〇『人間革命』メモ

〇『新・人間革命』メモ
第8巻
『宝剣』
1963年 男子部幹部会 学会はいよいよ「本門の時代」に入ることを宣言したのである。
伸一の話は続いた。「ところで、現代の日本の学者の間では、宗教は科学に反するとか、宗教は必要ないといった考え方が主流を占めておりますが、 それは間違いでありす。偉大な科学者である、かのアインシュタインも、宗教の必要性を叫んでおりますし、文豪トルストイもこう語っております。 『最も野蛮な迷信の一つは、人間は信仰無しに生き得るものだという独善に対する、現代のいわゆる学者の大多数の迷信である』また、19世紀の アメリカの作家ウィリアム・アダムスは、信仰は理性の延長であると述べられています。冷静に、人生を、社会現象を見極め、人生の苦悩をいかに して解決していくのか、生命とは何か、宇宙の本源の力とは何かを突き詰めていくならば、宗教に至らざるをえません。こうした思想家、科学者が、 生命の大哲理である日蓮仏法を知ったならば、驚嘆し、頭を垂れ、また、感涙にむせんだにちがいないと、私は信ずるものであります。その最高の 大宗教たる、日蓮仏法を奉持した私どもは、宗教革命、人間革命を機軸に、文化、社会、政治、経済など、あらゆる分野の改革に立ち上がり、まず 20年先をめざして前進してまいりたいと思います」

第11巻
『躍進』
・・・人生の輝きを増していくには、どうすればよいか。まず、根本目的をどこに定めるかです。自分のみの幸せを願って、 財産や、地位、名誉、名声、権威、権力を求めるのではなく、『広宣流布に生きよ!』というのが、大聖人の御指南です。 人は、どこに人生の輝きを見るのか。それは、エゴイズムの殻を打ち破り、時には自分を犠牲にしながら、悩める友のため、 人びとのため、社会のために献身する姿ではないでしょうか。それこそが、広宣流布に生きる姿です。 しかも、広布の道には犠牲はない。苦労したことは、すべて未来の大福運となり、大功徳となります。」 参加者は、熱のこもる伸一の話に、真剣に耳をそばだてていた。 「また、人生の輝きは、自身の使命を自覚して、自ら勇んで広宣流布に邁進していくなかに生まれます。 信心は義務ではありません。権利です。ところが、受け身になり、ただ人に云われたから動くというだけになってしまうと、 どうしても義務感の信心になり、歓喜もわいてきません。反対に、自分から一人立ち、積極的に、果敢に行動していくところには、 大歓喜があります。 さらに、日々、自分を磨き鍛えていくことです。つまり、持続の信心です。持続というのは、ただ、 昨日と同じことをしていればよいのではありません。『日々挑戦』『日々発心』ということです。信心とは、 間断なき摩との闘争であり、仏とは戦い続ける人のことです。その戦いのなかにこそ、自身の生命の輝きがあり、 黄金の人生があることを知っていたたきたいのです」

『暁光』
いよいよ、これからが戦いだ。嵐を突いて進もう。真剣な題目と、聡明な知恵と、必死の行動で、新しい局面を開いていくんだ。

第14巻
『使命』
・・・ 自分を不幸にするものは、他者ではない。時流でも、運命でもない。自分の弱さである。 希望をいだけず、勇気を奮い起さず、あきらめてしまう。そして、無気力や自暴自棄に陥り、 他人を恨み、自分を不幸にしてしまうのである。・・・
『烈風』
・・・ 「決意を固めても、旧習の壁の厚さなどから、『とても広宣流布などできない』と思い込んでしまう。 実は、その心こそが最大の”敵”なのです。実は、それに打ち勝って、自分の弱さを破り、油断、惰性を排して 、前進していくために、同志のスクラムが大事になるんです・・・」・・・
『大河』
・・・ 伸一は、新段階を迎えた今、学会本部の機構等も近代的なシステムに改革するなど、宗教界の先駆となる。 最も民主的な学会をめざしていきたいと語った。・・・1970年代・・・さらには、21世紀の展望を述べた。 そして、科学文明が、人間の部品化や主体性の喪失、精神の空洞化といった弊害をもたらしてきた事実を 指摘・・・
1970年(昭和45年)5月3日ーーー。
このあと、彼は、今後の学会の在り方について語っていった。まず、あくまでも入会は厳格にし、入会に際しては、 座談会への参加を条件とすることなどを発表した。
「人生には、いろいろな時期がある。荒れ狂う暴風雨のような、大問題に直面することもあるでしょう。 しかし、決して逃げないで、勇敢に突き進んでいくんです。その経験を総括し、そこから何かを発見していくならば、 それこそが、価値創造の力になるからです。たとえば、学会の組織のなかで、いやな先輩がいたとする。 それでも、逃げたり、投げ出したりぜす、信心を全うしていくんです。そして、そのなかで、先輩幹部としての 在り方を考え、自らそれを実践していけば、偉大な指導者に育ちます。何事も、経験は財産であり、 価値創造の母なんです」
広宣流布という人生の根本の軌道を外れれば、待っているのは空転でしかない。

第15巻
『蘇生』
21世紀に生き行く民衆の願望は外形のみの改革にはない 一人ひとりの哲学と思想の中に平和裡に漸進的な汝自身の健全なる革命を願っている これには長期の判断と深い哲理を必要とするこれを総体革命と命名したい そしてこれをわれらは広宣流布と呼ぶ
第16巻
『入魂』
伸一は、さらに力をこめて訴えた。「大聖人は、弟子でありながら退転・違背していった、心の歪んだ ”びゃくにん”たちは、仏法の法理に照らして、念仏者よりも、長く阿鼻地獄に堕ちて、苦しみ抜くのだと、 御断言になっている。そして、そのことを思うと、不憫で、かわいそうでならないと言われているんです。 大聖人は、常に弟子たちを厳しく戒められていますが、それは、断じて門下を守り抜こうとする大慈悲 からです。惰弱でずる賢い姿勢が見られたり、不正がある者がいたら、見て見ぬふりをするのではなく、 厳格に指摘し、諌めていくことが慈悲です。それが相手を救うことになるんです」 「・・退転者たちは『我々は柔らかに法華経を弘めよう』と言う。彼らの本質は臆病であり、保身です。 名聞名利なんです。ところが、いかにも利口げに、自分が正しいかのように詭弁を弄する。しかも、 正義の人に濡れ衣を着せたり、巧みに問題をすり替えたりして、大善の人を大悪人にしていく。 そして、人びとを誑かし、退転させていくのが、反逆者の常套手段です」
「・・どんなことがあっても、そこに、何か意味を、喜びを、見いだして、勇んで挑戦していくことが 価値の創造につながるんです。それには、人生の哲学と智慧、そして、生命力が必要になる。 実は、そのための信心なんです」
ドストエフスキーは記している。「人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです」 真理の言葉である。
(p47)ともあれ、自らが行動し、つかんだ体験こそが人生の真実の財産です。ルソーも 「もっとも長生きした人とは、もっとも多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を 体験した人だ」
(p64)人生も信心も、すべて限りある時間との壮絶な戦いである。いかに立派そうに決意を 語り、大言壮語しようが、瞬間、瞬間、時間をどう使い、何をしているかに、その人の生き方や 真剣さが表れるものだ。
(p72)「およそ何かに着手するとき、それを達成しようとする最大の熱意を引き出すのは、 最大の希望なのだ」これは、古代ギリシャの歴史家トゥキュディデスの名言である

第17巻
『本陣』
この男子部総会で伸一は、 人生の勝利を飾りゆく要諦として、「信心」「見識」「努力」「人情」「目標」 の五項目を示したのである。
『緑野』
アメリカの哲学者デューイは結論している。「現実の動きの意味を明確にし明瞭にする仕事を進めるのが、 転換の時代における哲学の任務であり問題である」

第18巻
『前進』
ここでいう「正直」とは、単に自分の心に嘘や偽りがないということではない。人間の心は揺れるものだ。 欲望に支配され、誤りを犯すこともある。したがって、真実の教えや正しい規範に対して正直であると いうことである。
大聖人は、正直には、「世間の正直」と「出世の正直」の二つがあることを述べている。「世間の正直」 とは、社会での人の道を違えぬことであり、「出世の正直」とは、仏法の上で真実の教え通りに、誤りなく 生きることである。大聖人は、人びとの「正直な心」が失われ、人の道にも、仏法の道にも外れてしまったが、 ゆえに、八幡大菩薩は去り、社会は不幸の様相を呈したと指摘されているのである。

『師恩』
(p137)「たゆまず、休みなき努力によってこそ、『信念』は『豊かで揺ぎなき体験』に変わるのです」とは、 マハトマ・ガンジーの箴言である。
(p166)フランスのために思想家シモーヌ・ベーユも誇り高く語った。 「未来は待つべきものではない。作り出さなければならない」

第19巻
『虹の舞』
・・麻酔から覚めた時には、右腕は切断されていた。母親は彼に、毅然とした口調でこう言った。 「これから先、どんなに辛いことがあっても、人を羨んだり、妬んだりしてはいけないよ」 それは”ハンディに負けるな。強くなれ!”との愛の叫びであった。
「私の決意さえ堅固であれば、希望が実現しないことはない」これは、中国の大指導者・周恩来総理の 若き日の言葉である。
必死の一人の闘争が、波動し、広がって、新しき歴史が創られるのだ。

『凱歌』
「一歩たりとも退いてはならない。行動の優柔不断は頭脳の空虚を意味する」とは、 文豪ユゴーの警句であった。

『陽光』
「人間が権威的、官僚的になるのは、力のない証拠です。周囲の人を納得させる力もなく、 尊敬を勝ち取る人間的な魅力もないと、立場や権威で人を従わせようとするようになって しまう。 しかし、偉ぶって一方的に指示をするだけでは、みんなの心は離れていきます。 職員に頑張ってもらうためには、気さくに声をかけ、胸襟を開いた対話をしていかなくては ならない。そして、良い意見を聞いて、どんどん取り上げていくことです。・・」

第20巻
『架け橋』
「誠実な魂には動揺がない」とは、ロシアの作家ゴーリキーの慧眼である。
勇気をもって真実を語ってこそ、心の扉は開かれ、魂の光が差し込む。それが、信頼の苗を育んでいくのだ。 それが、折伏精神ということだ。

『信義の絆』
「やるからには、すぐやろう!新しい道を切り開くんだ。」山本伸一の胸には、この魯迅の叫びが、 強く、激しく、轟いていた。
また、魯迅は言う。「いつの時代にも、かならず、まず剛健なるものがあらわれて、先駆となり、前衛となって、 歴史に道を開き、清める」伸一は、この箴言を自らに課し、世界平和を創出する先駆となることを 心に誓った。
・・理想を実現しようと思うならば、現実を凝視しなければならない。現実から目をそらすならば、 そこにあるのは「理想」ではなく「空想」である。

第21巻
『SGI』
1975年1月26日・・世界平和会議・・東京裁判(極東国際軍事裁判)で知られるパール判事の 長男・プロサント・パールからのメッセージ・・「人間が、今後、生存しうるとするならば、それは 人間自身の思想の変革によらなければなりません。継続的な世界平和のための唯一の方途は、仏教の 原理、そして非暴力の理論であるべきです。私は、この会議の大成功を祈ります。」
『人間外交』
対話は、人間と人間を結ぶ。仏法という生命尊厳の哲理も、この対話を通して広がっていく。 対話には、勇気が必要である。そして、相手を包み込む人間の温もりが求められる。 また、対話には、納得と共感をもたらす智慧と情熱が必要である。 いわば、対話力とは、総合的な人間力の結実といってよい。人間は、対話への挑戦を通して、 自分を磨き、高めていくことができるのである。
・・・ 佐藤は、敗戦以来、日本にモラルがなくなってしまったことを、深く憂慮していた。 「欧米には宗教的モラルがあるが、日本人には自ら律するものがないのが心配です。しかも、 本来、モラルの模範を示すべき政治家が、決して模範にはなっていない。これは、 極めて由々しき事態です」 宗教の大きな役割の一つは、人びとの胸中にモラルを確立させることにある。 佐藤は、人間の精神をどう変革するかを、テーマとしていたようだ。 食事が終わると、伸一は佐藤の部屋に案内された。一緒に階段を上っていくと、途中に一枚の 写真が飾られていた。戦後日本の立て直しを図った宰相として知られる吉田茂と佐藤が、並んで 写った写真であった。 「私の師匠です!」佐藤は胸を張って、誇らかに言った。 一国の総理が自分の師匠を尊敬し、誇りをもって紹介する姿に、伸一は”この人は、心から信頼 できる”と思った。 「求道の人」「向上の人」は、必ず師匠を求める。そして、心に師をいだいている人には、 厳たる風格がある。
・・ゲーテは叫んだ「誠実に君の時間を利用せよ!」と。

『共鳴音』
・・ヘレン・ケラーは、「他人のためにつくそうとか、社会に新生命を打ち建てようという、 私欲を離れた目的から永続的な確実な歓喜が生れる」と宣言している。
・・伸一は、語った。「各国からおいぢただいて、ありがとう。 学会の組織は、各人の主体性を生かすためにあり、拘束するためのものではありません。 創価学会という組織のなかに個人があるのではなく、個人の心の中に創価学会があるんです。 つまり、創価学会員であるという自覚こそ、個人の良心の要であり、勇気の源泉となるのです。 求道心を燃やし、指導を求め、また、団結していくことは大事ですが、あとは、自由に、 伸び伸びと、自分らしく、自他ともの幸福のために頑張り抜いてください。では、また、 お会いしましょう!」

『宝冠』
・・人間的であることとは、人への感謝の心をもち、率直に、その気持ちを伝えることである。 感謝なき人間主義もなければ、自身の思いを表現せぬ無表情の人間主義もない。・・
・・その時、一人の日本人女性が立ち上がった。日本対外文化協会の紹介で、通訳として 第一次訪ソの時から伸一たちに同行してきた女性である。しかし、彼女は、立ったきり、 なかなか話を始めなかった。見ると、その目は潤み、懸命に嗚咽をこらえてきた。 やがて、肩で大きく息をし、話し始めた。「私は、今、泣いております。・・私は長い間、 通訳をしてきただけに、今、先生の話した日本人の悪い面は、いやというほど目にし、 耳にしてきました。友好を口では唱えながら、心は違っている人が多かったのです」 言葉が途絶えた。込み上げる感情を抑えるように、彼女は、話を続けた。「私は、私は ・・今の先生の話を聞き、先生の行動を見て・・、初めて、通訳してきてよかったと 心から言うことができます。先生、ありがとうございました!」 その目は輝き、頬には涙が光っていた。 平和を願っての伸一の賢命な行動を間近で見てきた彼女は、真の日ソ友好に貢献できた喜びから 泣いたのである。会場は、さわやかな感動に包まれた。・・

第22巻
『命宝』
「蔵の財」とは、金銭やモノなどの財産である。また、「身の財」とは、体のことであり、肉体的な 健康や、自分の身につけた技能なども、これに入ろう。そして、「心の財」とは、生命の強さ、輝き であり、人間性の豊かさである。さらに、三世永遠にわたって、崩れることのない福運ともいえよう。 その「心の財」は、仏道修行によって得られるのである。戦後の日本は、経済発展を最優先し、「蔵の財」 の獲得に力を注ぎ、利潤の追求を第一義としてきた。その結果、人間の管理化が加速され、過度の ストレスなどを生むとともに、環境破壊も進み、大気や河川、海も汚染され、公害病などが蔓延するに 至った。そこでようやく、「蔵の財」偏重の誤りに気づき、次第に「身の財」を重要視するようになった。 それが、「健康維持」や「健康増進」への強い関心となっていった。巨額の富も、使えば、いつかなくなるし、 災害などで、一瞬にして失ってしまうこともある。しかし、健康でさえあれば、また働いて、富を手に入れる ことができる。大切なのは、体であり、健康である。ゆえに、大聖人は「蔵の財」より「身の財」を 言われたのだ。だが、「身の財」である肉体も、やがて老い、病にもかかる。「身の財」も永遠ではない。 また、いかに、肉体が健康でも、心が不安や恐怖、あるいは嫉妬や憎悪にさいなまれていれば、生の喜びはない。 「蔵の財」「身の財」も、人間にとって大事なものではあるが、それを手に入れれば、幸福になるとは 限らないのだ。人間の幸福のために、最も必要不可欠なものは、「心の財」である。心が満たされなければ、 幸福はない。「幸福であるか不幸であるかは、心で決まる」とは、ガンジーの洞察である。しかし、その心が かろんじられ、「蔵の財」「身の財」の追求に血眼になり、発展を遂げてきたのが、現代文明といってよい。
伸一は、じっと、メンバーを見つめると、厳しい口調で言った。「まず、今後5年間、退転せずに頑張り なさい。今は苦しみなさい。本当の獅子にならなければ、広宣流布などできない。

第23巻
『未来』
モノや知識は豊富に与えられても、精神の砂漠に放り出され、人間の道を教わらぬ子らもいる。 戦火に怯え、飢餓に泣く子らもいる。そうした、世界のすべての子どもたちが、自ら価値を創造し、 幸福を実現していくために、創価教育はある。創価教育の父・牧口常三郎は、『創価教育学体系』 の発刊にあたり、自身の思いを、「児童や生徒が修羅の巷に喘いで居る現代の悩みを、次代に 持越させたくないと思うと、心は狂せんばかり」と記している。伸一は、先師の、その慈愛の 一念から生まれた創価教育を、人間主義教育を、人類の未来のために、伝え、生かしていくことを、 自らの使命とし、最後の事業としていたのだ。
『学光』
「人間の完成よりも知識が、知識よりも学歴、資格が優先され、教育目的の逆転現象を呈して いる今日の大学にあって、人間の道を究めんとする皆さんの存在は、教育のあるべき姿を世に 問うものと確信してやみません」伸一の通教生に対する期待は、限りなく大きかった。彼は、 そこに、真実の人間教育の道を見ていたのである。

・・日本の知識人の多くは、権力に迎合し、大勢に押し流され、迫害に抗して正義のために 戦った歴史があまりにも少ないことを指摘。それを戸田城聖は、「日本の民衆の悲劇」として、 深く嘆いていたことを述べた。 「戸田先生は、『民衆が教養を身につけず、一握りのまやかしの知識人に引きずられていく ことは不幸である』と語っておられた。こんな不幸の歴史は、断じて転換しなければならない。 そのためにも、民衆の一人ひとりが、教養を積み、確固たる人格を築いていかねばならない」 まさに、ここにこそ、創価大学通信教育部開設の意義があるといってよい。

第24巻
『人間教育』
・・最高幹部たちは、意外な思いがした。 彼らは、「大ブロックの強化」がテーマであったことから、伸一は、重層的な担当幹部の配置や、 大ブロック幹部、ブロック幹部の定期的な研修会の開催などについて、語るのではないかと 考えていたのである。 もちろん、それも大事なことだ。しかし、そうした組織の制度的な対応に目を向ける前に、 伸一は、何が組織活動の活力源であるかを、人間という原点に立ち返って、明らかにして おきたかったのである。 人間の心こそが、すべての原動力である。ゆえに、その心が、赤々と燃えているかどうかに 目をむけるーーそこに、人間主義の指導者の視点があるのだ。
1977年・・伸一は、そうした教育界の動きを見つめながら、未来を思い、思索をめぐらいしていた。 ”現状を見すえ、制度を改革していくことは、当然、必要である。しかし、それ以前に、 子どもたちに、なんのための学校か、なんのための勉強かを自覚させ、一人ひとりの、 やる気を引き出していく教育をめざすことこそ、最も大切なテーマではないか。子どもの 自主的な挑戦の心を育まずしては、ゆとり教育は、深刻な学力の低下を招きかねないからだ。 そして、そのやる気を引き出していくには、教師という人間の力によらざるを得ない・・・”

第25巻
『共戦』
「草創期に頑張ってこられた皆さんの多くは、先輩たちから、厳しく叱咤激励されてきた経験を おもちでしょう。しかし、人材の育成、教育の在り方は、時代とともに異なってきています。 自分が受けた訓練を、そのまま後輩に行うべきではありません。これからは、賞賛、激励の時代です。 多種多様なあらゆる努力を的確に評価し、褒め、讃えていく。それが、勇気となり、意欲を育んで いきます。その場合も、一つ一つの事柄を、具体的に讃えていくことが大事です。また、賞賛の タイミングを外さないことです。ともあれ、皆さんは、人材育成の達人になってください」 民衆詩人ホイットマンは、「自らが偉大な人を育てる。そして、偉大な人を育てられる人を育てていく ・・・すべては、そこから始まる」と述べている。創価学会の未来永劫の流れも、そこから始まる のだ。

・・ザビエルは、薩摩で、仏僧の自堕落な生活に驚きを覚える。彼の書簡には、「坊さんよりも、 世間の人の方が、正しい生活をしている。それでいて、相変わらず坊さんが尊敬されているのは、 驚くべきことだ」とある。・・

・・「皆さんは、ずっと待っていてくださったんでしょう。その”真心”に応えたいんです。 世間は”打算”ですが、信心の世界、学会の世界は”真心”なんです。 広宣流布をめざして、師匠と弟子の、同志と同志の、心と心がつながってできているのが、 創価学会です。だから、学会は、組織主義ではなく、人間主義の団体なんです。そこに学会の 強さがある。その清らかな精神の世界をまもるために、私は戦っているんです。・・

『薫風』
青年、なかんずく学生が、世の中の矛盾、不合理を看過したり、黙認してしまえば、社会の改革も、 自身の成長もない。鋭い批判力は、青年のもつ最大の武器である。

偏見とは、認識なくして評価することだ。その偏見との戦いが、仏法対話なのである。

第27巻
『求道』
間髪を容れずに、戸田の声が響いた。 「そうだ。そうなんだよ、伸一!第一に『使命の自覚』だ。これがないと、人生の根本目的が わからず、迷いが生じ、本当の力はでない。使命を自覚した時に、最大の力を発揮していけるものだ。 第二に『向上心』だ。若芽が大地を突き破って、躍り出てくるように、伸びよう。挑戦しよう。 前進しようという一途な心だよ。向上への覇気のない者は、十代であろうが、二十代であろうが、 青年とはいえない。青年とは、向上心の異名といえる。第三に『忍耐』だよ。自分に内在する才能を 磨き、輝かせていくには、長い間の修行や努力が必要だ。それまでは、何があっても辛抱強く 頑張り抜くことだ」

第28巻
『革心』
声を発するのだ!行動を起こすのだ! そこから変革への回転が開始する。

新しき時代・社会を建設し、革新していくには、その担い手である人間自身の精神の改革が 不可欠である。人間の精神が活性化していってこそ、社会も活性化し、蘇生していくからだ。 宗教は、その人間の精神のバックボーン(背骨)である。