〇第2:方便品
釈尊は序品で無量義処三昧という瞑想に入っていました。方便品では、釈尊がこの三昧から立ち上がり、突然、舎利弗に対して「諸仏 の知恵は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり」と、仏の智慧の素晴らしさを語り始めます。
仏の智慧を賛嘆してやまない釈尊に対し、一座の疑問を代表して、舎利弗が「ぜひ仏の真実の法を説いてください。」と嘆願します。 三回お願いして、やっと三回目に釈尊は応じ、説き始めようとする。
その大事な時に、5千人の増上慢の僧尼や信者が座を立っていってしまいます。釈尊は、構わずに黙って去らせます。
このように説かれます。「諸仏・世尊は、ただひとつの偉大な仕事を目的として(唯一大事因縁を以っての故に)のためにのみ、 出現される。」と。そして、その「仏の出現の唯一の目的」である「偉大な仕事」の内容が、「開・示・悟・入」の「四仏知見」 として明かされます。・・・
法華経の「開三顕一」で明かされる「一仏乗」こそ、”人類が志求すべき最高の境涯”を教えています。方便品に始まる法華経 迹門の中心的な説法の内容を要約した言葉です。「三乗を開いて一乗を表す」という意味です。「三乗」とは声聞乗、縁覚乗、 菩薩乗の三つをいいます。また「一乗」とは”唯一の教え”という意味です。仏の唯一の教えは”仏”になるための教えです。 「開示悟入の四仏知見」として一乗を明かしています。
個人においては「一生成仏」、社会においては「立正安国」を実現することが「諸法実相」を実現するということです。 一念三千の「一念」は実相、「三千」は諸法です。衆生の起こす一念の心に三千の諸法を具足すること。一念とは瞬間、極微の 生命をいい、三千とは現象世界のすべてをいう。
三世間(五陰世間・衆生世間・国土世間) ×十界(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界) ×十界 ×十如是(如是相、如是性、如是体、如是力、如是差、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究境等) =三千世界
真理(実相)と言っても、どこか遠い別世界にあるのではない。具体的な現象(諸法)から絶対に離れず、あくまで、この 具体的な現実(諸法)の真実の姿(実相)に、英知を集中させている。現実世界から決して離れない決心、これが仏の心なのです。 同時に、現実世界(諸法)の表面にとらわれず、そこに秘められた偉大なる真実の姿(実相)をとらえ、教え、開いていく、 これが仏法の智慧なのです。
法華経の諸法実相は、「現実を変革する」哲学です。運命論には従わない。あきらめにも同調しない。それらの無力感を はね返す”バネ”を開発する。「だからこそ変えていくのだ」と闘志を奮い立たせる。そして「自分は今、何をなすべきか」 と問い続ける責任感を呼び起こすのです。
諸法実相が、一切衆生の成仏の「根元」の法理です。「諸法すなわち個々の生命」が即「実相すなわち宇宙生命」と一体で ある。部分が即全体であるという、この不可思議な関係を明らかにしたのが諸法実相の法理ですが、現代科学の各分野でも、 全体は部分の単なる総和ではなく、個の中に全体が含まれているということを主張するようになっています。 現代の科学も、諸法実相と調和してきている。大切なことは、こうした志向性を「一人の人間の限りない尊貴さ」の 認識へと、リードしていくことです。
「如意の宝珠」とは一念三千であり、ご本尊です。「宝珠即一念三千なり」と日蓮大聖人は、仰せです。一念三千の 信仰とは、自分一人いれば、すべてを変えてみせるという大確信ともいえる「一人立つ」信心です。一人一人が、 妙法の無限の力を満身に漲らせて立つ時代です。ゆえに一人ももれなく、「私はこの世に、このために生まれてきたのだ」 という、かけがえのない使命を、事実の上で果し切ってほしいのです。 その”戦う心””戦い続ける心”自体が、すでに”勝った心”であり、本門十年を絢爛と飾りゆく原動力なのです。
方便品:あなたがたは、すでに、世の師である諸々の仏が、それぞれの衆生にふさわしい巧みな方法を用いて教化することを 知った。であるからには、諸々の疑惑をもつことなく、心に大歓喜を生じて、自分自身が必ず仏になると知りなさい。


          第3:譬喩品(ひゆほん) へ