〇第14:安楽行品
まず、「身安楽行」です。ここでは、菩薩の「行処」すなわち「どう振る舞うべきか」と、「親近処」すなわち「人との交際はどうすべきか」 が説かれてます。「行処」とは「忍耐強く、柔和で、乱暴ではなく、おそれおののくことなく、何ものにもとらわれず、物事をありのままに見 て、みだりに決めつけることがない」。「親近処」では、誘惑されて仏道の志を失いそうなところへは近づくなと言ってます。権力者のところ や遊興の場所に行くなとか。男性は女性に、やましい心をもって法を説くなとか。そして、それらの根本姿勢を「一切は空であるから、有であ るとか無であるとか、とらわれの心でみてはいけない」と説いています。
次に「口安楽行」。これは、「口のきき方」についての注意です。経典や法師の悪口を言ってはいけない。他人の、ここが好きとか嫌いとか、 ここがいいとか悪いとか言ってはいけない。名前をあげて人をけなしたり、ほめたりしてはいけない、などです。ただ、あくまで法を説くにあ たっては「方便を用いて皆を発心させ、次第次第に仏道に入らせよ」「慈しみの心をもって説け」「昼も夜も常に、無上道の教えを説き、多く の因縁、比喩を語って、衆生を歓喜させよ」「質問を受けたら、小乗の教えではなく、大乗の教えによって答え、一切のありのままを知る知恵 を得させよ」「多くの人々が仏道を成就することを、心に念ぜよ」等と強調しています。
次は「意安楽行」です。「法華経を説くにあたっては、妬み、怒り、驕り,へつらい、いつわりの心を捨てよ」と教えています。そして「仏法 を学ぼうとする人をバカにしたり、悩ませたり、疑いをおこさせてはいけない」「法を弘める人を尊敬しなくてはならない」と言っています。 「法を説く相手が、深く法を愛しているから、その人には多く説き、そうでない人には少なく説く、ということがあってはならない」との注意 もある。
最後は、「誓願安楽行」です。法華経を受持する者は、人々に大慈大悲の心をお越し、次のように思いなさいと。「ああ、この人は、仏が、こ の人にふさわしいように法を説いてくださっているのを、聞かず、知らず、信ぜず、理解しようともしないけれども、私が最高の境地を得た時 、私は、どこにいようとも、この人を仏法から離れないようにさせよう」
安楽行品の最後の部分では、「髭中明珠の譬」が説かれています。--転輪聖王は、兵士たちの武勲に対して、武具や田畑や家や財宝など、あら ゆる物を褒美として与えた。ただし、髻(髪を頭の上で束ねた部分)の中の明珠だけは誰にも与えなかった。なぜなら、この明珠は、王の頭上 に、ただ一つだけあり、もしこれを誰かに与えれば、家臣たちは大いに驚いて怪しむだろうからだ。しかし、本当に大きな功労があった者には 、王は喜んでこの髪中の明珠を与えるであろう。この転輪聖王と同じように、仏も、第一の法華経を長い間、誰にも与えず胸中に秘められてき た。それを今初めて、あなたたちのために説くのである--と。ここで、迹門が終わり、次の本門に続くのである。
(日蓮大聖人は明快に仰せです。「今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり」。「難と戦うこと」が 「安楽」であると。「難即安楽」。この悠々たる大境涯をつくるのが、安楽行品の根本です。)

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