〇第4:信解品
信解品は、二乗作仏が説かれた歓喜から開幕します。
前に学んだ譬喩品(第三章)で、釈尊は、舎利弗が将来、「大宝厳」という時代に「離垢」という世界で、「華光如来」という仏になる だろうと保証を与えました。
迦葉等の四大声聞(迦葉・須菩提・迦旋延・目健連)が釈尊の説法(譬喩品の三車火宅の譬え)を理解したこと「長者窮子の譬え」 で、表します。「長者窮子の譬え」では、父(長者)が釈尊を譬えたもので、息子(窮子)は、一乗の弟子たちのことです。
まだ、幼いころ、父を捨てて出て行った人がいた。その人は、長きにわたって、他国を放浪して、すでに年を取り、困窮していた。父親 は、子どもが出て行った後、子どもを探し回ったが、ついには見つけることができなかった。父は、やがて、ある都市に住み着き、非常 に裕福になっていた。財宝が蔵にあふれ、使用人は無数であり、家畜も数えきれない。しかし、父は悩んでいた。「私はもはや年老いた 。まもなく死ぬだろう。しかし、私にはこれほどの財産があるのに、譲るべき子どもが見つからない。わが子を見つけて譲りたい」と。 (これは釈尊が悟りを得て、その悟った法のすべてを譲る人を探していたということです。)
ある日、息子が父の邸宅の前にやってきた。しかし、息子は、邸宅の壮麗さと垣間見た父の立派な姿に仰天した。”ここはすごい人のう ちだ。こんなところにいると、つかまってしまう。早く逃げなければ”と思って、逃げ出した。その時、我が子の姿が、父の目に入った 。五十年も離れ離れでいたが、父にはかわいい我が子だとわかった。喜んで家来に命じて迎えにいかせたが、息子は、「捕らえに来た」 と肝を消し、ついにつかまって、意識を失ってしまった。父は、わが子の心根が低くなっているので、親子の名乗りをしても無理だとわ かった。そこで、やむなく一旦、解放した。(釈尊が悟った後、まず悟った法のすべてをそのまま説こうとしたが、人々には受け入れる 機根が整っていなかったということを示しています。)
父は、まず、貧相な身なりの使いをやり、「給与も二倍だよ」と誘って、わが子を雇い、便所掃除の仕事をさせた。子どもは一生懸命に 働いた。次に、父自身が貧相な身なりをして、子どもに近づいて、話しかけた。そして、親しくなった。そこで父は我が子に言った。「 お前は真面目だから、何でも言ってごらん。私のことを父と思っていいんだよ。私はお前を”息子”と呼ぶから」と言った。やがて父子 の心は互いに理解し信頼し合って、息子は自由に父の屋敷に出入りするようになったが、相変わらず屋敷の外の小屋で生活していた。( 釈尊は、衆生の低劣な機根に合わせて、低い教えを説き、次第に高い教えに導いていったということです。屋敷の外にいたというのは、 まだ成仏を人ごとだと思う心根だったという意味です。)
やがて、父は病気になりました。死が近いことを悟った。そこで父は息子にいった。「私には多くの財宝があり、蔵に満ちている。その 量と、人々にどれだけ与えるべきかを、お前はすべてわかっている。お前は、私の意を体してこの財産を管理していきなさい。なぜなら 、私とお前は全く違わないのだから。心して財産を失わないように」と。息子は財産の管理をすべてまかされるようになった。そして、 その財産を大切に管理した。しかも、その財産の一分も自分のものとすることはなかった。(しかし、どんなに自由に管理しても、自分 のものではありません。まだ、仏の智慧という財産は、自分のものにはなっていません。)
しばらくして、父は息子の心根がようやく立派になり、かっての卑屈な心根を恥じ、大きな志に立ったことを見てとった。そこで、父は 臨終に際して、親族や国王・大臣らを集めて、告げたのである。「諸君、この人物は実は我が子なのである。家出をして五十年間、放浪 していたのだ。本当の名はこれこれだ。私の名はこうだ。一生懸命に探していたが、ここでたまたま出会うことができた。今、私は、自 分のすべての財産をこの子に譲る」と。息子はこの事実を知って、この上ない歓喜に包まれた。(ついに息子の志が高く大きくなったか らこそ、そこで名乗りがなされ、全財産が譲られた。衆生の機根が高まったからこそ、真実の教えである法華経が説かれた。そして、成 仏という無上の宝珠があたえられた。)

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