〇御書メモ
2018年
11/05「相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり」 (義浄房御書)<通解> よくよく用心して、心の師とはなっても、心を師としてはならないと釈尊は経文に記されている。
08/17「まことの・みちは世間の事法にて候、金光明経には『若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり』 ととかれ」(白米一俵御書)<通解> 成仏へのまことの道は世間の事法にある。金光明経には「もし深く世法を知るならば、世法はすなわち 仏法である」と説かれる。
02/04「爾前の経経の心は心のすむは月の如し・心のきよきは花のごとし、法華経はしからず・ 月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり」(白米一俵御書)<通解> 爾前の経々の心は「心が済むのは月のごとく心の清いのは花のごとし」ということである。 法華経はそうでなく「月がそのまま心、花がそのまま心」という法門なのです。
02/02「始より終りまで弥信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん」(新池御書)<通解> 始めから終わりまで、いよいよ信心をすべきである。そうであければ、後悔するであろう。
01/23 <観心本尊抄> (御文1)「観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見る と雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明境に向うの時初めて自具の六根を見るが如し、 設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の魔訶止観等の明鏡を 見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり」 「通解」観心とは自分自身の心を見つめて、そこに十界を見ること、これを観心というのである。 譬えば、他人の六根(目・耳・鼻・舌・身<皮膚>と意<心>という六つの感覚・認識器官)を見ても、 自分の六根を見ないなら、自分自身に具わっている六根は分からない。明鏡に向かった時、初めて 自身の六根を見る。諸経の中で随所に六道や四聖について触れているけれども、法華経や、天台大師 が述べた『魔訶止観』などの明鏡を見なければ、自分自身に具わっている十界・百界千如・一念三千を 知ることはないのである。 (御文2)「釈尊の因行因果の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に 彼の因果の功徳を譲り与え給う」 「通解」釈尊が成仏する原因となったあらゆる修行と、成仏した結果、得られたあらゆる功徳との 二つは、いずれも妙法蓮華経の五字に具足している。私たちがこの五字を受持すれば、おのずと、 この釈尊の因と果の功徳を全て譲り与えられるのである。 (御文3)「今末法の始小を以て大を打ち権を以て実を破し東西共に之を失し天地転倒せり迹化の 四依は隠れて現前せず諸天其の国を棄て之を守護せず、諸天其の国を棄て之を守護せず、此の時 地涌の菩薩初めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ(中略)是くの如き高貴の 大菩薩・三仏に約束して之を受持す末法の始に出で給わざる可きか、当に知るべし此の四菩薩折伏を 現ずる時は賢王と成って愚王を戒責し摂受を行ずる時は成って正法を弘持す」 「通解」今、末法の時代の初めになって、人々は小乗教によって大乗教を攻撃し、権教によって実教を 否定している。まるで、東とも西とも分からなくなり、天地が逆転したような状態である。迹仏の 弟子である四依の菩薩は姿を消してしまった。諸天善神はそのような国を捨て去り、守護しなく なったのである。この時に、地涌の菩薩が初めてこの世界に出現し、妙法蓮華経の五字という大良薬 だけを幼い子のように正法に無知な衆生に飲ませるのである。(中略)このような高貴な大菩薩 (地涌の菩薩)が、釈尊・多宝仏・十方の仏たちに対して、(末法の時代に妙法を弘めることを) 約束し、妙法蓮華経の五字を受持したのである。末法の時代の初めに出現されないことがあるだろうか。 結論として次のことが分かる。この地涌の菩薩の指導者である(上行・無辺行・浄行・安立行の) 四菩薩は、折伏を実践する時は、賢王となって愚王を叱咤する。摂受を行ずる時は、僧となって 正法を弘め持つのである。
2017年
07/02「月月・日日につより給え・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(聖人御難事)<通解> 月々日々に信心を強めていきなさい。少しでもたゆむ心があれば、魔がそのすきにつけこんで襲って くるであろう。
06/18「今日連等の類い南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝珠不求自得の大宝珠を得るなり信は 知恵の種なり」(御義口伝)<通解>いま日蓮と弟子檀那が南無妙法蓮華経と信じ唱えるが故に、自ずから 求めずして、これ以上ない第宝珠を得るのである。信は知恵の種である。
03/22「悦しかな汝蘭室の友に交りて麻畝の性と成る」(立正安国論)<通解>悦ばしいことに、あなたが 蘭室の友(蘭の香りのように人徳の薫り高い人)に交わって感化を受け、蓬のように曲がっていた邪信が、 麻のように素直な正信になることができた。
2016年
12/18「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、 師弟相違せばなに事も成すべからず」(華果成就御書、P900)<通解>よい弟子をもつならば師弟はともに成仏し、 悪い弟子を養うならば師弟はともに地獄に堕ちるといわれている。師匠と弟子の心が違えば何事も成就することは できない。
12/17「総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・ 十羅刹も御守り候べし」(四菩薩造立抄、P989)<通解>総じて日蓮が弟子といって法華経を修行する人々は、日蓮のように しなさい。そうするならば、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏、十羅刹女も必ず守護されるであろう。
12/02「衆生の心けがれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土といい穢土というも土に二の隔なし只我等が心の善悪に よると見えたり」(一生成仏抄、P384)
9/09「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は 人の振舞いにてそうらいけるぞ」(崇峻天皇御書、P1174) [通解]釈尊一代の説法の肝心は法華経である。法華経の修行の肝心は不軽品である。不軽菩薩が人ごとに敬ったというのは、どういうことを 意味するのであろうか。教主釈尊の出世の本懐は、人として振る舞う道を説くことであった。
9/08「仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならいひわめ 智者とならで叶うべきや」[通解]仏教を学ぶ人は、父母、師匠、国家社会の恩を忘れてはならない。この大恩に 報いるには、必ず仏法の奥底を学び行じて、智者とならなければならない。(報恩抄」、P293)
9/06「甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず、すこし健の者も独なれば悪しきみちには・たうれね」 (三三蔵祈雨事、P1374)
8/28「家に讃教の努めあれば七難必ず退散せん」 (南部六郎殿御書 P1374)
8/26「わざはひも転じて幸いとなるべし、あひかまえて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」 (P1124)
2015年
5/31「人のものををしふると申すは車のおもけれども油をりてまわり・ふねを水にうかべてゆきやすきようにをしへ候なり」 (P1574)
5/23 一生はゆめの上・明日をごせず・いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず、されば同じくは・なげきたるけしきなくて此の状に・ かきたるが・ごとく・すこしも・へつらわず振舞仰せあるべし、中中へつらふならば・あしかりなん「四乗金吾殿返事(不可惜所領事)」)
訳 一生は夢の上の出来事のようであり、明日何が起こるかも分からない。どのようなつらい境遇になっても法華経に傷をつけてはならない。 それゆえに、同じ一生を生きるのであれば、嘆いた様子を見せないで、少しもへつらわず振る舞い、正しい仏法を語っていきなさい。 なまじへつらうならば、かえって悪くなるであろう。

5/22 天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか (254P)「天が晴れるならば、大地は自然に明るくなる。同様に法華を識る者、つまり、 妙法という一切の根源の法を体現された大聖人は、世の中の事象も、当然、明らかに知ることが できる」
5/18 蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧羅松頭に懸りて千尋を延ぶ「立正安国論」
通解:小さな青バエも駿馬の尾につかまって万里を行くことができ、葛は大きな木にかかって千尋に 伸びることができる。(小さな存在であっても、妙法を信じ、広布に邁進することで、大きく境涯革命 できる)
3/12 強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切修生の口にうたわれ給へ、あしき名さへ流す 況やよき名をや何に況や法華ゆえの名をや。『四条金吾殿御返事』ー[現代語訳]強く大きな信の力をだして「法華宗の四条金吾、四条金吾」 と鎌倉中の上下万人、日本国の一切衆生の口にうたわれなさい。悪名でさえ世に流れる。善き名を流すのは当然だ。ましてや『法華経』ゆえ の名を流すべきなのはいうまでもない。
[超訳]成功したい。お金を稼ぎたい。健康で長生きしたい。人間のこうした願望を、道徳家は「利己主義」と非難し、宗教家は「現世利益」 と蔑む。けれども、なかにはそうはいえないケースがある。つまり、自分だけがいい思いをしたいのではなく、自分と同じ貧乏や病気に 悩む人たちに希望や勇気を与えたくて頑張る人がいるのだ。自分の幸せは、自分のような人の幸せにつながる。金銭欲や自己顕示欲が 強い人は、無理に性格を変える必要はない。ただ考え方を変えてみる。「自分のために」から「自分のような人のために」へ、と。 そうすれば、真の成功者になれるだろう。
2/15 汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静ひつを禱らん者か「立正安国論」
2/15 衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、 衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたる。「一生成仏抄」
1/24 心の一法より国土世間も出来する事なり。「三世諸仏総勘文教相廃立」= 心という一法から国土の違いも出てくるのである。
1/6 いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏もさだまらず「開目抄」=迹門ではまだ仏が発迹顕本して いないので、真の一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらない。
2014年
9/20 自他共に知恵と慈悲と有るを喜とは云うなり。「御義口伝」=真の喜びとは、自他共に知恵と慈悲を持つことである。
9/21 南無妙法蓮華経とばかり唱えへて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす、 されば止観の四に曰く「仏法は海の如し唯信のみ能く入る」と「御本尊相猊抄」=「南無妙法蓮華経」とだけ唱えて、仏の生命を 開くことが最も大切である。それも、ひとえに信心の厚薄によるのである。仏法の根本は、「信」をもって源とする。摩訶止観の第4には、 「仏法は海のように深い教えである。その深い教義もただ信の一字をもってのみ、よく理解し修得することができる」とある。
9/22 此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然れどもいまだこりず候法華経は種の如く仏は うえての如く衆生は田のごとくなり 「曽谷殿御返事」(成仏用心抄)=この法門(法華経)を日蓮は説く故に、”忠言耳に逆らう”との 道理から、流罪にされ、命の危機にも及んだのである。しかしながら、いまだ懲りてはいない。法華経は種であり、仏は植え手であり、 衆生は田のようなものである。(これは、たとえて言えばの話であり、衆生の中にもともと仏界が具わっており、それが開くという ことである。)
9/23 きたはぬ・かねは・さかんなる火に入るればとくとけ候、氷をゆに入るがごとし、剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず是きたへる 故なり、まへにかう申すはきたうなるべし、仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり 「四条金吾殿御返事(世雄御書)」= 鍛えていない鉄は、燃え盛る火に入れれば、すぐに溶けてしまう。氷を湯に入れるようである。剣などは、高温の火に入れても、しばらく は溶けない。これは、鍛えてあるからである。あなたに事前に、こう申すのは、自身を鍛えてほしいからである。仏法というのは道理である。 道理というのは、主君のふるう権力に勝っていくものである。
9/28 信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし「秋元御書」 =信じる心が完全で正しければ、万人を平等に救済する仏の知恵の水を受けて乾くことがない。
10/4 夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障りいでたれば賢者はよろこび 愚者は退くこれなり<兵衛志殿御返事>-通解 夏秋冬春と四季の変わり目には、必ずふだんと異なることがある。凡夫が仏になる時もまた同じで ある。必ず三障四魔という障害が現れるので、賢者は喜び、愚者は退くのである。
10/11 一切衆生は互いに相助くる恩重し。<十法界明因果抄>-通解 すべての生き物は助け合っているから互いに恩が重い。
10/11 智慧とは万法己己の自受用報身の振舞いなり聡達とは自由自在に振舞うを聡達とは云うなり。<十法界明因果抄>-通解 智慧とは、すべての存在がそれぞれ仏の智慧の働きのままに振舞うことをいう。また聡達とは自由自在に振舞うことをいう。
10/13 一切世間の外道の教書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず。<白米一俵御書>-通解 世の中のあらゆる思想書は皆、仏の教えであって、仏教以外の教えではない。
10/13 本性よき人なれども酒に酔いぬればあしき心出来し人の為にあしきが如し。<新池御書>-通解 「摩が差す」というのは、心根がよい人であっても、酒に酔ってしまえば悪い心がでて他人に迷惑をかけるようなものである。
10/19 但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず<安国論御勘由来>-通解 日蓮がこのこと(立正安国論)を言うのは、ただひとえに国のため法のため人のためであって、自分の身のために言うのではない。。
10/23 かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むるできなり、法華経の行者といはれぬる事は 不詳なりまぬかれがたき身なり<寂日房御書>-通解 このような日蓮の弟子となる人々は、宿縁が深いと思って、日蓮と同じく法華経を弘めるべきである。法華経の行者といわれるようになった 以上、難は必定なので、覚悟を定めていくべきである。
10/29 「我等が如く悦び身に余りたる者よも・あらじ、されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ、常寂光の都為るべし」
・・本因妙の実感を表わす御書(P1343)。
10/30 「初めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(P788)
・・初めて自身の心が本来、仏であると知ることを大歓喜というのである。南無妙法蓮華経とは、歓喜の中の大歓喜である。
11/01 一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ、教主釈尊の出世の本懐は 人の振舞にて候けるぞ(崇峻天皇御書P1174)
・・通解・・釈尊一代の説法の肝心は法華経である。法華経の修行の肝心は不軽品である。不軽菩薩が人ごとに敬ったということは、 どういう事を意味するのであろうか。 教主釈尊の出世の本壊は、人として振る舞う道を説くことであった。
11/20 木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけをかひねればたうれず、木より生いて候木なれども根の弱きはたうれぬ、甲斐無き 者なれどもたすくる者強ければたうれず、すこし健の者も独なれば悪しきみちにはたうれぬ ・・・されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識 たいせちなり(三三蔵祈雨事)
[現代語訳]植えた木であっても、強い支柱で支えておけば、大風が吹いても倒れない。もともと生えていた木であっても、根が弱いものは 倒れてしまう。腑甲斐ない者であっても、助ける者が強ければ倒れない。少し強い者であっても、独りであれば、悪い道では倒れてしまう ・・・それゆえ仏になる道は善き友に勝るものはない。自分の智慧が何の役にたつだろう。ただ暑い寒いを知る智慧さえあれば、後は善友 が大切である。

12/2 桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身を開見すれば是れ即ち量の義なり
[通解]桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、おのおのの当体は改めず、そのままの姿で無作三身(本来ありのままの仏)と開きあらわして いくのである。これが一切を摂めることであり、(無量義の)「量」の義である。

12/25 一念に億劫の辛労を尽くせば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり [通解]一念に億劫の辛労を尽くして、自行化他のわたる実践に励んでいくなら、本来わが身に具わっている仏の生命が 瞬間瞬間に現れてくる。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行である。

12/29 日蓮が慈悲広大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の 道をふさぎぬ、此の功徳は伝教・天台にも超え竜樹・迦葉にもすぐれたり、極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の 弘通は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳(のみ)、春は花さき秋は果(このみ) なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや - 「報恩抄」の一節(329P3~7)