〇信仰と実践〇
(創価学会教学部任用試験・教学入門より)日蓮大聖人の仏法は、現実の人生の中で「崩れざる幸福境涯」を築いていくための信仰です。そのためには日々の生活の中で信心の実践を積み重ね ていくことが重要な意味をもってきます。信心は自らの生命の鍛錬にほかならないからです。また、大聖人の仏法は「人間としての勝利」を教えた 宗教です。そのために、仏法で開いた知恵と生命力で人々の信頼を勝ちとっていく振る舞いが重要になってきます。ここでは、日蓮大聖人の仏法の実践 において大切な柱となる「功徳と罰」「諸天善神」「異体同心」「信心即生活」「人の振る舞い」について学びます。
功徳と罰
私たちは、南無妙法蓮華経という最高の法を正しく信じたもてば、妙法にそなわる限りない功徳を受け切っていくことができます。
妙法の根本であり究極の功徳は、成仏、すなわち、揺るぎない幸福境涯を確立することです。
妙法を信じて実践を始めることは、成仏という絶対的な幸福境涯への軌道に入るということです。妙法を根本に生きることで、おのずと正しい生き方 となり、幸福を築いていけます。御書には、「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」とあります。信心の実践に励み、私たちの生命を 覆う煩悩や苦悩などの悪を消滅させ、知恵や安楽などの善を生み出すことが功徳です。
また、「功徳とは六根清浄の果報なり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり」とあります。
六根清浄とは、私たちの六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)、すなわち生命の全体が浄化され、本来もっている働きを十分に発揮することです。これに よって、私たちは、さまざまな困難に直面しても動揺しない。力強い仏界の大境涯を我が身に開き顕していくことができます。 このように、私たちが自身の仏性を顕現する実践によって、現実の人生と生活のうえに厳然たる功徳の実証が現れ、必ず福徳に満ちた生活を送れる ようになります。大聖人は、次のように仰せです。
「此の曼荼羅能く信ぜさせ給うばし、南無妙法蓮華経は獅子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや、鬼子母神・十羅刹女・法華経の題目を持つものを 守護すべしと見えたり、さいはいは愛染の如く福は毘沙門の如くなるべし、いかなる処にて遊びたはふるとも・つつがあるべからず遊行して畏れ無きこと 師子王の如くなるべし」
すなわち、私たちは題目の力によって、諸天善神の働きに守られ、人生のさまざまな困難を乗り越えて、福徳に包まれ、どのような場所にあっても 師子王のような恐れを知らない境涯でいられるのです。
また「法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし」と仰せのように、」妙法を受持する人は、幸福をあらゆるところから 招きよせるのです。
さらに「さいわいは心よりいでて我をかざる」「せんだんに・かをばしさのそなえたるがごとし」と教えられていきます。
せん檀という香木に芳香が具わっているように、妙法を受持する人は、福徳が内から香り出て、人々から愛されて信頼され、生活も人生も 守られていくのです。反対に、仏法を誹謗し、因果の理法に反すれば、生命に悪因を刻むとともに、生活のうえに罰の現証があらわれます。
罰の現証は、不幸の道へと陥ることを知られる兆しであり、警鐘ともいえます。自身の誤りに気付き、信仰の姿勢や生き方を見つめ直すことで、 あらためて妙法を深く実践する決意が生まれるのです。
見方を変えれば、罰もまた、人々を正しく導く妙法のすぐれた性質の一つであり、功徳と言えるのです。
このように、妙法を信受する功徳と妙法を誹謗する罰が厳然とあると説くのが日蓮大聖人の仏法です。