〇第10:法師品(ほっしほん)
法師品は説いている。清浄な場所に生まれようと思えばできる大菩薩が、苦悩の民衆を救うために、あえて、願って悪世に生まれ、法華経 を説くのだと。妙楽大師は、そのことを「願兼於業」(願いが業を兼ねる)とよびました。宿命で、今世があるのではなく、使命のために今世がある というのです。
法師品からの展開は、前章までのと大きく異なります。ここから釈尊は、自分が亡くなった後(滅後)のことを、説き始めるからです。滅後の 焦点は末法にある。何が正義で何が間違っているのか、わからなくなった時代に、人はどう生きるべきかという問題です。
滅後の弘教の在り方として、法師品では「衣座室の三軌」が説かれます。「薬王、若し善男子、善女子有って、如来の滅後に、四衆の為に 是の法華経を欲せば、如何が応に説くべき。是の善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に座して、しかしていまし四衆の為に広くこの経を 説くべし、如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是なり、如来の衣とは柔和忍辱の心是なり、如来の座とは一切法空是なり」と。
慈悲とは、「慈しみ」であり、深い意味での「友情」です。同じ人間として、また、同じ生命として、共通の絆を感ずることです。 「愛」といってもいいと思いますが、簡単に憎しみに転ずるような利己的な愛ではない。生命への洞察に根ざした人間愛です。 共に幸福になろう。共に成長しようという真の連帯とでも言いましょうか。
柔和忍辱の心とは、どんな圧迫があろうとも、にこやかに、悠々たる境涯でいきなさいということです。滅後の弘教においては、難は 必然です。そこで「忍辱の心」が必要になる。耐え忍ぶ心です。耐えるといっても、退くことでも、負けることでもない。耐えて勝つ のです。心は何があってもへこたれないのです。広宣流布は精神の闘争です。心が負けていては「忍辱の心」にはなりません。
「一切法空が如来の座である」とは、自在の智慧ということです。すべてはつねに変化している。無常の存在である。空である。 そういう世界の諸法実相をありのままに見て、何物にもとらわれない境涯を指しているといえるでしょう。

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