでも雨が降らないばかりか、暴風が吹くという ありさまで、良観の大敗北となりました。
しかし、良観は自らの敗北を素直に認めず、大聖人に対する怨みをさらに募らせ、配下の念仏僧の名で大聖人を訴えたり、幕府要人やその夫人たちに働きかけて、権力による 弾圧を企てました。
良観は、当時の人々から、徳のある高僧として崇められていました。しかし、実際には権力と結託して、権勢におごっていたのです。
9月10日、大聖人は幕府から呼び出されて、侍所の所司(侍所は軍事・警察を担当する役所。所司は次官のこと。長官は執権が兼務)である平左衛門尉頼綱の尋問を受けました。
この時、大聖人は平左衛門尉に対して仏法の法理の上から、国を治めていく一国の指導者のあるべき姿を説いて諌められました
2日後の文永8年(1271年)9月12日、平左衛門尉が武装した兵士を率いて松葉ヶ谷の草庵を襲い、謀叛人(時の為政者に反逆する人)のような扱い受けて 捕らえられました。この時、大聖人は平左衛門尉に向かって「”日本の柱”である日蓮を迫害するならば、必ず自界叛逆・他国侵ぴつの二難が起こる」と述べて、強く 諫暁されました(第2回の国主諫暁)。
大聖人は、夜半に突然、護送され、鎌倉のはずれにある竜の口に連行されました。平左衛門尉らは、内々で大聖人を斬首することを謀っていたのです。しかし、まさに刑が 執行されようとしたその時、突然、江ノ島の方から”まり”のような大きな光りものが北西の方向へと走りました。兵士たちはこれに恐れおののいて、刑の執行は不可能と なりまりました(竜の口の法難)。
この法難は、大聖人御自身にとっても極めて重要な意義をもつ出来事でした。すなわち、大聖人は竜の口の法難を勝ち越えた時に、縮業や苦悩を抱えた凡夫という迹(仮の姿) を開いて、凡夫の身に久遠元初自受用報身如来という本地(本来の境地)を顕されたのです。
これを「発迹顕本」(迹を発いて本を顕す)といいます。
この発迹顕本以後、大聖人は末法の御本仏としてのお振る舞いを示されていきます。そして万人が根本として尊敬し、帰依していくべき、御本尊を御図顕されていきました。

(5)佐渡流罪
幕府では竜の口の法難後しばらくの間、大聖人への処遇が定まらず、約1ヵ月間、大聖人は相模国の依智(現在の神奈川県厚木市北部)にある本間六郎左衛門(佐渡国の 守護代)の館に留め置かれました。
結局、佐渡流罪と決まり、大聖人は、文永8年(1271年)10月10日に依智を出発し、11月1日に佐渡の塚原の墓地にある荒れ果てた三昧堂(葬送用の堂)に 入りました。大聖人は、厳寒の気候に加えて、衣類や食料も乏しい中、佐渡の念仏者から命を狙われるという厳しい状況に置かれました。
他方、竜の口の法難での弾圧は、鎌倉の門下にも及び、土牢に入れられたり、追放、所領没収などの処分を受けます。そして、多数の門下が臆病と保身から大聖人の 仏法に疑いを起こして退転してしまいました。
翌文永9年(1272年)1月16日、17日には、佐渡だけでなく、北陸・信越などから諸宗の僧ら数百人が集まり、大聖人に法論を挑んできましたが、大聖人は 各宗の邪義をことごとく論破されました(塚原問答)。
2月には北条一門の内乱が起こり、鎌倉と京都で戦闘が行われました(二月騒動)。大聖人が竜の口の法難の際に予言された自界叛逆難が、わずか150日後に現実に なったのです。
同年初夏、大聖人の配所は、塚原から一谷に移されました。念仏者たちに命を狙われるという危険な状況に変わりはありませんでした。
この佐渡流罪の間、日興上人は、大聖人に常髄給仕して苦難をともにされました。また、佐渡の地でも、阿仏房・千日尼夫妻をはじめ、大聖人に帰依する人々が現れました。
大聖人は、この佐渡の地で多くの重要な御書を著されていますが、とりわけ重要な著作が開目抄と観心本尊抄です。
文永9年2月に著された開目抄は、日蓮大聖人こそが法華経に予言された通りに実践された末法の「法華経の行者」であり、末法の衆生を救う主師親の三徳を具えられた 末法の御本仏であることを明かしており、「人本尊開顕の書」といわれます。
また文永10年(1273年)4月に著された観心本尊抄は、末法の衆生が成仏のために受持すべき南無妙法蓮華経の本尊について説き明かしており、「法本尊開顕の 書」といわれます。
文永11年(1274年)2月、大聖人は赦免され、3月に佐渡を発って鎌倉へ帰られました。4月に平左衛門尉と対面した大聖人は、蒙古調伏の祈祷を邪法によって 行っている幕府を強く諌めるとともに、平左衛門尉の質問に答えて、蒙古の襲来は必ず年内に起こると予言されました(第3回の国主諫暁)。
この予言の通り、同年10月に蒙古の大軍が九州地方を襲ったのです(文永の役)。
これで、立正安国論で示されたで示された自界叛逆難・他国侵ぴつ難の二難の予言が、二つとも的中したことになりました。
このように、幕府を直接に諫暁して、二難を予言した御事跡は、これで3度目になります(1度目は立正安国論提出の時、2度目は竜の口法難の時)。日蓮大聖人は 「余に三度のかうみょうあり」と述べられています(三度の高名)。
<高名とは、特に優れた「名誉」「名声」のこと>

(6)身延入山
3度目の諫暁も幕府が用いなかったため、日蓮大聖人は鎌倉を離れることを決意し、甲斐国(現在の山梨県)波木井郷の身延山に入られました。身延の地は、 日興上人の教化によって大聖人門下となった波木井六郎実長が地頭として治めてきました。
大聖人は、文永11年(1274年)5月に身延に入られました。しかし、大聖人の身延入山は、決して隠棲(俗世間から離れて静かに住むこと)などでは ありませんでした。
身延において大聖人は撰時抄、報恩抄をはじめ、数多くの御書を執筆されて、大聖人の仏法の重要な法門を説き示されました。特に、三大秘法(本門の本尊、 本門の戒壇、本門の題目)を明らかにされました。
さらに、法華経の講義などを通して未来の広布を担う人材の育成に全力を注がれました。また、多くの御消息(お手紙)を書かれ、在家信徒一人一人を激励し、 広宣流布の闘争に励み、各人が人生の勝利と成仏の境涯が得られるよう、指導・激励を続けられました。

(7)熱原の法難と出世の本懐
日蓮大聖人」の見延入山後に、駿河国(現在の静岡県中央部)の富士方面では、日興上人が中心となって折伏・弘教が進められ、天台宗などの僧侶や信徒が、 それまでの信仰を捨てて、大聖人に帰依するようになりました。
そのために、地域の天台宗寺院による迫害が始まり、大聖人に帰依した人々を脅迫する事件が次々に起こりました。
弘安2年(1279年)9月21日には、熱原の農民信徒20人が、無実の罪を着せられて逮捕され、鎌倉に連行されました。
農民信徒は平左衛門尉の私邸で拷問に等しい取り調べを受け、法華経の信仰を捨てるよう脅されましたが、全員がそれに屈せず、信仰を貫き通しました。
そして、神四朗・弥五郎・弥六郎の3人の兄弟が処刑され、残る17人は居住する地域から追放されました。この弾圧を中心とする一連の法難を「熱原の法難」といいます。
農民信徒たちの不惜身命(仏道修行のためには身命を惜しまないこと)の姿に、大聖人は、民衆が大難に耐える強き信心を確立したことを感じられて、10月1日に 著された聖人御難事で、「出世の本懐」を遂げられたと宣言されました。「出世の本懐」とは、仏がこの世に出現した目的という意味です。
そして、弘安2年(1279年)10月12日に一閻浮提総与の大御本尊を建立されました(一閻浮提総与とは全世界の人々に授与するとの意)。
熱原の法難において、民衆が不惜の強き信心を表したことこそが、大聖人の大願である広宣流布成就の根本要件なのです。
また、この法難において、大聖人門下は異体同心の信心で戦いました。特に、青年・南条時光は同志を守るなど活躍しました。

(8)御入滅と日興上人への継承
弘安5年(1282年)9月8日、大聖人は、弟子たちの勧めで常陸国(現在の茨城県北部と福島県南東部)へ湯治に行くとして、9年間住まれた身延山を発ちました。 そして、武蔵国池上(現在の東京都大田区)にある池上宗仲の屋敷に滞在し、後事について種々定められました。
9月25日には、病を押して、門下に対し立正安国論を講義されたと伝えられます。
弘安5年(1282年)10月13日、日蓮大聖人は、池上宗仲邸で61歳の尊い生涯を終えられたのです。
なお、大聖人は身延を発たれる前、及び御入滅の日に日興上人を後継者として定め一切を託されました。
大聖人御入滅後、日興上人はただ一人大聖人の不惜身命の広宣流布の精神と行動を受け継がれました。また広宣流布の継承者の自覚から、謗法厳かいの精神を貫き、 国主諫暁を推進するとともに、御書を末法の聖典と拝して研さんを奨励し、行学の二道に励む多くの優れた弟子を排出しました。