2025年07月04日<ふたりの祖国 276
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 16>
翌18日には東条英機が陸軍大臣に就任することが決まった。海軍大臣は吉田善吾中将が留任。
外務大臣には日独伊三国同盟推進派の松岡洋右が起用された。
東條も松岡も蘇峰の弟子のようなもので、登用される日を心待ちにしていた。近衛の坊ちゃんも
ようやく目が覚めたかと、誉めてやりたいくらいだった。
(なあクマ公、お前が軍帽を取った東坊が、今では陸軍大臣さまだ)
蘇峰はクヌギの大木を見上げて語りかけた。
山王草堂航空隊と異名をとったハシブトガラスのクマ公は姿を消して久しい。いつか戻ると思い
ながら待ちわびているうちに、もう3年が過ぎたのだった。
第二次近衛内閣の発足とともに、喜ぶべきことが三つもあった。一つはイギリスが日本に大幅に
歩み寄ってきたことだ。
これまで香港やビルマを経由して重慶の蒋介石政権を支援していたが、7月18日から三カ月間
この援蔣ルートを閉ざすと、駐日イギリス大使のクレーギーが約束したのである。
しかも同日、イギリスのチャーチル首相は議会下院において、「重慶政府が英国の勧告に応じて
日本と和平を締結すれば、英国政府は和平成立後、治外法権の撤廃、租界の返還、および不平等条約の
破棄の交渉に応じる用意がある」と表明した。
ドイツとの戦争で手一杯のイギリスが、何とか日本との対立を避けてアジアの植民地や利権を確保
しようとする苦肉の策だが、長年イギリスの重慶政府支援に苦しんできた日本にとって胸のすくような
朗報だった。
もう一つは新体制を確立するという近衛の表明を受けて、政友会や民政党などの既成政党が先を
競って解党の動きを始めたことだ。
7月19日の東京朝日新聞は、「近衛内閣成立の機会に解党 中島派の態度決定」という見出しを
つけて、政友会中島派が解党を決定したと伝えている。民政党の代議士会も、近衛新党に「挙党一致し
無条件参加」を決していた。蘇峰が長年主張してきた政党の解体と挙国一致の体制作りが、これで
一挙に完成したのだった。
2025年07月03日<ふたりの祖国 275
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 15>
第二次近衛内閣の発足に当たって蘇峰がもっとも気にかけているのは。東条英機が陸軍大臣に
抜擢されるかどうかだった。
しばらく連絡がなかったのでどこにいるかも知らなかったし、米内内閣がわずか半年で総辞職
するとは思ってもいなかったので、組閣人事について見当もつかない。だが事ここに至ってからには、
陸軍大臣になって支那事変以来の難局を乗り切ってもらいたかった。
「近衛公。陸相と会見」という見出しの後には、次のように記されている。
「近衛公は17日夜、宮中より退出するや直ちに華族会館に入り、午後9時10分畑陸相の来訪を
求め、まず後任陸相の推薦方を要請した後、陸相の辞表提出の経緯と事情につき質した」
これに対する畑陸相の対応は次の通りだった。
「政治体制強化に対する陸軍内部の強烈な要望に基づき辞表を提出するに至った経過を説明し、
次いで国際情勢緊迫に対応すべき外交の転換並に刷新につき陸軍として要望を述べ、これに
基いて互いに意見を交換」
この短い文章から実に多くのことが分かる。米内内閣が急に総辞職せざるを得なかったのは、
畑陸相が辞表を提出したからである。陸軍内部の強烈な要望とは日独伊三国同盟を結ぶことだが、
親英米派が多い海軍の大将である米内光政は、同盟締結に踏み切れなかった。
そこで畑陸相は辞表を出すことで内閣をつぶした。この頃の国務大臣は天皇から直接任命されて
いるので、首相には罷免する権限がなかった。だから閣内で意見の対立が生じ、首相の方針に
反対する大臣が辞表を出せば、閣内不一致で総辞職しなければならなかった。
陸軍も海軍もこの仕組みを使って政府を意のままにする横暴を繰り返している。近衛文麿が
早々に陸海相にあって跡継ぎ大臣の推薦を頼んだのは、こうした轍を踏むまいと考えてのことだ。
これに対して畑陸相は外交の転換と刷新、すなわち日独伊三国同盟の締結と親英米派の一掃を
求めたのだった。
2025年07月02日<ふたりの祖国 274
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 14>
昭和14年(1939)9月3日に始まった第二次世界大戦において、ドイツ軍は圧倒的な
強さを発揮した。
翌年4月にはデンマークとノルウェー、5月にはオランダとベルギーを占領。6月14日には
パリを陥落させてフランスを降伏させた。
この成功に刺激されたイタリアもドイツ側として参戦し、ヨーロッパの大半が枢軸国の
勢力圏となった。
影響は極東の日本にも及んだ。ドイツ、イタリアがヨーロッパを席巻している間に支那事変を
解決し、東亜新秩序を確立するべきだという意見が朝野の大勢を占めたのである。
この声に押されて再び首相の座についたのが、知名の歳(数え年50)を迎えた近衛文麿だった。
昭和15年7月16日に米内光政内閣が総辞職すると、翌日の夜に後継内閣を組織せよとの
大命が近衛に下った。
この年、我らが徳富蘇峰は数え年78になった。古希どころか喜寿を過ぎたが、筆鋒も舌鋒も
健在で、言論界の長老としての役割はますます重くなっている。第二次近衛内閣の方針はいかにと
案じながら、山王草堂の二階の部屋で朝刊が来るのを待ちわびていた。
夜はまだ明けきっていないが、夏の小鳥たちは早起きである。山王草堂の林に住みついている
スズメやアジサシ、イソヒヨドリなどの鳴き声が、窓の外から聞こえてきた。
やがて新聞配達員が玄関まで石段を駆け登ってくる足音が聞こえた。蘇峰は東京日日と
東京朝日、読売の三紙を取っているが、あれは朝日の配達員である。特徴ある足音でそれが分
かった。
新聞には「大命、近衛公に降下す」という大見出しが踊り、陸海両相ろ会見する近衛文麿の
姿が写っていた。「近衛公、陸相と会見、後任奏薦要請」の見出しもあり、その横に「東條中将
けふ帰京」と記されていた。
東条英機は満州国に出張していたが、奉天飛行場からの便で急きょ帰国することになったので
ある。
2025年07月01日<ふたりの祖国 273
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 13>
朝河がオリーヴとの約束をはたせたのは、十月になってからだった。九月中は論文の
執筆に追われ、ヒトラーについて考える時間がなかったのである。
10月8日付の手紙で、朝河は「人間としてのヒトラーの運命に魅せられています」と
書き、彼の運命は神聖ローマ帝国のフリードリッヒⅠ世やハインリッヒⅢ世の悲劇に匹敵する
と評している。
しかしヒトラーの悲劇はより古典的な性格のもので、彼が入り込んだ破局は誕生以来の
全生涯の論理的帰結であると書き、次のようにつづけている。
「彼自身の天性と彼自身の行動によって一歩一歩駆り立てられ、遂に逃げ場のない状況に
立ち至ったのです。唯一可能な脱出は突然の覚醒か引退、あるいは前線での名誉ある戦死
のいずれかですが、彼の性格はそれを選びとることができないと思われます。彼は怨恨と
辛酸のなかに生まれ、そのなかで育てられ、それらにつき動かされてきました。したがって
生涯を通じて、一連のコンプレックスと精神病の犠牲者だったのです」
注目していただきたいのは、朝河がこの手紙を書いたのは第二次世界大戦が始まった直後
ということだ。ドイツは周辺諸国を次々と降伏させ、破竹の快進撃をつづけていた。
それなのに朝河は、ヒトラーには精神的疾患があり、逃げ場のない窮状に追い詰められた
と指摘している。この二週後に書いた村田勤に宛てた手紙では、ヒトラーはやがて自殺する
と予言しているほどだ。
その理由について、朝河は次のように記している。
「今や最近の13カ月間、彼は自分の党の過激分子あるいは自分の精神の働きのいずれかを、
もはや統制できなくなっております。彼は狂気のようにみずからの信念を裏切り、ロシアへ
の救援とポーランドの凌辱を止むを得ないものと感じたのです。それによってすべての国を
敵に回し、より賢い人間、スターリンの大手詰めにかかったのです」
だからヒトラーの没落はドイツ国民を破滅させるこっとになると朝河は断定しているが、
ドイツと手を結んだ日本も似たような状況に追い込まれつつあった。
2025年06月30日<ふたりの祖国 272
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 12>
「しかし朝河先生、ヒトラーはそれを実現するために人道に反した許しがたい手段を
用いています」
それはユダヤ人への迫害だと、オリーヴが鋭い目をして訴えた。
「ナチス政権は3年前に、ニュルンベルク人種法を制定してユダヤ人の公民権を奪いました。
これ以後差別と迫害が強化されましたが、昨年の11月のはユダヤ人が破壊と略奪の対象に
される事件が起こりました」
「水晶の夜のことかね」
「11月9日から10日の朝にかけて、ドイツ全土でユダヤ人を標的にした暴動が起こり、
多数のユダヤ教の教会やユダヤ人の商店が略奪や放火の被害を受けました。これは偶発的な
事件のように報道されていますが、ヒトラーの許可を得てナチスの突撃隊が実行したことが
明らかになりつつあります」
オリーヴが所属する部署はドイツの分析を担当していて、現地の情報局員や親米的な知識人
から情報を得ていた。
この事件のきっかけは、ポーランドがドイツ国内にいる自国籍のユダヤ人の帰国を禁止する
法令を発したことである。
ユダヤ人問題をドイツに押し付けようとするポーランドのやり方に激怒したヒトラーは、
法令が発効する前にポーランド籍のユダヤ人を本国に送り返そうと摘発に乗り出した。
そうして二万人ちかくを国境近くまで移送したが、ポーランドは国境を閉ざすことでこれに
対抗した。両国のやり方に反発したポーランド系ユダヤ人の青年が、ユダヤ人の窮状を世界に
訴えようと11月7日にパリのドイツ大使館員を射殺した。
これを知ったヒトラーは、報復のための暴動を突撃隊に許可したのである。水晶の夜という
呼び名は、破壊されたユダヤ人の店の窓ガラスが飛び散って、水晶のように見えたからだった。
「私もヒトラーと彼の政権を危ぶみながら注視している。どう評価しているかは後日知らせる
から、今日は勘弁してほしい」
朝河は話に深入りすることを
避けた。せっかくの晩餐なのに、こんな暗い話をつづけたくは
なかった」
2025年06月28日<ふたりの祖国 271
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 11>
食事が進み、場がなごやかになった頃、
「先生はヨーロッパでの戦争をどのように見ておられますか」
オリーヴが本題に入った。顔立ちも話し方も母親のイナによく似ていた。
「難しい質問だね。範囲が広すぎて、ごこに焦点を当てたらいいか分からない」
「失礼しました。それではドイツの何を問題にして、何を突き止めたいと望んでいるのだろう」
「ヒトラーとナチス党が何を望み、このい先どう動くかです」
「そのテーマなら私も考えていることがある。ひとつはヒトラーの人格や性格、ひとつは彼が
何を目ざしているかということだ」
朝河はそう言い、彼が書いた『我が闘争』は読んだかとたずねた。
「読みました。英語に訳されたものですけど」
「ヘンリー、君は?」
「ドイツ語で読みました。あまり感心はしませんでしたが」
ヘンリーが箸を手元に置き、礼儀正しく食事を中断して答えた。
「ドイツ語で読めば、下層の貧しい家で生まれたヒトラーが、家族や社会に対して怨みと怒りを
持ちながら育ったことがよく分る。だから文章が陰うつだし、教養の裏打ちがないために直観と
独善によって物事をとらえている。そんな彼がどうしてあれほどドイツ国民を熱狂させ、支持を
得ることができたのか。理由は何だと思うかね」
「国民の願望を理解し、解決策を示したことではないでしょうか」
「その通り。しかもヒトラーはドイツ民族と自分を同化し、窮状を脱するために何をなすべきか
国民に示した。そうして類まれなるリーダーシップを発揮して、第一次世界大戦で敗れたドイツの
復興を成し遂げたのだ」
「先生はヒトラーとナチス党を是認しておられるのですか」
「今のドイツのやり方は認められないが、ヒトラーによってドイツが敗戦の屈辱から再起したと
いう事実については、評価するべきだと考えている」
2025年06月27日<ふたりの祖国 270
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 10>
「イナは元気?早いもので3年もたったけど」
「元気です。近頃は愛犬のサリーと散歩をするのが日課になっています」
サリーとは茶色の秋田犬だと、オリーヴは犬の種類まで説明した。
案内された窓際の席には、スーツを着てネクタイをしたヘンリー・ナンブが待っていた。
「先生、長い間連絡もしないですみません」
ヘンリーは引き締まった体付きで、相変わらず颯爽としていた。
「君たちが知り合いだとは思わなかったな。仕事上の付き合いだと言ってたけど」
「国務省の情報調査局と陸軍省の情報局は、定期的に情報交換会を開いております。その
会合でオリーヴさんと会い、先生と親しいと聞いて話がはずんだのです」
「思いがけないことがあるものだね」
「世界の情勢が緊迫していますから、我々も陸軍省も新しい情報機関を設置する必要があると
考えています。そこで準備会を開いて計画を練っているのです」
「オリーヴもその担当になったのかい」
「ええ、陸軍省に入った時から希望していましたから」
オリーヴは以前、一つの機密情報を得ることが数万の軍勢に勝る働きをすることがあると言っていた。
その目的に向かって、着実に歩んでいるのだった。
「ヘレンはどうしている?元気かね」
「今はカリフォルニア大学で学んでいますが、やがてイェール大学の大学院に入りたいと言っています。
ヘレンの目標は今も朝河先生です」
「そうかね。何でも遠慮なく相談してほしいと伝えてくれ」
再会を祝して赤ワインで乾杯し、日本食風にアレンジしたコース料理を食べた。店のシェフの一人が
日系人なので、朝河の口に合いそうなものを用意してもらったのである。まずは鮭と玉ねぎのカルパッチョと、
ジャガイモとニンジンと牛肉の煮付けだった。
「肉じゃがか。懐かしいね」
朝河はオリーヴの配慮が嬉しくて相好を崩した。
2025年06月26日<ふたりの祖国 269
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 9>
月が変わった9月1日、ドイツ軍は電撃的にポーランドに侵攻し、首都ワルシャワを占領した。
ヒトラーが独ソ不可侵条約を結んだのはこの作戦をソ連に邪魔されないためであり、条約の中には
ポーランドを両国で分け合う秘密条項もあったのだった。
この事態を受けて、ポーランドと友好条約を結んでいたイギリスとフランスはドイツに
宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。1939年9月3日のことである。
(人類の英知と良心は、ついに戦争を止めることができないのか)
朝河がセイブルック・カレッジの部屋で悶々たる日を過ごしていると、久々にオリーブ・
パリッシュから電話があった。
「先生、お久しぶりです。これからニューヘイヴンに行くのですが、明日か明後日にお目に
かかることはできませんか」
陸軍省に入って以来、話し方もすっかり大人びていた。
「明日は空いているけど、何か特別の用事でもあるの」
「ヨーロッパでの戦争と東アジアの情勢について、先生のお考えを聞かせていただきたいのです。
これは仕事ではなくプライベートな用事ですが」
オリーブはそう断り、朝河が知っている人も同席するので食事でもどうだろうかと誘った。
「気になるね、誰だろうか」
もしやイナではないか、朝河はそう思ってどっきりとした。
「仕事上の付き合いのある方です。明日の午後4時に、大学に迎えの車を向かわせます。
図書館の研究室でいいでしょうか」
約束の時間に迎えに来たのは、陸軍省の制服を着た男だった。黒塗りの軍用車で駅に向かい、
ニューヘイヴン・グリーンの近くのレストランに案内した。市内でも一、ニを争う高級店で、
オリーブは店の前で待っていた。
イナを駅まで見送ったとき以来の再会である。ブルーのワンピースを美しく着こなし、
豊かなブロンズの髪をふんわりと巻き毛にしていた。
「先生、お元気そうで何よりです。母からもよろしくお伝えするように申しつかっております」
2025年06月25日<ふたりの祖国 268
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 8>
日米通商航海条約の半年後の破棄を通知された日本は、誠実に反省し過ちを正そうとする
どころか、ますますアメリカを敵視し、英米を打ち負かすための方針を取り始めた。
そのために必要と考えたのは、2年前に結んだ日独伊三国防共協定を軍事同盟にまで
引き上げ、米英仏と軍事的に対峙することだった。これによってドイツにソ連への圧力を
強めてもらい、苦戦がつづいているノモンハンでの戦況を打開しようという考えもあった。
そこで8月8日、陸軍大臣の板垣征四郎は五相(首相、蔵相、外相、陸相,海相)会議で
即座に三国軍事同盟を結ぶべきだと主張したが、参戦条項を盛り込むことに反対する者も
多く可決には至らなかった。
特に昭和天皇が英米との協調を強く求めておられたので、板垣や陸軍次官の東條英機らも
強く出ることができなかったのである。
その間にもノモンハンの戦況は悪化していた。シベリア鉄道によって兵員と兵器を次々と
送り込んでくるソ連軍に対し、日本は兵力でも装備でも遅れを取るようになっていた。
中でも戦車や装甲車、自走式火砲などを大量に配置したソ連の機甲部隊は強力で、装備
に劣る日本軍は肉弾戦をくり返して死傷者を増すばかりだった。
「だから早く三国軍事同盟を結んで、東西からソ連を挟み撃ちにする必要があると言って
おるのだ」
板垣陸相や平沼麒一郎首相は再度五相会議を開き、天皇の反対を押し切ってでも同盟を
結ぼうとしたが、8月23日になって思いがけないことが起こった。
ドイツのヒットラーとソ連のスターリンが、独ソ不可侵条約を結んで互いに攻撃しない
ことを誓ったのである。これによって外交戦略が根底から崩れた平沼首相は、「欧州の
天地は複雑怪奇」という声明を発して総辞職した。
日独伊軍事同盟の早期締結を迫っていたヒトラーが、土壇場で裏切るとは想像すら
していなかった日本の政治家たちは、朝河が指摘した通り「速に変移する微妙なる現実」
に対応できなかったのだった。
2025年06月24日<ふたりの祖国 267
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 7>
「未来の歴史を思い通りに作ろうとするのは、少しでも過去の歴史を研究した者なら
考えもしない乱暴で愚かなことで、天に対しても不遜きわまりないことは、第一次
世界大戦から今日までの年ごとの変化の激しいさを見ても明らかです」
だから人にできることは、経験から帰納した(導き出した)堅実な原則の大綱
(骨組み)のみ把握して、これを焦ることなく大器晩成的に理解するため、刻々と
変化する実情に適応しながら考えを深めていく以外にない。朝河はそう指摘して
いるが、これは歴史学者として彼が守りつづけて来た研究態度でもあった。
なぜ未来の歴史を思い通りに作ろうとしたり、予見や予断を持って現実を解釈しては
いけないのか。その理由について朝河が記した文章は、意味が深く示唆に富んでいる
ので、原文のまま紹介させていただきたい。
「是ハむしろ原則というべく、之を方針といへば既に自縛に陥るの患あり候。原則すらも
直行ハ到底不可能二て、常に誠実に反省し常に謙遜に改竄の余地を保つを要し候に、
まして方針を固定するにおいては、之が為に視界を限られ、その界内(範囲内)の時間
及び事柄すら直視し得ず、速に変移する微妙なる現実に遅れて、自己を窮地に導く
こと必然のこと二候」
つまり執着や思い込みをもって現実を把握しようとすれば、自分が見たいよにしか
現実をとらえられない。そうした間違った認識をもとに政策を立てれば、必ず窮地に
おちいるというのである。
これは具体的には、東西文明調和論を曲解して中国侵略をつづけている祖国日本への
忠告である。朝河がこの文章につづけて「是れ小生が今後の政治家が活眼ある史家的
素養を要するを信じる所以に候」と書いていることからも、それはうかがえる。
だがここには朝河の歴史学者や人間としての基本姿勢までもが吐露されている。
「常に誠実に反省し、過ちを正す姿勢を保っておく」とは、執着を離れて如実知見に
至る要諦なのである。
2025年06月21日<ふたりの祖国 265
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 5>
「ルーズベルト大統領は、ノモンハン事件をきっかっけにしてソ連と接近しようと
している。そういうことだろうか」
朝河の脳裏に広大なユーラシア大陸の地図が浮かんだ。ソ連は西ドイツ、東に日本
という敵を抱え、窮地におちいっているはずだった。
「その通りだよ。大統領は日独伊の枢軸国と戦うに当たって、ソ連を味方に引き込み
たいと考えている。日米通商航海条約を破棄して石油の輸出を止めれば、ソ連の戦いを
側面から支援することになる。何しろ両軍の勝敗を決するのは、戦車や飛行機だからね。
ガソリンがなければ、日本は途端に劣勢に立たされるだろう」
「・・・・・・」
「そこで君の知恵を借りたいのだが、もし条約の破棄を通告したなら日本はどうすると
思う。日米関係を修復するために、従来の方針を変えようとするだろうか」
「方針を改めるなら、通告を撤回することもありえる。大統領はそう考えているんだね」
「外交は常に取引だからね。日本が危機の深刻さに気付いて中国への侵略を中止して
くれるなら、共産主義者と手を組みよりははるかにいいと、多くのアメリカ国民が
思うはずだ」
「強権的に諫められた場合、日本人の行動は二つに分かれる。状況を冷静に見て反省するか、
感情的なって敵対行動をエスカレートさせるか。そのどちらを選ぶかは、諫める側の
態度や配慮にもかかっているよ」
「オッケイ、寛一。スティムソンは圧力をかけることで、日本の方針を変えさせたいと
望んでいる。そのためにはどんな交渉をすべきか、君の知恵を借りたいそうだ」
フィッシャーが朝河を呼び出したのは、これを伝えるためだった。
「私も日本は方針を改めるべきだと考えている。そうして日米融和がはかれるなら、
どんな協力も惜しまないよ」
それから5日後の7月26日、アメリカ政府は半年後の来年1月に日米通商航海条約を
破棄すると日本に通告した。
その間に日本が方針を改めるなら、変更する余地もあるという含みを持たせた決断
だった。
2025年06月20日<ふたりの祖国 264
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 4>
「その噂は以前からあったが」
実行されていない。朝河は今度もそうであってほしいと願った。
「これはヘンリー・スティムソンからの知らせだ。まず間違いないと思う」
「スティムソン前国務長官は共和党だろう。民主党のルーズベルト大統領とは
不仲だと聞いたが」
「ところが日本やドイツとの対立が激しくなるにつれて、強硬派のスティムソンが
陸軍から支持されるようになっている。それに彼はS&Bの有力メンバーだからね」
フィッシャーが秘密めかしてウインクした。S&Bとはイェール大学の出身者で組織
するスカル・アンド・ボーンズという秘密結社だった。
「大統領も日米戦争に備えて、彼を取り込んでおいた方がいいと考えたのだろう。
陸軍長官に抜擢される可能性もあるそうだ」
「日米通商航海条約を破棄すれば、両国をつなぐ条約はなくなる。国交断絶に等しい
決断を、どうして急に下すのだろうか」
この条約は幕末に結ばれた日米和親条約、日米修好通商条約を改正して引き継いだ
もので、両国の国交と通商を保証する唯一の絆だった。
「直接の原因は、言うまでもなく中国に対する日本の侵略だよ。近衛首相の声明を
見ても明らかなように、日本は東アジアから欧米諸国を追い出して自国の支配下に
おこうとしている。だからイギリスも我が国も、これを阻止するために中国に大量の
経済支援を行っているのだ」
「まだ日本には親米派がたくさんいる。昭和天皇もそのお一人だ。何とか条約を破棄
せずに、日本の中国侵略をやめさせることはできないだろうか」
「寛一、私もそう願っているが、これにはもうひとつ、きわめて繊細な外交問題がある。
そのきっかけとなったのは、ノモンハンにおける日ソ両国の戦争だ」
日本は2カ月前の5月から、ハルハ河をめぐる国境争いからモンゴル・ソ連の連合軍と
ノモンハンで戦っている。最初は日本が優勢だったが、ソ連がシベリア鉄道を使って
軍隊や兵器を送り始めると、次第に劣勢に追い込まれていた。
2025年06月19日<ふたりの祖国 263
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 3>
あの時朝河は、出かけるのをやめてミリアムに付き添っているべきだった。だが
研究発表会に欠席すれば多くの人に迷惑をかけるし、ようやくめぐってきたチャンス
を逃すことになる。
だからミリアムが何も言わないことをいいことに、具合が悪いと気付かないふりを
して家を出た。幸い大事には至らなかったが、二人の気持はあの時から大きく隔たった。
それがミリアムの病状を悪化させたのではないかという後悔は、朝河の胸にずっと
残っていた。
「日本人さんよ。いつまでも停まっているなら、料金払って降りてくれねえか」
タクシーの運転手に迫られ、朝河は追憶をふり切ってセイブルック・カレッジに
向かった。
三日後、朝河はアーヴィング・フィッシャーに呼び出された。急に何だろうと
いぶかりながら部屋を訪ねると、フィッシャーは床に敷いたマットの上で柔軟体操を
していた。
朝河より六つ上の72歳だが、体は驚くほど柔らかい。両足を真横に広げて腰を
おろす股割りができるほどだった。
「やあ寛一、一緒にどうだい」
股割りの姿勢で前屈をしながら声をかけた。
「遠慮するよ。膝や股関節を痛めそうだ」
「年を取るほどに体が硬くなるのは運動が足りないからだ。こうした動かしていれば、
筋肉はそれに応じて柔軟性を保ってくれる」
「確かにその通りだろうが、それは君の30年にわたる鍛錬の賜物だよ。それで急ぎの
用件とは何だろうか」
「ちょっと待ってくれ。汗をふくから」
フィッシャーは仕切りの向こうに入り、白いドレスシャツに着替えてきた。
「実は君の祖国に関わる問題でね。知らせておいた方がいいと思って」
「何か良くないことが、起こったのではないだろうか」
「その通り。大統領は近々、日米通商航海条約を破棄することにしたそうだよ」
フィッシャーはコップの水を一息に飲んで告げた。
2025年06月18日<ふたりの祖国 262
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 2>
通り雨の足は早い。ヨークストリートを北に向かい、セイブルック・カレッジに
着く頃には雷雨はおさまり、空は青々と晴れていた。雨のシャワーが空気を洗い
地面を冷まし、涼やかな風が吹いている。
朝河はふと、マンスフィールド通りの旧宅を見に行ってみようと思った。5年前
に家を手放してセイブルック・カレッジに引っ越して以来、一度も訪ねたことがない。
そのことが急に気になった。
「運転手さん、このままマンスフィールド通りに入り、坂道を2キロほど登ってくれ」
昔通い慣れた道は、今もそのままである。両側のポプラ並木をながめながらしばらく
走ると、二階建てで三角屋根の旧宅があった。
朝河は少し離れた所にタクシーを停め、車の中からかつての我が家をながめた。
今は別の家族が住んでいて、クリーム色だった外壁は青を基調としたさわやかな色
に塗り替えられている。朝河が仕事部屋と寝室にしていた二階の窓は開け放たれ、
部屋の中ではしゃいでいる幼な児たちの声が聞こえた。
朝河がここを出ていく決断をしたのは、玄関のドアに腹を割いた鶏が吊るされ、
「Death by hanging」(縛り首だ)と大書される事件が起こったからである。
そのドアも付け替えられ、明るいレモン色に塗られていた。
この家に東京大学の辻善之助が訪ねて来たのは1911年だから、もう28年も前で
ある。その2年後に妻のミリアムが34歳の若さで他界した。パセドー氏病の手術を
したが術後の経過が悪く、帰らぬ人となったのである。
わずか8年の結婚生活で、子供を授かることはなかった。ミリアムは望んだが、研究
に没頭したかった朝河は積極的になれなかった。
今でも思い出すと胸が痛むことがある。その日朝河は学界での研究発表のために、
ボストンに出かけなければならなかった。ところが出かける直前に、ミリアムが頭を
抱えて座り込んだ。具合が悪いことは顔色を見れば分ったが、気丈なミリアムは
心配かけまいと何も言わなかった。
2025年06月17日<ふたりの祖国 261
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 1>
7月中旬はニューヘイヴンで最も暑い季節である。ロングアイランド湾に面して
いるので湿気も多く、時にスコールのような雷雨に襲われる。
朝河寛一がニューヨークへの出張からもどり、ニューヘイヴン駅に降り立ったとき
も町は雷雨に襲われていた。 大粒の雨が地面を叩き、空には稲妻が走って雷鳴がとど
ろいている。
時は、1939年7月18日、駅の時計は、12時半をさしていた。別の急ぎの用も
ないので、近くのレストランで昼食でもとっていれば雷雨も去るだろうが、朝河はタクシー
乗り場へと向かった。
久々に遠出したせいか、体の芯が疲れている。しかも昨日コロンビア大学で行われた
東洋史の研究会で、盧溝橋事件以来の日本の中国侵略が厳しく批判されたことが、
精神的にも大きな痛手になっていた。
槍玉に挙がったのは南京虐殺と武漢三鎮の占領、そして昨年11月3日に近衛文麿
首相が発した「東亜新秩序建設声明」である。中でも問題視されたのは次の一文だった。
「惟うに東亜における新秩序の建設は、我が肇国の精神に淵源し、これを完成するは、
現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり」
いったい日本人は、何を根拠にこんなことが言えるのか。東洋史を読み解けば、
日本は中国の魏や唐の冊封国(従属国)だったことは明らかである。それなのにかつて
の宗主国である中国を侵略し、冷酷非道の振舞いをしている。
これが現代の日本国民に課せられた光栄ある責務と言うなら、日本人はこれから先も
中国人の犠牲をかえりみずに侵略をつづけるつもりなのか。
そんな批判と質問を次々にあびせられたが、朝河には何ひとつ反論することができな
かった。全くその通りなのだから、何とも言いようがない。ただこの声明は日本主流と
なっている東西文明の調和論にもとづくもので、中国侵略を目的としているのではないと
釈明するのが精一杯だった。
朝河はそうした疲れと敗北感を抱えたままタクシーに乗り込み、イェール大学へと
向かった。
2025年06月17日<ふたりの祖国 261
安部龍太郎 第十章 理性と熱狂 1>
7月中旬はニューヘイヴンで最も暑い季節である。ロングアイランド湾に面して
いるので湿気も多く、時にスコールのような雷雨に襲われる。
朝河寛一がニューヨークへの出張からもどり、ニューヘイヴン駅に降り立ったとき
も町は雷雨に襲われていた。 大粒の雨が地面を叩き、空には稲妻が走って雷鳴がとど
ろいている。
時は、1939年7月18日、駅の時計は、12時半をさしていた。別の急ぎの用も
ないので、近くのレストランで昼食でもとっていれば雷雨も去るだろうが、朝河はタクシー
乗り場へと向かった。
久々に遠出したせいか、体の芯が疲れている。しかも昨日コロンビア大学で行われた
東洋史の研究会で、盧溝橋事件以来の日本の中国侵略が厳しく批判されたことが、
精神的にも大きな痛手になっていた。
槍玉に挙がったのは南京虐殺と武漢三鎮の占領、そして昨年11月3日に近衛文麿
首相が発した「東亜新秩序建設声明」である。中でも問題視されたのは次の一文だった。
「惟うに東亜における新秩序の建設は、我が肇国の精神に淵源し、これを完成するは、
現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり」
いったい日本人は、何を根拠にこんなことが言えるのか。東洋史を読み解けば、
日本は中国の魏や唐の冊封国(従属国)だったことは明らかである。それなのにかつて
の宗主国である中国を侵略し、冷酷非道の振舞いをしている。
これが現代の日本国民に課せられた光栄ある責務と言うなら、日本人はこれから先も
中国人の犠牲をかえりみずに侵略をつづけるつもりなのか。
そんな批判と質問を次々にあびせられたが、朝河には何ひとつ反論することができな
かった。全くその通りなのだから、何とも言いようがない。ただこの声明は日本主流と
なっている東西文明の調和論にもとづくもので、中国侵略を目的としているのではないと
釈明するのが精一杯だった。
朝河はそうした疲れと敗北感を抱えたままタクシーに乗り込み、イェール大学へと
向かった。
2025年06月16日<ふたりの祖国 260
安部龍太郎 第九章 戦争の渦 40>
応接室を兼ねた特別室には、東条英機と武藤章が待っていた。武藤は蘇峰と同じ
熊本県の出身で、参謀副長として武漢三鎮攻略作戦の立案をしていた。
「先生、素晴らしい講演をありがとうございました。我々の望むことを言って
いただきました。なあ、武藤君」
「ええ」
武藤は無口で控え目だが、幕末に人斬りと恐れられた志士のような凄みがあった。
「先生のおおせの通り、人目につかないようにここで待っていました。これを見て
下さい」
東條が差し出したのは「東亜新秩序建設の声明」と表題をつけた文書だった。
「これを近々政府が発しますが、ご意見をお聞かせ下さい」
うながされて蘇峰はざっと目を通した。
「今や、陛下の御稜威に依り帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して」で
始まる近衛内閣の声明文である。これにつづけて日本の目的は東亜新秩序の建設であり、
東亜における国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を
目ざしたものだという文言が並んでいた。
「この先東條次官は、親日政権の樹立を目ざしているのではないのかね」
「その通りです。すでに国民党の有力者に働きかけをしております」
「それならその旨の呼びかけを、どこかに差し挟んだらどうかね。たとえば」
蘇峰は内ポケットから愛用の万年筆を取り出して次のような案文を記した。
「帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。
帝国は支那国民がよく我が真意を理解し、もって帝国の協力に応えむことを
期待す。もとより国民政府といえども従来の指導政策を一擲し、その人的構成を
改替して厚生の実を挙げ、新秩序の建設に来り参ずるにおいては、あえてこれを
拒否するものにあらず」
一読した東條と武藤は、顔を見合わせてうなずき合った。
「これを近衛首相に提案いたします。おそらく反対はなされないでしょう」
蘇峰の提案を採用した近衛声明が発表されたのは、11月3日のことだった。
2025年06月14日<北斗七星>
・・・・
勝ち続ける組織の極意・・・・
「当たり前のことを当たり前にやっていくこと。これしかない」
・・・・
2025年06月14日<ふたりの祖国 259
安部龍太郎 第九章 戦争の渦 39>
「何かね」
蘇峰はまだ幸せな夢から覚めきれていなかった。
「我が皇軍は明日のも武漢三鎮を占領するでしょう。この喜びを国民にラジオで伝えて
いただきたいのです。27日に東京中央放送局で『武漢三鎮攻略記念放送』を行います
ので、先生、我が大和民族の使命が英米に支配されたアジアの解放と、皇道にもとづいた
新秩序の建設にあることを知らしめて下さい」
東條は冷静に次の事態を見据えていた。
「分かった。ついてはひとつ頼みがある」
「おっしゃって下さい」
「君は私の弟子だと公言しているようだが、今後は謹んでもらいたい」
「気付きませんでした。この東坊がご迷惑になるような言動をしたのでしょうか」
「君はやがて日本を背負って立つ人物になるだろう。その際に私と古くから親しく
していると言えば、私は情実に駆られて君の応援をしていると取られかねぬ。
それでは私の言論人としての面目が立たぬし、君の司令官としての立場を汚すこと
にもなりかねぬ」
「分かりました。以後は決して申しません」
「これも祖国のためだ。どこで会っても初対面のふりをしれくれたまえ」
10月27日、蘇峰は日本放送協会で武漢三鎮の占領を祝うラジオ演説を行った。
このたびの勝利は日露戦争における203高地の攻略や、日本海海戦の勝利に匹敵する
ものだが、我々の目的は敵に勝つことではなく、アジア人のためのアジアを築くことだと
力説した。
「我らは大陸経営には日支の協力を必須とします。すでに必須すれば、互いに諒解し、
互いにその長短を補わねばなりません。そしてそれは現時の興亜運動において、自ら
指導者をもって任ずる日本人が、自ら支那および支那人を諒解し、あわせて支那人をして
日本および日本人を諒解させるための道をつくさなければなりません。これは決して
性急短慮の仕事ではなく、人類愛、隣保相親の大道に頼らなければならないのです」
1時間ちかい演説を終えて放送ブースを出ると、秘書の中島が特別室に案内した。
2025年06月13日<ふたりの祖国 258
安部龍太郎 第九章 戦争の渦 38>
東條英機陸軍次官が言ったように、日本政府と軍部は支那事変の不拡大方針を改め、
蒋介石政権が新たな拠点とした武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)に、九個師団を
送って攻略することにした。
南京から漢口に逃れて徹底抗戦をつづける蒋介石政権を壊滅させるためで、武漢三鎮と
同時に広東を攻略し、英米による支援ルートも断ち切る作戦だった。
大本営は7月4日に五個師団と一旅団からなる第十一軍と、四個師団からなる第二軍に
戦闘体制をととのえるように命じ、8月22日には武漢三鎮の占領を目的とする出撃命令
を下した。
第十一軍は長江(揚子江)の両岸をさかのぼって武漢をめざし、第二軍は徐州方面から
大別山をこえて武漢に迫った。
日本の兵力は35万人。航空機は500。長江をさかのぼって兵糧、弾薬を補給する
艦船は120隻である。
これに対して蒋介石の国民党軍の兵力は120個師団110万人。航空機は200と
ラジオのニュースで報じられた。
まさに日中間の天下分け目の戦い。これに勝利すれば国民政府を降伏させ、支那事変を
終わらせることができる。蘇峰も日本国民もそう期待し、ラジオから流れる大本営発表に
一喜一憂しながら耳を傾けていた。
そんなさなかの10月25日、東条英機から電話があった。
「先生、我が皇軍はやりましたよ」
やや甲高い興奮した声が耳に飛び込んできた。
「そうか、勝ったか」
「敵は武漢三鎮に火を放ち、撤退を始めたという報告がありました」
「それでどうだ。蒋介石を捕らえたか」
「まだ確認が出来ていませんが、真っ先に逃げ出したようです。いずれにせよ、
これで蒋介石は終りです」
「良くやった。陸軍次官どのの大手柄だ」
国民総動員法を発令し、大軍を投入して乾坤一擲の勝負に出た判断は正しかったのだ。
蘇峰は手放しで東條を激賞しながら、喜びと安堵のあまり涙声になっていた。
「さっそくですが、先生にお願いがあります」
東條が急に口調を変えた。
2025年06月12日<ふたりの祖国 257
安部龍太郎 第九章 戦争の渦 37>
「先生方には大変感謝していると、朝河君から聞いたことがあります」
中桐は仕方なく話を合わせた。
「留学2年目にはニューハンプシャー州のダートマス大学を訪ね、いろいろな相談に
乗ってやった。あの時は欧米視察の旅のついでにロシアまで足を伸ばし、文豪レフ・
トルストイ翁を訪ねたよ。1896年10月のことだ。朝河君を訪ねたのは翌年の
5月だが、それでも福島の沢庵漬と干物だけはおみやげに持っていったものだ」
「ひとつだけ不躾な質問をお許し下さい。朝河君は日本の孤立と窮地を大変心配して
います。それでも日本はアジアの盟主となって欧米と対決するべきだと、先生は
お考えでしょうか」
「私の講演を聞いてくれたなら、今さら説明する必要はあるまい。朝河君とは意見を
異にすることになったが、彼の研究実績とイェール大学での活躍には敬意を表する。
機会があれば朝河君にはそう伝えてくれたまえ。どちらの考えが正しいかは、これから
の歴史が証明するだろう」
蘇峰は自信たっぷりに言って、丁重に中桐を引き取らせたのだった。
夏の盛りは山中湖畔の双宣荘に行き、暑さを避けながら『近世日本国民史』や
『日日だより』の執筆をするのが、蘇峰の年中行事になっている。この年の7月中旬
から双宣荘にこもっていて、足利での蘇峰会にもここから出かけ、講演を終えると
山中湖畔に直行した。
蘇峰はこの地で妻の静子と心おだやかで快適な日々を過ごしながら、『日日だより』
に「双宣荘偶言」と題する身辺雑記を連載し始めた。
第一回目の執筆は7月19日、発表は7月27日だが、その中に次の一文がある。
「今朝は例によりて、午前5時に起床した。霊峰富士は、我らよりも早起きだ。すでに
壮厳なる全身を現わして、我らを待ち設けていた。いつ見てもよく、何時見ても気持ちが
清々しくある。長靴にて朝霜を踏み分け、落葉松林の中を逍遥する快適は、とても
言葉には尽くせない」
蘇峰は偶言の連載を32回、9月9日までつづけるが、その間にも大陸での戦況は
激化していた。
2025年06月11日<ふたりの祖国 256
安部龍太郎 第九章 戦争の渦 36>
「いいえ、福島尋常中学校(現安積高校)時代の友人です」
言葉に福島訛りがあるのはそのためだった。
「わしに何の用だろうか」
「朝河君と先生はきわめて親しいと聞いておりますが、近頃の『日日だより』などを
拝見しておりますと、ずいぶん彼とは意見を異にしておられるようでございます」
そこで真意を知りたいと思って講演会を聞きに群山から出てきたが、自分には納得で
きないことが多かったという。
「浅学菲才の私ですから、先生のご高説を理解できなかったのかもしれません。大変
不躾とは存じますが、朝河君からの手紙を読んでいただき、感想を聞かせていただけ
ないでしょうか」
中桐はジャケットの内ポケットから国際便の封筒を取り出し、中身だけを蘇峰に
差し出した。
日付は1938年3月6日。朝河が志那事変と南京での大虐殺事件への非難を中桐に
伝えたものである。その中で朝河は、アメリカの世論が日本に対してきわめて厳しいのは、
日本政府や軍部の説明が理解を得られていないからだと記している。
しかも、上海以西、特に南京での日本軍の残虐行為が世論を決定的に悪くしたと書き、
米国の知識人の間では日本がソビエトや中国との戦いで窮地におちいると予測する者が
多いとつづけている。
そして日本人の反省力に一縷の望みを託しているが、実行しようとすれば内乱になるかも
しれないと結んでいるのである。
「中学時代の朝河君は、大変な勉強家だったそうですね」
蘇峰は手紙の内容には触れず、明後日の方へ話をずらした。
「暗記した英語の辞書のページを片っ端から手べて、残った表紙だけを桜の根元に埋めた。
地元ではその桜を朝河桜と呼んでいるそうじゃないか」
「朝河桜は今も春には美しい花を咲かせ、後輩たちの励みになっております」
「彼がダートマス大学に留学する時、勝海舟や大隈重信先生などに呼びかけて渡航費用を
捻出したのは、このわしだよ」
2025年06月10日<ふたりの祖国 255
安部龍太郎 第九章 戦争の渦 35>
「いわんや我が国のごとく万世一系の皇統をいただき、三千年来不息、不断、生々発展の
国家に住し、この君とこの国とに一切を捧ぐべきは当然の義務であるばかりでなく、無二
の光寵(恩寵)であり無類の本望であります。 この道をもって国民を導けば、誰もが
会得し、感銘を受け、日々の暮らしの中で実践するようになるでしょう。これは断じて
疑いのないことであります」
そう言って右手の拳を突き上げると、会場からわれんばかりの拍手が起こった。中には
興奮のあまり「わしもやるぞ」とか「天皇陛下万歳」と叫ぶ者もいた。
蘇峰はふらふらになりながら控え室にもどり、秘書の中島勝彦が用意した熱いお茶を
飲んだ。蘇峰の偉いところは講演料も謝礼もいっさいもらわず、交通費も自分で負担して
いることだ。しかも会の後の親睦会にも嫌な顔ひとつせずに出席し、会員のどんな質問にも
対応している。まさに蘇峰会による皇室中心主義の普及に身命を賭していたが、時局の
激化とともにその主張も少しずつ変質していったのだった。
親睦会は午後五時からである。ひとまず旅館にもどって風呂にでも入ろうと考えていると、
「先生にお目にかかりたいという方がおられます。朝河寛一先生の同級生の中桐確太郎と
おおせですが、お通ししてよろしいでしょうか」
中島が取り次いだ。
「朝河君ならよく知っているが、名刺はお持ちかね」
中には壮士を気取って議論をふっかけてくる輩もいるので、蘇峰は近頃慎重になっていた。
「持っておられないそうですが、昨年まで早稲田大学で教鞭を取っておられたそうでござい
ます」
「それなら問題あるまい。通してくれ」
入ってきたのは田舎臭い麻のジャケットを着た小柄な老人だった。老人といっても
朝河の同級生なら蘇峰より十歳若いはずだった。
「無理なお願いをしてすみません。中桐確太郎と申します」
「朝河君の同級と聞いたが、東京専門学校の頃かね」
2025年06月07日<ふたりの祖国 254
安部龍太郎 第九章 戦争の渦 34>
陛下へのご進講のために作った草稿を参考にしながら、蘇峰は熱弁をふるった。
「日本は自ら何事をなしつつあるか知らなければなりません。我らは今や風と潮とに
誘われて、大洋の真ん中に乗り出しております。この上は後へ引き返す術はなく、
ただ直前勇進して彼岸に達するしかなおのです」
蘇峰は演台を叩いて聴衆を鼓舞し、次のように語った。
日本は島国だから外に出て行くのに適していないという考えは間違っている。
日本人の祖先はユーラシア大陸を歩いて渡ってきたし、南洋の波濤を越えて日本にやってきた。
だから日本人は大陸国民の資質を持っていて、今まさに本領を発揮して
大陸や海洋を目ざしている。
「日本は決してアジア大陸やアジア大陸をめぐる海洋を、我が物として専有せんとするもの
ではありません。ただ我らは欧州人がアジアを侵食し、その家主たるアジア人を軒下に
立たせて風霜にさらすがごとき不合理を許すわけにはいかないと言うのです。日本は
アジア人とともに定めんと欲しているだけであります」
それには日本人自らが、大陸国民であり海洋国民である度量の広さをもって事に当たるべき
である。蘇峰はそう呼びかけてから、演台におかれた水を一杯飲んだ。
真夏の盛り、しかも足利は盆地特有の蒸し暑さで、立っているだけで汗がしたたるほど
だった。
「アジア人のためのアジアの実現に向かって前進するのが日本人の運命でありますが、その
ためには何が必要か。それが今日の主題である日本学の建立なのであります」
日本学の土台は言うまでもなく皇室中心主義であり、これを全国民の共通認識とすることは
支那事変を勝利に導くために必要なばかりか、我が日本が国際的な指導者として天職を
まっとうする上でも必要なことである。
日本が皇室中心主義の国であることは、三千年来の歴史や伝統、思想や信仰を見れば
明々白々であると力説し、蘇峰は次のような痛切な言葉で講演をしめくくった。
2025年06月06日<ふたりの祖国 253
安部龍太郎 第九章 戦争の渦 33>
「陛下にご進講だと」
さすがの蘇峰もそこまでは考えていなかった。
「宮内省への段取りは本官がいたします。先生は五日間ご進講を行い、皇国日本の使命が
アジア人のための大東亜を実現することにあり、陛下はその先頭に立たれるべき神聖な
お立場であることを肝に銘じて、もとい、ご理解していただきたいのでございます」
東條は満州国にいる頃、皇帝溥儀をいいように操ってきた。その癖が日本にもどっても
抜けないのだった。
翌日蘇峰は千葉県市原市に行き、蘇峰会の発会式で「皇室中心主義」についての講演を
した。11日は宮城県白石のが発会式で「吾等は何故に戦うか」ついて、12日には
仙台の蘇峰会宮城支部で「日本の世界史に与えたる影響」について、14日には岩手県
一ノ関の発会式で「皇室中心主義の根本義」について講演をした。
そして7月5日から9日まで、賀陽宮常憲王の屋敷で5日にわたって天皇陛下にご進講
を行った。
時に陛下は38歳。蘇峰は皇国日本の先頭に立っていただきたいと誠心誠意ご進講
申し上げたが、平和外交、英米との親善を願っておられる陛下にご理解いただけたか
どうかは分からなかった。
大役の疲れも何のその。8月6日には栃木県足利でも蘇峰会発会式で「日本学の建立」
について講演した。織物同業組合会館に集まった5百人ちかい聴衆の前でに、蘇峰は
濃紺の絽の着物をまとって颯爽と立った。演壇の右手には「国民精神総動員」、
左手には「徳富蘇峰大先生」と大書した垂れ幕がかかげてあった。
「皆さん、今や世界は欧米支配の暗黒時代を脱し、再生の朝を迎えようとしています。
ドイツはゲルマン民族の一大統合を、イタリアはローマ帝国の再生を目標とし、我が
日本は皇道日本のアジア化を目標として力強く前進をつづけております。皇道日本の
アジア化は何か言えば、アジアをして日本の指導のもとにアジア人をアジアたらしめる
こと。すなわち皇室を中心として日本を統一し、日本を中心としてアジアを欧米の
支配から自立させることであります」
2025年06月05日<ふたりの祖国 252 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 32>
「君は石原莞爾君と気脈を通じていたのではなかったのかね」
「石原参謀は満州国建国の立役者ですが、国運のかかった重大な局面で腰がくだけるようでは、
同志の交わりを結ぶことはできません」
石原が支那事変の不拡大方針を取ったことを、東條は裏切られたように感じている。
そこで拡大方針を取る武藤章参謀副長と手を結び、板垣征四郎を陸軍大臣にすることで、
近衛内閣に拡大方針を取らせることに成功したのだった。
「こうした事態に備えて、先月5日には国家総動員法が施行されました。先生もご存じだと
思いますが、これで政府は議会の承認を得ることなく、自由に人員や物資を統制することが
できるようになりました」
「それで私に頼みとは」
「第一点は、今まで通り新聞、ラジオ、講演会などで挙国一致で戦局にのぞむように訴えて
いただくことです」
東條がずり落ちロイド眼鏡を指先で押し上げた。
「言われなくともそうしている。今や蘇峰会は全国に20の支部を持ち、会員は一万人を
こえている」
「第二点は、近衛首相が時局の困難にひるんで英米に屈しないようにすることです。
あの御仁は国民の人気こそ高いものの、お公家育ちなので・・・」
「わしはこれまで三度も首相と会い、進言を申し上げたよ」
東條の押しつけがましさが鼻につき、蘇峰は話をさえぎってそう言った。
「むろん存じております。しかし首相の弱気の原因は、天皇陛下が支那事変の拡大に反対して
おられることにあります。それゆえこれを矯めなければ、問題の根本的な解決にならない
と存じます」
「矯めるなどと、滅多なことを口にするでない。相手は陛下だぞ」
「失礼しました。陛下には平和主義、英米協調のお考えを改め、皇国日本の本義に立ち
返っていただかなければなりません」
そこで蘇峰にご進講をしていただきたいと、東條は表情ひとつ変えずに話をつづけた。
2025年06月04日<ふたりの祖国 251 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 31>
「それなら本官も十個もらおう。ひとつずつ箱に入れてくれ」
東條が誘いに乗り、挨拶回りの手みやげにすると言った。
「挨拶回りとは、昇進でもしたのかね」
蘇峰は東條の雰囲気が今までとちがうと感じていた。
「実は昨日近衛内閣の改造があり、陸軍大臣の杉山元大将が免じられ、板垣征四郎中将が
後任になられました。それに先だって本官が5月30日に陸軍次官に任じられ、板垣大臣を
補佐することになったのです」
「それは驚きだ。今朝の新聞には載ってなかったようだが」
「発表が遅かったので、朝刊には間に合わなかったのだと思います」
「杉山君から板垣君に代えるとは、近衛首相は方針を変えたのかね」
蘇峰は運ばれたレモネードを飲んだ。6月になって急に気温が高くなったので、冷たく甘酸っぱい
レモネードは喉越し良く腹におさまった。
「おおせの通りでございます。チャハルで戦いに手こずったり南京の征圧に手間取ったのは、
近衛首相や杉山大臣が不拡大方針を取り、三個師団の増派しか認めなかったからでございます。
このために我が軍は兵糧弾薬の補給もままならず、塗炭の苦しみにさらされました。陽高や
南京であのような不幸な事件が起こったのは、そのためでございます」
「チャハル兵団の指揮を執っていたのは、東條参謀ではないのかね」
「窮地にさらされた前線を統率するのは、容易なことではありません。そこで二度とこのような
ことが起こらないよう、本官は大軍を投入して敵の拠点を叩くべきだと、近衛首相に進言いたしました」
「それが功を奏して板垣大臣と東條次官体制になったのか」
「我らは来週早々にも九個師団、約35万人を派兵して武官三鎮の征圧にかかります。
兵力で圧倒して国民党政権を崩壊させ、親日政権を樹立するのです」
武幹三鎮とは湖北省にある武昌、漢口、漢陽の三都市で、南京を攻略された蒋介石政権が
新たな拠点としていた。
2025年06月03日<ふたりの祖国 250 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 30>
「あなた、トンボさんから使いの方が参られました」
妻の静子は東條英機のことを昔の仇名で呼びつづけている。何度か注意したが、
直す気はないようだった。
「ほう、何の用だ」
「6月1日に戻り5日には出かけますと伝えたところ、4日の午後2時に檸檬屋でお目に
かかりたいとのことでした」
これを預かっていると、静子が蘇峰あての巻紙を差し出した。東條英機がしたためたもので、
「国家の難局に対処すべく、本省に呼びもどされました。お力添えをいただきたいで、
檸檬屋までお越しいただきたい」と簡略に記されていた。
指定された日時に、蘇峰は檸檬屋に行った。東京日日新聞社の車を回してもらい、約束より
15分ほど早く着いたが、鮮やかなレモン色に塗られた洋式ビルの前には、高級将校用の
黒塗りの車が2台停まっていた。
二階の店に上がると、チャイナドレスを着た店主の美穂がビップルームでお待ちですと
言った。
「何人かきているのかね」
「いえ、お一人でございます」
「車は2台停まっていたが」
「お供の方がおられますが、店の外で待っておられるそうです」
どうした訳だろうかといぶかりながら部屋に入ると、東條が軍服姿で革張りのソファに
腰をかけていた。以前より少しやせて顔がしぼんだようだが、それをおおい隠すほど
きらびやかな勲章を軍服の胸につけていた。
「先生、ご無沙汰しております。お呼び立てしてすいません」
東條は昔と同じように腰が低かった。
「どういうことかね。国家の難局に対処するとは」
蘇峰は深々と腰を下ろし、店の名物のレモネードを注文した。
「先生、当店では昨年からホットケーキを始めました。これはハチミツとレモンのソースを
かけると大変おいしく、当店の看板メニューになっておりますが、いかがでしょうか」
美穂がほほ笑みながら勧めた。
2025年06月02日<ふたりの祖国 249 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 29>
昭和13年(1938)2月18日(旧暦1月25日)は、徳富蘇峰の満75歳の
誕生日である。
幕末の文久3年(1863)に熊本県上益城郡で生まれた蘇峰は明治維新の頃に
幼少期を過ごし、自由民権運動、日清、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、志那事変
の荒波を言論、出版人として生き抜き、今や帝国日本の輝けるオピニオンリーダーと
なった。
前にも紹介したが、昭和11年11月には「蘇峰先生文章報国五十周年祝賀会」が近衛
文麿を会長として帝国ホテルで行なわれ、全国から支持者千余人が集まった。その中には
光永星郎電通会社、長与又郎東大総長、深井英五日銀総裁、野間清治講談社社長などの他、
中野正剛。鳩山一郎、辻善之助らの姿もあった。
祝辞の中で近衛文麿は「文壇の老将」と呼び、光永星郎は「国宝的存在」と持ち上げた
が、驚くべきは蘇峰の人気と影響力が若い世代にまで及んでいることである。『日本読書
新聞』は昭和12年7月1日号に、慶応大学が学生に行なった「もっとも推薦するジャーナ
リスト」のアンケート結果を載せている。
その結果、第一位は徳富蘇峰256票で、第二位の福沢諭吉151票を大きく引き離して
いる。慶応の学生たちは大学を創設した福沢諭吉よりも、我らが蘇峰先生を推したのである。
この時期と信頼に応えるべく、蘇峰はこの年も春から精力的に活動していた。4月3日は
「日本国民よ自ら顧みよ」と題するラジオ放送で戦時に向けた心構えを説いたし、各地の
蘇峰会を飛び回った。
四月 九日 印旛支部
十六日 名古屋支部
五月 十七日 志賀支部
二十四日 福岡支部
二十七日 水俣支部
またこの間には、松江市で行なわれた「国民精神総動員演説会」や、熊本市で行なわれた
「横井小楠先生七十周年記念会」にも出席して講演をしている。そうして6月1日に東京の
山王草堂にもどりと、思いがけない知らせが待っていた。
2025年06月01日<公明が勝てば 東京、日本が変わる
迫る都議選 斎藤代表に聞く>
「13日(金)告示、22日(日)投票」
公明が都政の要役担い、全国先導の政策生み出す
2025年06月01日<識者が語る 都議会公明党>
<東京・八王子市長、元都財務局経理部長 初宿 和夫氏>
新公会計制度 公明が都の財政危機を救った
私が都財政局にいた時、都は自治体の”倒産”に当たる財政再建団体への転落が
危ぶまれる状況でしたが、都庁全体の危機感は薄く、職員として焦りを感じて
いました。 そうした中、財政再建のために動いてくれたのが都議会公明党で
した。公認会計士でもある東村くにひろ議員が、議会で「新公会計制度」の
導入を提案した時の衝撃は、今でも鮮明に覚えています。
・・・・事業の効果を検証する「事業評価」によって1兆円超の財源が
生まれる・・・・
<東京大学大学院医学系研究科 特任教授 中川恵一氏>
がん対策 陽子線導入 多くの患者に恩恵 ・・・・
検診強化さらに
<日本大学文理学部 教授 末富 芳氏>
子ども・若者 差別なく支える政策 東京から ・・・・
所得制限ない保育料や高校授業料無償化・・・・
質と多様性確保も
2025年05月31日<ふたりの祖国 248 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 28>
「貫一、新年おめでとう。今年もよろしく頼むよ」
「アーヴィング、こちらこそよろしく。今年が君の健康と研究にとって、実り多き年
であるように祈ってるよ」
「お互いに頑張ろう。ところが君の祖国には危機が迫っている。スティムソンから
聞いたのだが」
ルーズベルト大統領は日米通商航海条約の破棄を検討するように各省に通達した。
フィッシャーはそう告げた。
「それはいつ発令されるのだろうか」
「我が国にとっても経済的な影響は大きいからね。慎重に検討している段階だ。
もし日本の石油会社の株を持っているのなら、今のうちに手放しておいた方が
賢明だよ」
経済学者であるフィッシャーは、冗談とも本気ともつかぬことを言って電話を
切った。
日米通商航海条約は1894年に結ばれ、1911年に改定された。関税自主権や
移民の扱いなど日米関係の根幹をなすもので、これを破棄されれば日米貿易もストップ
する。石油輸出禁止などよりはるかに厳しい措置だった。
こうした逆風にさらされながら、朝河は友人の中桐確太郎に3月6日付で手紙を書いた。
その中で次のように訴えている。
「(米国の世論が反日的になったのは)上海以西、殊に南京ニての日本軍卒の暴殺、掠奪、
強姦の行為が世論を確定したる為二候。此事実ハ日本には報道少かるべく候へども、当方
ニては新聞通信にみならず、引き続きて米国官憲の政府への報告あり、志那に在る日本の
将校も外人に対しては之を認識したることが度々報知され候間、日本以外には普く知られ
居候」
そして朝河は、日本は紀元以来初めての国難を自ら招いている。それは日本国民の
精神に反していて、今後はますます危険思想や運動が増えていくと思われるので憂慮に
堪えないと記している。
「日本人は反省力あるを長所と致候ことのみ意を強め候へども、反省を実行するには
非常の内国紛争を経過すべしと恐れ候」
祖国は滅亡の危機に瀕している。朝河はそう認識していたのだった。
2025年05月30日<ふたりの祖国 247 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 27>
日本軍は11月12日の南京総攻撃に当たって、海軍航空隊による大規模な爆撃を行なった。
それは標的も正確ではない無差別爆撃で、米国民間人を非難させるために南京沖合の長江
(揚子江)に停泊していたアメリカ海軍の砲艦パナイ号と商船3隻を撃沈してしまった。
パナイ号には米将校5人、兵士54人、米大使館員5人、民間人10人が乗っていたが、
3人が死亡、48人が重傷を負った。また3隻の商船は米国スタンダード・オイル社の
タンカーで、パナイ号に先導されて非難していたところだった。
事件発生後、大本営海軍部は中国船舶と誤認しての攻撃だと釈明したが、アメリカでは
意図的だとして日本非難が巻き起こった。実は日本軍は南京攻撃の前に、8月15日から
執拗な空襲を行なっていた。長崎の大村や済州島、台北の松山飛行場から飛び立った爆撃機が、
118回(諸説あり)にわたって南京を空襲した。
これに対してアメリカやイギリスなどは、人道に反するし自国の施設が被害を受けると
講義したが、日本は聞き入れようとはしまかった。その揚句のパナイ号事件だけに、
アメリカの反日世論は一気に激化し、AFL(アメリカ労働総同盟)は12月17日に
日本製品の不買運動の組合に指示したほどだった。
そこに南京での日本軍の暴虐行為が伝えられた。民間人の殺害、略奪、強姦、放火など、
現地の特派員が送ってくる写真は正視に耐えられないものばかりだった。
南京在住の欧米人は国際委員会を組織し、城内の八分の一を南京安全区として逃げ込んで
くる市民を保護しようとしたが、日本兵は安全区にまで踏み込んで狼藉を働いた。
そのためアメリカ国内では、日本に対する制裁を強化するべきだという意見が続出した。
この頃の日本に対する制裁を強化するべきだという意見が続出した。この頃の日本は
石油の9割をアメリカからの輸出に頼っていたので、これを止めるべきだという意見が
共和党、民主党から上がった。
そんな不穏な空気の中で1938年の年が明け、1月7日に朝河の部屋の電話がなった。
親友のアーヴィング・フィッシャーからだった。
2025年05月29日<ふたりの祖国 246 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 26>
ところが天皇による平和の効力が及ぶのは国内だけで、海外からの荒波が打ち寄せるたびに
日本は混乱をきたし、経済力や軍事力を持った者が台頭してくる。
平清盛や足利義満、織田信長は海外との交易にとって天下を制覇する力を得たし、明治維新も
欧米列強の外圧がきっかけになって起こった。
「まとまりのない話で恐縮だが、私が言いたいのは天皇の平和によっておだやかさを保ってきた
日本人が、明治維新以後に海外に植民地を求めるようになった。そこには天皇の平和を理解しない
外国人が住んでいる。朝鮮や台湾においては皇民化政策をある程度進める余裕があったが、中国では
どう対応していいか分からないまま軍事力によって一定の成功をおさめた。しかも侵略地を拡大
したために、ますます武力に頼らざるを得なくなった。だから現地の軍人も日本国民も、心の歯止めを
失ったまま敵意に駆り立てられているのではないか。そう考えているのだよ」
不幸なことに朝河の予見は最悪の形で的中した。11月半ばまでに上海全域を占領した日本軍は、
11月後半に中華民国の首都である南京に向かって、約7万の現地軍を進軍させた。
上海から南京まではおよそ400キロ。山ひとつ見えない赤土の大地を延々と歩かなければ
ならない。参謀本部は兵站を確保できないことと準備不足を理由に作戦に反対したが、現地軍は
独断で進軍を開始した。
ところが兵糧も防寒服も暖を取るための薪も不足していたために、進軍の途中で村々を襲って
現地調達せざる得なかった。また行軍中や夜営中に敵のゲリラに襲われ、一時たりとも気を抜けない
状態が二週間以上もつづいた。
日本軍は12月10日に南京の総攻撃にかかり、13日に陥落させたが、軍隊の規律も
保てないまま城内に乱入して略奪と暴行の限りを尽くしたのである。
事件の惨状はアメリカの新聞でも報道され、犠牲者の数は二万人から三万人にのぼると伝えられたが、
この事件以上に全米の注目を集めたのは、日本の空軍によるアメリカ艦船の撃沈事件だった。
2025年05月28日<ふたりの祖国 245 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 25>
「ボートン君、私のその問題を解きたくて、日本人の国民性についての研究を始めたところだ」
まだ正確に分っているわけではないと、朝河は正直に打ち明けた。
「だから質問に対する答えを持っていないが、研究の切り口だけを示して義務をはたすことに
しよう。ひとつは日本民族の成り立ちに関わる問題だ。日本人は縄文人と弥生人という二つの
民族層から成っていると考えられている。縄文人は狩猟採集によって活きてきた土着の民族であり、
弥生人は稲作や先進技術をもって渡来した征服民族だ」
「先生は『源頼朝による幕府の樹立』の中で、天皇は日本の征服部族の家父長であり、
家父長的な普通法を作り上げたと書いておられますね」
ボートンは朝河の論文を精読していた。
「今からおよそ三千年前、弥生人による縄文人の征服が行われたことが、日本人の精神構造に
大きな影響を与えたと私は見ている。両者はやがて混血していくけれども、支配する朝廷と
支配される民族という政治形態は長くつづいた。朝廷が保管する諸家の系図が、『尊卑文脈』
と名付けられるのがその象徴だ」
この支配と被支配の関係は日本人の深層心理にも大きな影響を与え、各人の中に支配する
強者と支配される弱者の心が宿るようになった。だから朝廷側の支配者は支配される者の反感を
知って警戒するし、支配される民族も権力の正当性を全面的に認めているわけではない。
仕方なく服しているが、いつかは取って代わろうという野心をもちつづけている。
「だから弥生人が渡来して以後数百年間は争乱が絶えなかった。この問題を解決するために
生み出されたのが家父長制的な天皇ではなく、国民を代表して神々に仕える卑弥呼のような
霊能者的な天皇だと私は考えている。この性格は歴代の男性天皇にも受け継がれ、すべての
国民が天皇の意に従う形で日本人の単一化が成し遂げられた。言わば天皇による平和だ。
それを尊重しているからこそ、日本人は秩序に従順でいられるのだと思う」
2025年05月27日<ふたりの祖国 244 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 24>
「日本政府はどうして、そんな実体のない飾り立てた言葉で開戦の理由を説明したので
しょうか」
ウォーナーが首をかしげた。
「その原因は教授が『推古朝の日本彫刻』で研究された時代までさかのぼります。推古天皇
の摂政をつとめた聖徳太子は、十七条の憲法の第一条に『和をもって貴しとなす』と記し
ました。それ以来日本人の心に、戦争は悪だという強い道徳的規範が根付きました。
ですから中国に対しても、道徳的立場を守っているという姿勢を取りたいのです」
「しかしそんな身勝手な理屈が国際社会で通じないことくらい、近衛首相も分っているの
ではないですか」
「ですからこの声明は、反中世論を鎮めるために国内向けに発せられたと見るべきです。
しかし南京政府にも当然伝わるでしょうし、彼らが反省して日本政府に謝ることはあり
得ませんから、この戦いはどちらかが破局を迎えるまでつづくと思います」
「日本は勝てないと、朝河教授はお考えですか」
「日本が現状を打開するには、南京政府と和解するしかありえません。それには塘沽停戦
協定の合意に立ち返り、日本軍は山海関より北に撤退すべきです。そうしなければ・・・・」
朝河はじばらく言いよどみ、心を励まして先をつづけた。
「そうしなければ広大な大陸で中国軍に翻弄され、消耗戦を強いられた末に壊滅することに
なりかねません。日本軍は兵糧や弾薬を補給する態勢をきずけていませんから、追い詰められた
末に各地で陽高事件のような問題を引き起こす恐れがあります」
「それを防ぐには、どうすればいいのでしょうか」
「軍の暴走を止められるのは天皇だけです。宮内省や内大臣府の高官に働きかけ、天皇に
停戦の勅令を下していただくしかないと思います」
「先生、ひとつおたずねしてもいいですか」
ボートンがメモを取る手を休め、日本人はあんなに優しく親切なのに、どうして無謀な
侵略戦争をつづけるのかとたずねた。
2025年05月26日<ふたりの祖国 243 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 23>
そこで自分の意見が正しいと認めたなら、日本研究委員会から政府に提言してほしい。
朝河はそう申し出た。
「望むところです。こうして訪ねて来たのは、そうしたいと思ったからです」
「それなら承知いたします。お役に立てるかどうかわかりませんが」
「ありがとうございます。早速ですが、日中紛争の今後について、朝河教授はどのように
見ておられますか。鎮静化か膠着か、それとも激化するのか」
「激化すると、私は見ています」
朝河が話し始めるとボートンがノートを出してメモを取り始めた。朝河が反射的に警戒を
あらわにすると、ボートンは「メモの内容については、後で先生に確認していただきます」
と行きとどいた配慮をした。
「その理由は近衛内閣が『暴支膺懲声明』を出し、南京政府が従うまで軍事進攻をつづけると
表明したからです」
その中に次のような一節があると、朝河は二人の前で英訳した声明文を読み上げた。
「このように中国側が日本帝国を侮り、不法暴虐の限りをつくし、全中国にわたる日本の
居留民の声明財産を危機におとしいれるに及んでは、帝国としては最早耐え忍ぶ限度に達し、
道理に反した暴力をうるう中国軍を懲らしめ、今や断固たる措置をとるのやむなきに至った」
「この声明の問題は二つあります。ひとつは日本が中国より上の立場にあり、南京政府の
反省をうながすという傲慢な態度を取っていること。もうひとつは懲らしめるとか
反省をうながすという曖昧な言葉を使っていることです」
これでは日本軍は、南京政府が頭を下げて謝るまで軍事行動をやめられなくなる。だから
派遣された軍隊の行動はエスカレートし、陽高でのような虐殺事件を起こしたのだった。
「懲らしめるて謝らせるとは、桃太郎の鬼退治のような話ですね」
ポートンがメモを取りながらつぶやいた。
2025年05月24日<ふたりの祖国 242 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 22>
「それは適任だね。ボートン君、日米融和のために力を尽くしてくれたまえ」
「私では力不足だと思いますが、ウォーナー教授から強いご依頼を受けましたので、
勉強のつもりで参加させていただきます」
「ひるむことはないよ。君のことは辻善之助君も高く評価していた」
ボートンやライシャワー兄弟など、日本に留学している優秀な研究者を集め、日本研究を
始めたらどうか。辻はそう提案していた。朝河も日本研究委員会でそれが果たせるのでは
ないかと期待したが、日米対立が激しくなったために身を引いたのだった。
「私も朝河教授に同感だよ。富田幸次郎君も委員を退任したので、日本の現状を知る君に
研究委員会に加わってもらったのだ。大いに期待しているよ」
ウォーナーがボートンを励まし、ロバートが難に遭ったのは実に残念だったと付け加えた。
エドウィン・ライシャワーの兄ロバートは、昨年8月に上海滞在中に中国空軍の爆撃を
受けて亡くなったのである。
「おっしゃる通りです。報らせを受けたエドウィンの悲嘆は見ていられなかったほどでした。
私にとっても戦争の悲惨と理不尽を思い知らされた経験でした」
ボートンが頭をたれて胸の前で十字を切った。
「やがてエドウィンもチャールズ・バートン・ファーズも帰国して、我々の手助けを
してくれるだろう。しかしそれだけでは戦力不足は否めない。そこで朝河教授、あなたに
アドバイザーという形で加わっていただきたいのです」
ウォーナーが朝河に話を向けた。
「私は日本研究委員会から身を引きました。今さら加わっては、ACLSのメンバーから
非難の声が上がるでしょう」
「それは政治的に動いている者たちのやり口です。もし懸念されるのなら、表には出ない
形で相談に乗って下さい。実は政府から日中紛争についての報告をお求められているのです」
「それならひとつ条件があります」
「何でしょう。遠慮なく言って下さい」
「私はこれからも日米融和のために力を尽くします。しかし私の立場では、アメリカ
政府に提言することは難しいのです」
2025年05月23日<北斗七星>
・・・・「新しい党に期待したい気持ちもあるが、公明党には絶対いてもらわなくちゃ
困るんだよな」。政治への不満と期待が交錯する中で、耳当たりの良い無責任な政策や
主張とは一線を画して、国民に誠実な責任ある政治姿勢を貫くのはどこなのか。
今こそ、公明党の真価を語り抜きたい。
2025年05月23日<見て深堀り 東京都の新公会計制度>
かつて破綻の危機にあった東京都の財政を健全化へと導き、さまざまな施設の財源確保に
つながっていったのが、2006年度の「新公会計制度」導入だ。都議会公明党のリードで実現した。
・・・・・
2025年05月23日<ふたりの祖国 241 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 21>
「すっかりたくましくなったね。東京ではニ・ニ六事件があって大変だったろう」
朝河はボートンの手を握りしめた。アメリカの日本研究者の中でも、将来を嘱望している
若手の一人だった。
「事件が起こった時には内乱になるのではないかと心配しましたが、市街戦はなかったので
被害を受ける事はありませんでした。その日私は妻と二人でドイツ大使館で行なわれた集会に
参加し、陸軍省や海軍省の前に布陣している機関銃部隊の前を通りましたが、外国人だからと
いって拘束されたり取り調べを受けることはありませんでした」
「それは良かった。辻善之助教授は元気にしておられたかね」
「朝河先生の教えを受けたと伝えたところ、ずいぶん親切にしていただきました。大学と
折衝して図書館と史料編纂所を使う許可を取って下さいましたし、古文や漢文の解読が
できない私のために、二人の助手をつけて下さいました」
ボートンは感動に目をうるませ、朝河をまっすぐ見つめて話をつづけた。
「それ以上に嬉しかったのは、辻先生の思いやりあふれるお言葉です。東京大学で学ぶ
ための面接を宇受けた時、私は辻先生にたずねました。日本語を満足に使いこなせないのに、
日本史を専攻しようとするのは思い上がりだろうかと」
「ほう、彼は何と答えたかね」
「あなたは外国人として、ある意味で私には真似のできない方法で日本史を書くことが
できる。ひるむことなく計画どうりに進みなさいと、励ましていただきました」
ボートンが伝える辻善之助の言葉は、朝河の胸にも深々と刺さった。
思えば朝河も異国の大学で、日本人にしか書けない比較法制史を確立しようと40年以上
努力をつづけてきた。辻の言葉はそんな朝河への励ましでもあった。
「久々の師弟対面だ。積もる話もあるだろうが、本題に入らせてもらっていいだろうか」
ラングドン・ウォーナーが間に入り、ボートンACLSに参加し、日本委員会のメンバーに
なると告げた。
2025年05月22日<参議院予定候補 勝利へ訴え!
高橋みつお 兵庫選挙区 定数3>
大学受験を控えた1995年1月、地元の兵庫・宝塚市で阪神・淡路大震災に遭遇しました。
被害が広がる中、市職員として持病を抱えながらも、不眠不休で被災者支援に奔走した父の
生きざまが、私の人生の原点です。‥‥輝く日本の未来を断じて勝ち開いてまいります。
2025年05月22日<ふたりの祖国 240 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 20>
「それらの人びとにとって私は、日本の学界の代表者ともいわれるような存在(というより、
日本民族の学問に対する能力の代表者と行った方がよいでしょう)、あるいは、
両国の相互関係における一つの資産ーーーこの二つはさまざまな感情の中でも最も
顕著なものでありますがーーーのように見られてきたと思います」
自分の学問的な立場に、朝河はそれだけの自負と責任を持って研究と仕事に打ち込んできた。
それなのに歴史学研究員という肩書きでは、日本の学者たちは左遷されたか閑職に棚上げ
されたと受け取るにちがいない、と言うのである。
朝河の訴えが功を奏し、65歳の定年の直前に歴史学教授に昇進させてもらえたのだが、
こうした行動を出世欲や名誉欲に駆られてのことだと解釈するのは間違っている。
朝河はプエルトリコへの旅で、すべてを理解するには自己放棄こそもっとも重要だと
いうことを悟った。それと同時に日本に逃げ帰るのではなく、アメリカに踏みとどまって
祖国のために力を尽くそうと覚悟を決めた。
アメリカではそうした活動をするにも、海外から日本の政界や学界に助言をする上でも、
イェール大学歴史学教授の肩書を得ておく必要がある。だから意を決して、自分でも
厚かましいと赤面するような手紙を書いたのだった。
11月の初め、ラングドン・ウォーナーとヒュー・ボートンが連れ立って図書館3階の
研究室を訪ねて来た。ニューヨークでの会議で同席したついでに、朝河を訪ねることにしたという。
「先生、長らくご挨拶にもうかがわずに失礼しました」
ボートンは34歳になる日本史研究家である。敬虔なクエーカー教徒で、1926年
にハヴァフォード大学を卒業した後に日本に渡り、フレンズ奉仕団の活動を支援する
かたわら日本語と日本史の勉強をつづけていた。
やがてオランダのライデン大学に留学するが、1935年3月に日本に7もどって
東京大学の大学院の辻善之助のもとで学び、昨年8月に帰国したのだった。
2025年05月21日<公明党 今なぜ政治に必要か
”夜回り先生”水谷修氏に聞く>
SNS時代こそ”うそ”や"はったり"なく、公約実現への愚直な姿に信頼
政権内に「声なき声」届ける”お母さん”役。他党は担えず
2025年05月21日<ふたりの祖国 239 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 19>
朝河のもう一つの変化は、7月から歴史学教授に昇進したことだが、これにはいささか
込み入った事情がる。
朝河は7年前、57歳の時に歴史学準教授になった。その後数年で教授になれるものと
思っていたが、3年後には歴史学研究員に配置換えになった。待遇は教授並みなので昇進と
言えなくもないが、朝河はきわめて不満だった。
歴史学教授はイェール大学を代表する表の顔と言うべき立場だが、研究員はそれより一段
下がる裏方とみられ、学界などに招かれる機会も少ないからである。
朝河が日本にもどってどこかの大学で職を得たいと考えるようになったのは、この処遇への
不満も原因のひとつだが、親友である辻善之助に諭され考えを改めた。逃げるように
アメリカを去るより、今の立場で最善を尽くそうと思ったのである。
そこで昨年9月、思い切ってイェール大学総長のエンジェルに処遇改善を求める
手紙を送った。
「二カ月以上も長らくためらっておりましたあと、そしてその間、貴下がご親切に
会おうとおっしゃってくださった機会を一度ならず見送ってしまいましたあとで、私は
ようやく書面で申し述べるという、いささか臆病な手段をとることにいたしました」
そんな書き出しで始まる長文の手紙には、イェール大学に長年奉職してきた朝河の
立場と苦悩、イナがハムレットと評した迷いに満ちた内面が余すところなく描かれて
いて痛々しいほどである。
朝河は自分に与えられた歴史学研究員の肩書きについて、名誉なことではあるが
個人的には不満だと訴えた。
「それが栄誉であることは理解できます。しかし、長年の間、主要教職者名簿に搭載される
だけの価値ある者たらんと目指して励んできた者にとっては、与えられた肩書きは
屈辱的な敗北を意味するものであります」
こうした敗北感に甘んじるわけにはいかないと思うのは個人的な不満からではなく、
日本における自分の評価に関わるからだと朝河は書いている。
2025年05月20日<ふたりの祖国 238 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 18>
エミリーははちきれんばかりの丸い顔に、リスのような黒い瞳をしている。
純粋な気持での取材だということは分ったが、今の朝河は気楽に物が言えない立場だった。
「私の名前を出すのであれば、質問状を提出してほしい。このような場所でのやり取りだと、
誤解を生じる恐れがあるからね」
「分りました。教授の研究室に質問状をお届けいたします。今の大統領の演説は、
日本の中国侵略を念頭においたものでしたが、これについてどう思われたか、お気持ちだけでも
聞かせていただけませんか。お名前は決して出しませんので」
「その質問にも文書で答えたい。君が言う通り、祖国と米国との対立が深まるにつれて
私の立場は難しいものになっているからね」
「李のお兄さんは盧溝橋で日本軍と戦って戦死しました。この事件のいきさつについて
教授にたずねたいことがあると、李は言ってますが」
「戦死されたことについてはお悔み申し上げる。個人的に話を聞くのは、構わないが、
学内新聞で報道されるのは迷惑だ」
朝河は逃げるように席を立ち、自分の部屋にもどった。
新聞部の学生の中には、イェール大学の秘密結社であるスカル&ボーンズの息のかかった
者がいると前々から噂されている。エミリーがそうだとは思わないが、編集の段階で
彼らの都合のいいように発言をねじ曲げられては、どんな災いに巻き込まれるか
分らなかった。
1939年の6月と7月に、朝河の立場は大きく変わった。一つは8年間参加してきた
ACLS(アメリカ学術団体評議会)の日本研究委員会のメンバーを辞任したことである。
ACLSはIPR(大西洋問題調査会)と密接な協力関係にあったが、日米対立が深刻化するに
つれてIPRの日本支部とアメリカ本部が対立するようになった。これまでの信頼関係が
崩れ、互いの国を批判しあうようになったのである。
これでは学問的な交流の場にはならないと見た朝河は、日本研究委員会から去ることで
対立に巻き込まれるのを避けたのだった。
2025年05月19日<ふたりの祖国 237 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 17>
朝河は言いようのない不快と不安を感じながら、ルーズベルトの演説を聞いていた。
彼がモンロー主義の支持者が多いシカゴでこの演説をしたのは、日本やドイツ、イタリア
との戦争に向けた準備を進めることを国民に納得させるためである。
いずれも日米決戦を予感させる激しい言葉だが、中でも気になったのは次の二点である。
「世界的無法状態という疫病が広がりつつあるというのは、残念ながら事実らしい。
体の病の流行が広がり始めた場合、共同体は病の蔓延から共同体の健全性を守るため、
患者の隔離を承認し、これに参加するのである」
「文明が生き残るためには、平和の君(イエス・キリスト)の原則を回復させなければ
ならない」
前者のように敵対者を疫病に感染した者と見なせば、相互理解や交渉による妥協の道を
閉ざすことになる。そして隔離のための軍事行動に突き進んでいく。
そしてキリストに対する信仰こそが生き残る道だという後者の考え方は、アメリカ国民
が怒れる全能者に成り代わって敵対者に鉄槌を下すという発想につながる。
後にアメリカが日本の主要都市を無差別に爆撃したり、広島や長崎に原爆を投下する
思想の萌芽は、すでにルーズベルトのこの演説に現れている。
「教授、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
声をかけられてはっと我に返ると、目の前に女子学生二人が立っていた。一人は褐色の
肌をした大柄な娘で、一人はアジアからの留学生のようだった。
「私は新聞部のエミリー・ロジャースといいます。こちらは燕京大学からの留学生の
李宇春です。今度の学内新聞で東アジアの問題を特集するのですが、今の大統領の演説に
ついてどう思われたか感想を聞かせて下さい」
「私の発言として新聞に掲載するのかね」
下手なことを書かれては困るという不安が朝河の胸をよぎった。
「難しいお立場だと承知していますが、東アジアの問題を広く学生に知ってもらうために
ご協力をお願いします」
2025年05月17日<ふたりの祖国 236 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 16>
全体主義体制をとる日本やイタリア、ドイツを恐ろしい伝染病の保菌者にたとえ、
国際社会が一致協力して隔離しなければならないと訴えたのである。
「宣戦布告もなく、またいかなる警告も正当な理由もなく、女性や児童をふくむ
一般市民が、空からの爆撃で容赦なく殺害されている。いわゆる平時にありながら、
船舶が理由も通告もなく潜水艦によって撃沈されている。ある国々は、これまで
彼らに害をなしたことのない国々における内戦を扇動し、加担している。ある国々は、
己の自由を要求しておきながら、他国に自由を与えることを拒否している。罪なき
人々や国々は残酷にも、正義感も人道的配慮も欠如した、力と覇権への貪欲さの
犠牲になっている」
ラジオから流れるルーズベルトの演説を、朝河はセイブルック・カレッジの
ミーティングルームで聞いていた。部屋には20人ばかりの寮生が集まっていて、
演説を聞きながら時折、朝河に物問いたげな目を向けている。
ルーズベルトは侵略国を名指しすることを慎重に避けたが、空からの爆撃とは
日本の南京爆撃、ドイツのゲルニカ(スペイン)爆撃を指していることは明らか
だった。
「宣戦布告されようがされまいが、戦争というものは伝染病である。それは戦場から
隔絶した国家や国民を呑み込みかねない。我々は戦争に関わらないと決意したが、
それでも戦争の破壊的影響や戦争に巻き込まれる危険性から身の安全を保証することは
できない。我々は、戦争に巻き込まれる危険性を最小化すべくこうした処置を
取ってはいるが、信頼と安全が破壊された無秩序な世界にあっては、完全な安全を
確保することなどできない」
だから従来のアメリカのモンロー主義(国際的孤立主義)を脱して、世界平和に
積極的に関与することが重要であると力説し、ルーズベルトは次のような言葉で
演説を締めくくった。
「平和維持に向けて、積極的に努力しなければならない。米国は戦争を憎む。米国は
平和を望む。故に米国は、平和を求めて活発に取り組んでいるのである」
2025年05月16日<ふたりの祖国 235 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 15>
これに対して仏教は全能者への信仰ではなく、人間の真理や事実に目覚めることを
目的としている。如実知見、人間と宇宙の真理を身極めた仏陀は、執着を去り慈悲に
生きるように説いた。
その教えは国や人種や信仰などを超越した究極の平和主義、人道主義である。
日本でも奈良時代に仏教を国の指導理念として受け容れ、鎌倉時代には日蓮、法然、
親鸞などによって新仏教が生み出された。
以来、仏教の教えは国民の精神と生活に深く根を下ろしていたはずだが、満州事変から
わずか6年の間に日本は大きく変わった。訪米諸国に対抗するために、天皇を全能者に
祭り上げ、アメリカ、ヨーロッパに対抗しようとした。
そうした変化を朝河は危ぶみながら見守ってきたが、日本が昭和12年7月7日に
支那事変を起こしたことで、もはや引き返すことのできない泥沼に足を踏み入れたと
感じていた。
通州事件をきっかけとして日本国内に巻き起こった反中世論に押された近衛内閣は、
8月15日に「暴支膺懲声明」を出したが、これは横暴な南京政府を懲らしめるために
軍事作戦を行なうという尊大なものだった。
そうした思い上がりが日本陸軍の末端にまで行き渡り、9月9日には陽高事件を
引き起こした。東条英機がひきいるチャハル派遣兵団は内蒙古のチャハルを制圧するために
張家口から大同市に向かっていたが、大同市の東に位置する陽高城で中国軍の
激しい反撃を受けた。
戦いは9月8日に始まり、翌朝には日本軍が城を陥落させて勝利したが、この時に
城内にいた中国人男性を捕え、取り調べも行なわないまま銃殺した。その数は
350人とも500人とも言われている。
朝河のもとに日本から送られてくる新聞は、この事件についてほとんど触れられて
いないが、アメリカの新聞は中国からの情報をもとに詳しく報じている。そのため
に反日世論が巻き起こり、在米日本人に対する風当たりがいっそう強くなった。
事態を重く見たルーズベルト大統領は、10月5日にシカゴで外交演説を行なった。
2025年05月15日<ふたりの祖国 234 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 14>
物語の舞台を、富士山麓からニューヘイヴン市のイェール大学に移動させていただく。
距離はおよそ一万一千キロ。最新型の飛行機でも十数時間かかる遠い場所だが、幸い愚輩は
彼岸の住人になったお陰で、時間と空間に誓約されることなく自在に往来できるようになった。
そのような身になってみれば、地球など大宇宙に浮かぶけし粒ほどの星に過ぎないことがよく分る。
そのけし粒の中で国や人種のちがいを言い立て、自国の優位性を主張して他国を支配しよう
とするのは愚の骨頂と言わざるを得ない。
ところが此岸に住んでいるうちは、この理がなかなか分らないものである。敵意や我欲にとらわれ、
自分が正しいと言い立てて他人のものまで奪おうとする。それゆえ人類が誕生して以来、
戦いと略奪が絶えたためしがないのである。
こうした世の中を生きていくにはどうすればいいか、すでにお釈迦さまは二千数百年前に、
忍耐の衣を着て、悟空の椅子に座り、慈悲の部屋に住むべしと教えておられる。
こうした生き方ができる者が一人、また一人と増えて正しい教えを伝えていくことでしか、
敵意や我欲が渦巻く此岸を変えることはできないのではないか。
イェール大学のセイブルック・カレッジに住む朝河貫一も、近頃そう思うようになっていた。
20歳の時に本郷教会で横井時雄(小南の長男)から洗礼を受けて以来、キリスト教の教えを
尊重してきたが、第一次世界大戦とそれ以降の欧米諸国の熾烈な対立を目のあたりにするうちに、
戦争を終わらせることができないのはキリスト教の教理に問題があるからではないかという
疑問にとらわれていた。
イエス・キリストは隣人への愛と戦うことの愚かさを説いている。ところがキリスト教の神は、
悪徳がはびこるソドムの市を焼き尽くしたり、心得ちがいをした人類を亡ぼすためにノアの洪水を
起こす怒れる全能者である。その神を信仰する人間は、異教徒に対して怒れる全能者
として振舞うことが正義だと、無意識のうちに思うようになっていくのでは
ないか。
2025年05月14日<ふたりの祖国 233 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 13>
「さて問題は、この困難な治療をいかにやりとげるかということであります。相手は強敵ですから、
この戦争は三、四年は覚悟しなければなりません。その時の最大の課題は、国民が戦争に疲れ生活の
困窮に耐えかねて、思想を悪化させることであります」
蘇峰は先の第一次世界大戦でドイツやオーストラリアが敗れたのは、国民の思想が悪化して国家の
団結が失われたからだと指摘した。また戦勝国であるイギリスやフランスも思想が悪化し、戦勝後に
共産主義思想の蔓延を招いたと語った。
「しからば我が国は何をもってこれを予防するのか。それが今日の演題である精神日本の扶植であります。
詳しく言えば皇室中心主義を高調して、すべてを我が皇にささぐる精神を鼓吹することです。さらに
立ち入って言うなら、皇徳を日本全国残る隈なく一様平等に行き渡らせることであります。そして
日本国民をしてただ皇室を奉戴し、皇恩に感謝し、天皇のお為には欣然勇躍、一切をささげる覚悟を
持たせることです。これを国民すべてが持ったなら、重臣間の争いなどは発生するはずがないし、
共産主義者が言う階級間の闘争も起こるはずがないのであります」
蘇峰は急にこうした考えに至ったのではない。昭和4年(1929)に東京日日新聞社の社賓に
就任したのは、皇室中心主義を貫くことで新聞社側と意見が一致したからである。
ただ国際情勢の緊迫化とともに蘇峰の思想は先鋭化し、ついにはドン・キホーテのような誇大な
主張をするようになっていった。
「我らは三千年以来の国史に立ち返り、皇室に奉仕し、皇恩に奉謝し、皇徳を翼翊(助けること)し、
平和にもまた戦争におけるが如く、忠節を致すの一天張りにて邁進しなければなりません。日本の
土地は元来皇室のものであります。我らの身体生命さえも、いざとなれば皇室に捧げるべき歴史と
誇りを持っています。このような気持ちを片時も忘れず、この国を正しい方針に導く努力をつづけよう
ではありませんか」
蘇峰が力強く呼びかけて演説を終えると、会員たちから万雷の拍手が巻き起こった。
2025年05月13日<ふたりの祖国 232 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 12>
全国大会は各支部で活動してきた蘇峰会のメンバーを双宣荘に集め、意見交換と親睦をはかるために
企画したものだった。
3カ月前に会員に呼びかけた時には満州や中国の情勢が落ち着いていたこともあり、二百人も集まれば
上出来だと考えていた。ところが7月7日に盧溝橋事件が起こり、わずか一ヵ月に日中全面戦争の様相を
呈したために申し込みが殺到し、お盆前だというのに七百人以上が集まった。
皆蘇峰会の有力メンバーで、各地の自治体や軍人会などで主要な役割を担っている。
それゆえ今の国際情勢をどうとらえ、この先どのような信念のもとに他を指導していけばいいのか、
蘇峰の教えを乞いたいと願っていた。
双宣荘の一角には研修道場があり、三百人ほどは収容できる。だが七百人はとても無理なので、
敷地内の松林の中にステージを作り、マイクとスピーカーを設置して講演を行なうことにした。
演題は『精神日本扶植運動の急務』である。
「皆さん、今日はこのような片田舎までお越しいただき。まことにありがとうございます。大勢なので
野外集会となりましたが。幸い天気にも恵まれ、松陰で涼を取りながら話を聞いていただくことが
できます。日本一の富士山のふもとで、日本一の指導者たる覚悟を定めて地元に帰っていただきたい」
蘇峰はステージに置いた椅子に座って語りかけた。
まずは盧溝橋事件をきっかけとする日中戦争は、蔣介石と共産党が仕掛けたもので、日本はやむを
得ずこれに応じているだけだと定義した。
「日本がこれに引きずられたのは迷惑千万のことではありますが、大局から見れば一種の外科治療を
始める機会を得たのですですから、
かえって良かったと言うべきでしょう」
中国は重症患者のようなものだから、日本が外科治療をして直してやらなければならない。そうした
論法が開戦後に流行語のように使われている。蘇峰もそれを借用し、すでに治療を始めたからには
絶対に完治させなければならないと言った。
2025年05月10日<ふたりの祖国 231 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 11>
「親日政権樹立の計略を、石原君は承知しているのかね」
「もちろん報告していますが、実現は難しいと不拡大論に固執しておられるのです。もし今度の
作戦が失敗したなら、責任は五個師団の派兵に応じなかった近衛首相と石原参謀にあると
言わざなければなりません」
「いつ頃になるのかね。チャハル侵攻は」
「準備はすでに出来ておりますが、三個師団の到着との兼ね合いがあります。それを確かめる
ために、各方面との連絡に当たっております」
そこでひとつ頼みがあると、東條はおもむろに切り出した。
「何かね。頼みとは」
「我らの戦略は、今申し上げた通りです。しかしこれは内閣の承認と国民の支持がなければ実現できません。
そこで近衛首相が優柔不断の道に迷い込むことがなきよう、先生にご指導いただきたいのです」
「あいにくだが、わしにそんな力はないよ」
「聖戦を貫徹し、アジア人による東亜の秩序を確立する。それが日本の使命だという信念を首相に注入してください。
ここで弱気になれば中国、ソ連ばかりか、英米にまで付け込まれ、国家の破滅につながります」
東條はおどし付けるように物騒なことを言って電話を切った。
蘇峰は不愉快になりながらも、彼の言う通りだと思った。ここまで来たら後もどりはできないと、
生死の関頭に立つ覚悟で東條らを支持することにしたのだった。
「あなた、東坊さんはお元気でしたか」
静子が長電話の内容を気遣った。
「意気軒昂、やる気満々だよ。これから日本の指揮を執るのは、あの男かもしれぬ」
蘇峰は冗談めかして言ったが、その予言は4年後に現実になったのである。
チャハル作戦が開始されたのは8月9日のことだった。関東軍は三個師団(約一万五千人)で
チャハル派遣兵団を編成し、東條英機を指揮者として進展させた。俗に「東條兵団」と
呼ばれた部隊である。
その3日後、双宣荘で蘇峰会第一回全国大会が開かれた。
2025年05月09日<ふたりの祖国 230 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 10>
「たとえそうだとしても、中国は広大だ。しかも道路や橋、鉄道の整備も充分ではない。中国軍が
奥へ奥へと逃げて行ったなら、日本側は軍勢の移動もままならず、泥沼に入り込むような長期戦に
なるのではないかね」
「おっしゃる通りです。だから敵が15万の兵を華北に動員して勝負を挑んできたこの機会に、
こちらも充分の備えをして相手を引き付け、一撃で息の根を止めなければなりません。まさに
天祐と言うべき好機なのですが・・・・」
近衛首相や石原参謀は弱気の虫に取りつかれて三個師団の派兵しか行なわなかったと、
東條はいかにも惜しげに吐き捨てた。
「三個師団では、君たちの一撃論は成り立たないのかね」
「厳しいと言わざるを得ません。そこで我が関東軍が側面支援に乗り出すことにいたしました」
「ほう、どんな作戦かね」
東條の話を聞いているうちに、蘇峰はアジア大陸を縦横に駆け回ったチンギス・ハーンにでも
なったような壮大な気分になっていた。
「中国共産党は延安に本拠地をおいて、ソ連からの支援を受けています。そこで関東軍は内蒙古の
チャハルを制圧し、さらに大同やオルドス方面まで進軍してソ連との連絡路を断つ構えを取るのです。
そうすれば盧溝橋方面に展開している共産党軍は、延安を防御するために退却せざるを得なくなります。
その間に支那駐屯軍国民党軍を圧倒し、国共合作を破棄するという条件で和議を結びます。
そして一気に親日政権を樹立するのです」
「そうなれば万々歳だが、そんなにうまく事が運ぶものなのかね」
「詳しくはお話しできませんが、我々はそれを実現するために国民党の有力者とひそかに接触し、
反共政権を設立することで合意しています」
「そんな裏面工作もできるようになったか」
「これも先生のご指導のお陰です」
国民党の有力者とは、後に南京に親日政権を樹立する汪兆銘のことだが、このことを知る者は
まだ数名しかいなかった。
2025年05月08日<ふたりの祖国 229 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 9>
「もしもし、参謀長どのか」
「先生、長らくご無沙汰いたしました」
東條の声は甲高く張りがある。元気で張り切っていることが話しぶりを聞いただけで
分かった。
「君は今、長春の関東軍司令部にいるんじゃないのかね」
「政府は三個師団の派兵を決定しましたが、増援体制が万全かどうか確かめるために九州の
福岡に来ています。そこで先生に電話させていただくことにしました」
「そうか、道理で」
双宣荘にも電話が通じたのだった。
「それで満州はどうかね。中国との対立が険しくなっているようだが」
「こちらは万全です。溥儀皇帝のご指導のもと、国をあげて経済五カ年計画に取り組んで
おりますが、華北は予断を許さない状況です」
「中国は本腰を入れて抗日戦に乗り出してきたようだが、これにどう対処するつもりかね」
「このような局面で弱みを見せたら、敵に付け入られるばかりです。ここは無理をしてでも
五個師団を投入し、一気に勝負をつけるべきでした」
「ところが三個師団の派兵にとどまっている。それを決めたのは、参謀本部の石原莞爾君だ
そうじゃないか」
蘇峰は微妙な言い回しで東條の本音を聞き出そうとした。
「あの人は満州におられた頃から、ソ連と決戦にそなえた戦略を練ってこられました。
ですから中国を敵にするべきではないと考えておられるのです。ところが中国共産党が
ソ連の支持を受けて戦いを挑んできたのですから、これを避けることはできません。
中国共産党を叩くことが、ソ連の動きを封じることにもつながります」
「ソ連は近年、軍事力を増強して内蒙古方面へ進出している。ソ連と中国を敵にして
勝算はあるのかね」
「ご安心下さい。ソ連はドイツとの対立を抱えていますので、東に兵力を向ける余裕は
ありません。ドイツが本気でソ連を叩こうとしていることは、昨年末に日独防共協定を
結んだことでも明らかです」
東條は自信たっぷりに言い切った。
2025年05月07日<ふたりの祖国 228 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 8>
蒋介石は抗日戦に勝ち抜くためには次の五つが重要だと呼びかける。
1,飽くまでも犠牲たるの決心を堅持すべし。
2,最後の勝利が我に帰することを信ずべし。
3,知能を活用して自ら抗戦すべし。
4,軍民一致団結して親愛誠実をいたすべし。
5,陣地を堅守し進撃するとも退却すべからず。
そして次のように談話を結んでいる。
「抗日全軍の将兵諸氏!時期は既に到来した!吾等国民は心を一にして殺賊に努力し、
万悪の日本軍を駆逐し、以って我が中華民族の復興を図ろうではないか!」
この呼びかけに応じるように、7月25日には、廊坊事件、26日には広安門事件が
起こった。そして29日には悲惨を極めた通州事件が起こるのである。
通州は北京の東約30キロにあった通県の中心都市で、日本軍が後押しして設立した
冀東防共自治政府が統治していた。守備に当たっていたのは日本軍と自治政府の保安隊だったが、
29日の午前2時、保安隊が突然日本軍と在留邦人への攻撃を開始したのである。
このため日本人、朝鮮人在留民385名のうち、223名が殺害され、日本軍留守部隊も
かなりの被害を受けた。この詳細が日本でも報じられると一気に反中感情が高まり、中国討つべしの
世論が沸騰した。
それは蘇峰も同じである。国家の権益と体面を防衛するには、蒋介石と共産党の政権を
倒して親日的な政権を打ち立てるしかない。そう決意し、言動活動をいっそう先鋭化して
いった。
「あなた、東坊さんからお電話です」
静子が居間から声をかけたのは8月初めのことだった。
「そう呼ぶなと言っただろう。彼は今や関東軍参謀長だ」
「だって、ご本人がそう名乗られるものですから」
「おかしいな。満州にいる彼から、国際電話はつながらないはずだが」
蘇峰はいぶかりながら電話に出た。
2025年05月06日<ふたりの祖国 227 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 7>
清識や達見がなく、国家を誤った方向に導いたのは果たしてどちらか。愚輩などが
軽々しく言えることではないが、気になるのはこの頃から徳富蘇峰が短気になっている
ことである。
75歳という高齢のせいか、中国側が仕掛けてくる攻撃に苛立ったせいか分からないが、
「国家の権益と体面を防衛するだけの決心と覚悟を持っている」などとは、アジテーターなら
ともかく言論人が発するべき言葉ではなるまい。
蘇峰も言ったように、問題の本質は日本軍が塘沽停戦協定を破って華北地区まで進出したことに
ある。
ここから撤退しなければ日中の和平は実現できないことを原則として論を立てるべきなのに、
国内の世論や軍部の強硬論に影響されて、いつの間にか悪いのはお前だという論調に変わっている。
こんな心理状態になったなら、理屈の上では日本が撤退しなければならないことは分かっていても、
敵から不意打をくらわされたなら徹底的にやり返してやるという気持ちになってしまう。
そうした浅見が、残念ながら日本中をおおい始めていた。周恩来や毛沢東は冷徹にそれを見切り、
日本軍や在留邦人に攻撃を仕掛けることで日本を爆発させ、抗日戦争の主導権を握ろうと
していたのだった。
中国軍のゲリラ行動はエスカレートしていった。7月13日には北京の大紅門で日本軍の
トラックが爆破され、兵士4人が犠牲になった。翌日にはパトロール巡回中の日本の騎兵が
何者かに惨殺された。
中国側はこうした事態について、日本軍から攻撃されたので反撃しただけだと主張し、
7月17日には蒋介石が廬山談話を発表して、日本との全面戦争に突入する覚悟を固めよ
と全国民に訴えた。
「抗日全軍将兵に告ぐ」と題された談話は、次のような呼びかけで始まっている。
「今次の盧溝橋事件に際し、日本軍は卑劣極まる欺瞞的手段によって我が同胞民衆を
殺害したが、我が国にとつてこれ以上の大なる恥辱はない。これを思ふ毎に、余は実に
痛心限りなきものがあるのである」
2025年05月05日<ふたりの祖国 226 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 6>
「ならば4年前の塘沽停戦協定で定めた通り、日本軍は山海関(万里の長城)以北まで撤退し、
華北地方は非武装地帯にするという方針でのぞんがだらどうかね」
蘇峰はそれくらい大胆な譲歩をして蒋介石に恩を売り、国民党を日本の側に引き付けて
中国共産党と引き離す策を講じるべきだと提案した。ところが本庄は、それでは武藤や東條が
納得しないので対応に苦慮していると言った。
本庄は陸軍士官学校の同期である荒木貞夫や真崎甚三郎とともに皇道派を主導し、青年将校らの
武力決起を容認した。ところが悪しき風潮を作ったために、今度は自分が命を狙われる危険に
直面しているのだった。
翌日、蘇峰は『日日だより』で盧溝橋事件について触れることにした。タイトルは
「志那政治家の反省を促す」で、書き出しは次の通りである。
「しばらく書巻を携へて、修史の業に専らなる可く、富士山麓に移りたるや否や、たちまち
物騒なる事件は、我等を驚かした」
それは盧溝橋で日本軍が中国軍に「不意打を喫っせしめれたる事件」で、
近衛内閣はこれが「志那側の計画的な武力抗日なること、最早疑いの余地なし」と発表したが、
我らもそれを至當と認めると書く。
「そもそも抗日、排日、侮日を以って、蒋介石一味が、南京政府強化の手段としたるは、
今更ら、珍しき事ではなかった」
それがいっそう拡大したもので、おそらくは彼等の内部事情によって、つとめて日本を
敵にする方便を用いたのだろう。しかしそれでは、中国は白皙人種に血肉ともに搾取される
ばかりだと蘇峰は警告する。
「いかに日本に対する敵愾心のために、志那四百餘州を打て一丸と成し得たりとするも、
其の一丸は、却て白皙人種のために、一口に飲みつくさるる便宜を供給するに過ぎない」
日本は決して争いを好まないけれども、理不尽な戦争を仕掛けてくるなら「何時でも我が
国家の権益と体面を防衛するだけの決心と覚悟を持っている」。蘇峰はそう表明し、
「ただ返す返すも志那政治家の清識、達見なきを悲しむ」と結んでいる。
2025年05月03日<ふたりの祖国 225 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 5>
「武藤の一撃論とはどういうものですか」
「中国軍は共産党と国民党の対立を抱えている。だから日本から五個師団ほど派遣して
一気に叩けば、三カ月ほどで壊滅させることできるというのです」
本庄が苦笑し、静子が運んだお茶に手を伸ばした。
「もし勝てたとして、その後の中国をどう御していくのでしょうか」
「おそらく親日的な政権を樹立しようと考えているのでしょうが、まだ手の内を明かして
おりません。厄介なのは武藤が関東軍参謀長の東条英機と気脈を通じ、満州、中国の将校たちを
強硬論でまとめ上げていることです」
「東坊は・・・、いや参謀長は、石原と決別したということですか」
「近頃の若い連中は義理も人情もわきまえておりませんな。西洋流の兵学を手本に、理論と
合理性ばかりを重んじる教育をしてきたせいでしょう。石原は今や自分が育てた後輩たちに
突き上げられ、中国に三個師団を増派する決断をせざるを得なくなりました。今頃は
その手続きに入っていることでしょう」
本庄の言葉通り、この日近衛首相と陸軍大臣、海軍大臣、大蔵大臣、外務大臣が参加した
五相会議で三個師団(約四万五千人)を派兵することが決められた。
石原莞爾は兵力を増強すれば中国との全面戦争になると反対したが、北京に駐屯している
日本軍は六千人弱しかいないので、十万人ちかい中国軍に対抗できず、日本の施設や在留邦人を
守れないという意見に押し切られた。五相会議の決定は午後二時からの臨時閣議で承認され、
午後4時20分には近衛が葉山御用邸を訪ねて天皇の裁可をいただき、午後6時24分には
マスコミに派兵が発表されたのである。
「そこで先生にお願いがあります。先生は東条英機と懇意にしておられると伺いましたので、
これ以上の対司支強硬策を取らないように諭していただきたいのです」
「それは首相からの要請かね」
「そう思っていただいて結構です。内閣が発足したばかりのこの時期に、中国との争いを
激化させるのは避けたいと首相は考えておられます」
2025年05月02日<ふたりの祖国 224 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 4>
この先日中関係はどうなるのか。戦争の拡大を防ぐことができるのか。蘇峰と静子は
山中湖畔の双宣荘で身を寄せ合うようにしてラジオの続報を待っていたが、7月11日に
思いがけない来客があった。
「ご免、徳富蘇峰先生はご在宅でござろうか」
玄関先で野太い声がして、着物姿の本庄繁が姿を現した。満州事変に際しては関東軍
司令官として満州国建国に尽力し、ニ・ニ六事件の時には侍従武官長として天皇の補佐役
をつとめていた。
決起した青年将校たちを擁護する姿勢を取りつづけ、天皇の叱責をこうむったことは
よく知られている。事件後は責任を追及され、予備役に回されていた。
「本庄大将、思いがけないご来訪ですな」
蘇峰はパーティーなどで何度か本庄と顔を合わせたことがある。だが着物姿を見るのは
初めてだった。
「ここは実に素晴らしい所ですな。先生の縦横のお知恵は、こういう環境から生み出される
のだと得心がいきました」
本庄は応接室のソファに深々と腰を下ろし、正面にそびえる富士山に見入った。還暦を
過ぎても衰えぬ頑丈な体格で、つけもの石と仇名されていた。
「どのようなご用件で、閑居まで足をお運びいただいたのでしょうか」
「近衛首相に頼まれて参上いたしました。中国情勢について、先生のお考えをうけたまわり
たいとの御意でございます」
近藤文麿は皇道派に親近感を持ち、本庄が予備役になった後も親交をつづけていた。
「衆目のみるところは同じでしょう。あれは中国共産党が、わが国との戦争に国民党を
引きずり込むために起こしたことです。関東軍が満州事変を起こすことで、日本を改造
しようとしたのと同じですよ」
「これは手厳しい。しかし先生のおっしゃる通りです。近衛首相も参謀本部の石原も紛争の
拡大を防ぐために全力を尽くしておりますが、陸軍内部にはこの機会に中国を一撃で
叩き潰すべきだと主張する輩がおりましてな。その急先鋒が石原が重用してきた武藤章なの
です。
2025年05月01日<ふたりの祖国 223 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 3>
ところが7月8日の夕方になって、事件は中国側が周到な計画の上で起こした可能性が
高いことが明らかになった。
北京に駐屯している日本軍は、事件の報告を受けて盧溝橋に急行しようとしたが、
朝暘門が中国軍によって閉鎖されていたために動くことができなかった。また北京と
天津を結ぶ軍用電話線が切断されていたので、天津に応援部隊の派遣を要請することも
できなかった。
それでも現地の指揮をとる牟田口廉也連隊長は、8日の午前4時頃に中国軍への
攻撃命令を発したという。
「これは柳条湖事件の仕返しですかね」
静子が夕食後のお茶を入れながらつぶやいた。
満州事件の発端となった柳条湖事件が関東軍の謀略であったことは、今の日本では
触れてはならない秘密になっている。だが静子は(おそらく蘇峰の言葉の端々から)
真相を察していたのだった。
「おそらく中国共産党の策略だろう。彼らは蒋介石の国民党と協力して日本と戦う体制を
作り上げたが、国民党の中には共産党と協力するより日本と和睦した方がいいと
考える者たちが多い」
だから共産党を指導する周恩来や毛沢東は、日本との戦争を激化させることで国民党を
自分たちの方針に従わざるを得ないようにしようとしている。しかも彼らは国民党軍と
同化し、国民党軍の仕業のように見せかけて日本軍にゲリラ攻撃を仕掛けてくるのだった。
「それならこの先どうなるのでしょう」
「ともかく今は戦争を拡大しないことだ。共産党の挑発に乗って、彼らを利するような
ことをしてはならぬ」
近衛内閣も陸軍参謀本部も同じ考えで、事件をこれ以上拡大しない方針であることを
翌日のラジオで発表した。この指示にもとづいて現地の駐屯軍は中国側との交渉を始め、
永定河の東岸に日本軍、西岸に中国軍を引き分けることによって停戦することになった、
その上で日本軍は、中国軍に対して謝罪と責任者の処罰、盧溝橋付近からの撤退を
求めて交渉をつづけたが、なかなか合意には至らなかった。
2025年04月30日<ふたりの祖国 222 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 2>
蘇峰の自負の根拠のひとつになっているのは、昨年11月5日に「蘇峰先生文章報告五十周年祝賀会」
と銘打ったパーティーが帝国ホテルで開かれ、全国から千人以上の知人、名士が集まったことだ。
会長を近衛文麿が、発起人総代を電通社長の光永星郎がつとめてくれた。
近衛文麿はついひと月前に首相の大命を拝して内閣を組織し、国民ばかりか軍部からも絶大な
支持を得ている。
五摂家筆頭の近衛家に生まれ、天皇の親任も厚い彼なら、内閣と軍部の不毛の対立を乗り越え、
挙国一致の新たな体制をきずくことができるだろう。蘇峰はそう期待していたし、国民や政財界、
軍部の見方も同じだった。
日本は昭和6年の満州事変以来6年間、茨の道を歩いてきた。しかしそれは日本が東アジアに
地歩を固め、海洋国家と大陸国家という2つの強みを持つための試練だったのである。
日本人はその試練を見事に乗り切り、今や朝鮮、満州、台湾、南樺太、南洋諸島におよぶ
広大な勢力圏をきずき、アジアの盟主の地区を占めている。
これから3、4年は内政に重きおいて勢力圏の充実をはかり、国力を蓄えた後でイギリス、
アメリカ、ソ連の干渉を排し、アジア人のためのアジア、東亜新秩序をきずかなければならない。
(それが日本の使命なのだ)
蘇峰はそう考えるようになっていた。
そんな矢先、ラジオから支那事変のニュースの第一報が流れた。北京の西郊、永定河に
かかる盧溝橋のあたりで日本軍と中国軍の小競り合いが起こったのである。
7月7日の午後十時頃のことで、夜間演習をしていた日本軍に中国軍が発砲し、互いに
応酬し合う事態になったという。
これを聞いた蘇峰は、偶発的な衝突だろうと思った。夜間演習では敵がどの方向から撃って
きたかを見極める能力を高めるために、敵の役を演じる部隊が空砲を撃つ。
しかも中国側陣地のすぐ近くで、演習していたために、中国兵が敵襲と勘違いして実弾を
撃ったのだろうと考えたのだった。
2025年04月29日<ふたりの祖国 221 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 1>
昭和12年(1937)の夏は暑く、湿気の多いうだるような日々がつづいた。
75歳になった徳富蘇峰にはひときわ応える季節の変わり目で、7月初めから山中湖畔の
双宣荘に妻の静子と避暑暮らしをしていた。
日本は中国や英米との対立を抱え、軍事的にも政治、経済の面でも困難な局面にさしかかって
いる。そんな時に自分だけ霊峰富士のふもとで涼しい思いをしたいとは思わないが、『近世日本国民史』
を完成させるためにも、『日日だより』を書いて日本人に進むべき方向を示すためにも、体力を
奪われない環境に身をおくことが必要なのだった。
双宣荘の二階の仕事部屋からは、正面にそびえる富士山とふもとに広がる山中湖が見える。
黒い岩肌を見せて突き立つ富士山は、雪におおわれた季節のような秀麗さはないが、
大地のエネルギーを感じさせる雄々しさに満ちている。
読書や執筆に疲れてその姿をながめていると、
晴れてよし曇りてよし富士の山
元の姿は変らざりけり
山岡鉄舟の解悟の歌が脳裏に浮かんだ。鉄舟は勝海舟、高橋泥舟と並んで、幕末の三舟と
呼ばれた傑物である。徳川慶喜の使者として静岡におもむき、西郷隆盛と海舟の会談を実現させて
江戸無血開城に導いた立役者としても知られている。
蘇峰も海舟の家で何度か鉄舟に会ったことがあるが、禅の悟りに至った達磨のような風貌を
していた。大きな眼が鋭く光りながらも、大空の果てを思わせる深みと優しさを備えていた。
「君はどう生きたいのか」
初対面の鉄舟に鋭く問われ、
「祖国の役に立つ人間になりたいです」
しゃっちょこばって答えたのを覚えている。
蘇峰は己が言葉に恥じないように、天下国家のために生きてきたつもりである。その甲斐あって
言論人としても民友社の主宰者としても成功をおさめたし、日本をここまで導いてきたという自負を、
少なからず持っていたのだった。
2025年04月28日<庶民の願い 公明が実現>
<一人を大切にする教育拡充 高橋みつお氏 兵庫のセミナーで>
・・・・大阪市立大空小学校の初代校長を務めた木村泰子氏・・・は、
日本の教育課題は「主体性」と「当事者性」が欠けていることである。
学校から社会を良くしていくために、「子ども同士をつなぎ、全員が尊重される
教育をめざしたい」と語った。
2025年04月28日<ふたりの祖国 220 安部龍太郎 第八章 独自の道 32>
朝河はすっかり圧倒されて展示室を出た。しばらく、ロビーのソファに座って茫然としながら
、自分の仏教美術に対する理解はきわめて浅かったとしきりに思った。
それはカリブ海への旅で経験した自己放棄以来の悟りの深化によるものだが、
朝河はまだそのことに気付いていない。持ち前の反省心から、自分の力量のなさを
責める気持だけが先に立っていた。
そのせいか無性にやる瀬なくなり、昔の友人に会ってみたくなった。美術館の
現代絵画のコーナーに、肖像画家のジョン・シンガー・サージェントが描いた
「フィスク・ウォーレン夫人と娘レイチェル」が展示されていると聞いている。
彼女の本名はグレッチェンと言い、作家で詩人で女優でもある。朝河は二十数年前
に知り合いになり、5歳年上の夫人の知性と感性の豊かさに魅了されたが、
ちょっとしたいきちがいがあって距離をおくようになったのだった。
目ざす絵は肖像画を集めた一角にあった。ガラス窓が多く採光がいい部屋に、
グレッチェンとレイチェルの絵がかかげてある。カンバスは縦百五十センチほどの
大きなもので、実物大の2人が目の前にいるようである。
グレッチェンは胸の開いた白いドレスを着て椅子に座り、レイチェルはピンクの
可愛らしいドレスを着て母親に体を寄せている。グレッチェンはやさしくおだやかな
表情ながら、神の出現を待ちわびる夢見るような目をしている。レイチェルも
母の視線を追うように、思春期の不安をおびた目で遠くをながめている。
2人はブロンズの髪をして豪華な絹のドレスをまとっている。その光沢を画像を
見事にとらえ、2人の清楚な美しさを演出している。今から二十年前の姿で、
場所はウォーレン家の居間。朝河も何度か訪れた懐かしい場所である。
その頃の思い出にひたりながら絵の前で立ち尽くしていると、
「失礼ですが、イェール大学の朝河先生ではありませんか」
当のグレッチェンが背後から声をかけた。直に会うのは十年ぶりだった。