2025年04月30日<ふたりの祖国 222 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 2>
蘇峰の自負の根拠のひとつになっているのは、昨年11月5日に「蘇峰先生文章報告五十周年祝賀会」
と銘打ったパーティーが帝国ホテルで開かれ、全国から千人以上の知人、名士が集まったことだ。
会長を近衛文麿が、発起人総代を電通社長の光永星郎がつとめてくれた。
近衛文麿はついひと月前に首相の大命を拝して内閣を組織し、国民ばかりか軍部からも絶大な
支持を得ている。
五摂家筆頭の近衛家に生まれ、天皇の親任も厚い彼なら、内閣と軍部の不毛の対立を乗り越え、
挙国一致の新たな体制をきずくことができるだろう。蘇峰はそう期待していたし、国民や政財界、
軍部の見方も同じだった。
日本は昭和6年の満州事変以来6年間、茨の道を歩いてきた。しかしそれは日本が東アジアに
地歩を固め、海洋国家と大陸国家という2つの強みを持つための試練だったのである。
日本人はその試練を見事に乗り切り、今や朝鮮、満州、台湾、南樺太、南洋諸島におよぶ
広大な勢力圏をきずき、アジアの盟主の地区を占めている。
これから3、4年は内政に重きおいて勢力圏の充実をはかり、国力を蓄えた後でイギリス、
アメリカ、ソ連の干渉を排し、アジア人のためのアジア、東亜新秩序をきずかなければならない。
(それが日本の使命なのだ)
蘇峰はそう考えるようになっていた。
そんな矢先、ラジオから支那事変のニュースの第一報が流れた。北京の西郊、永定河に
かかる盧溝橋のあたりで日本軍と中国軍の小競り合いが起こったのである。
7月7日の午後十時頃のことで、夜間演習をしていた日本軍に中国軍が発砲し、互いに
応酬し合う事態になったという。
これを聞いた蘇峰は、偶発的な衝突だろうと思った。夜間演習では敵がどの方向から撃って
きたかを見極める能力を高めるために、敵の役を演じる部隊が空砲を撃つ。
しかも中国側陣地のすぐ近くで、演習していたために、中国兵が敵襲と勘違いして実弾を
撃ったのだろうと考えたのだった。
2025年04月29日<ふたりの祖国 221 安部龍太郎 第九章 戦争の渦 1>
昭和12年(1937)の夏は暑く、湿気の多いうだるような日々がつづいた。
75歳になった徳富蘇峰にはひときわ応える季節の変わり目で、7月初めから山中湖畔の
双宣荘に妻の静子と避暑暮らしをしていた。
日本は中国や英米との対立を抱え、軍事的にも政治、経済の面でも困難な局面にさしかかって
いる。そんな時に自分だけ霊峰富士のふもとで涼しい思いをしたいとは思わないが、『近世日本国民史』
を完成させるためにも、『日日だより』を書いて日本人に進むべき方向を示すためにも、体力を
奪われない環境に身をおくことが必要なのだった。
双宣荘の二階の仕事部屋からは、正面にそびえる富士山とふもとに広がる山中湖が見える。
黒い岩肌を見せて突き立つ富士山は、雪におおわれた季節のような秀麗さはないが、
大地のエネルギーを感じさせる雄々しさに満ちている。
読書や執筆に疲れてその姿をながめていると、
晴れてよし曇りてよし富士の山
元の姿は変らざりけり
山岡鉄舟の解悟の歌が脳裏に浮かんだ。鉄舟は勝海舟、高橋泥舟と並んで、幕末の三舟と
呼ばれた傑物である。徳川慶喜の使者として静岡におもむき、西郷隆盛と海舟の会談を実現させて
江戸無血開城に導いた立役者としても知られている。
蘇峰も海舟の家で何度か鉄舟に会ったことがあるが、禅の悟りに至った達磨のような風貌を
していた。大きな眼が鋭く光りながらも、大空の果てを思わせる深みと優しさを備えていた。
「君はどう生きたいのか」
初対面の鉄舟に鋭く問われ、
「祖国の役に立つ人間になりたいです」
しゃっちょこばって答えたのを覚えている。
蘇峰は己が言葉に恥じないように、天下国家のために生きてきたつもりである。その甲斐あって
言論人としても民友社の主宰者としても成功をおさめたし、日本をここまで導いてきたという自負を、
少なからず持っていたのだった。
2025年04月28日<庶民の願い 公明が実現>
<一人を大切にする教育拡充 高橋みつお氏 兵庫のセミナーで>
・・・・大阪市立大空小学校の初代校長を務めた木村泰子氏・・・は、
日本の教育課題は「主体性」と「当事者性」が欠けていることである。
学校から社会を良くしていくために、「子ども同士をつなぎ、全員が尊重される
教育をめざしたい」と語った。
2025年04月28日<ふたりの祖国 220 安部龍太郎 第八章 独自の道 32>
朝河はすっかり圧倒されて展示室を出た。しばらく、ロビーのソファに座って茫然としながら
、自分の仏教美術に対する理解はきわめて浅かったとしきりに思った。
それはカリブ海への旅で経験した自己放棄以来の悟りの深化によるものだが、
朝河はまだそのことに気付いていない。持ち前の反省心から、自分の力量のなさを
責める気持だけが先に立っていた。
そのせいか無性にやる瀬なくなり、昔の友人に会ってみたくなった。美術館の
現代絵画のコーナーに、肖像画家のジョン・シンガー・サージェントが描いた
「フィスク・ウォーレン夫人と娘レイチェル」が展示されていると聞いている。
彼女の本名はグレッチェンと言い、作家で詩人で女優でもある。朝河は二十数年前
に知り合いになり、5歳年上の夫人の知性と感性の豊かさに魅了されたが、
ちょっとしたいきちがいがあって距離をおくようになったのだった。
目ざす絵は肖像画を集めた一角にあった。ガラス窓が多く採光がいい部屋に、
グレッチェンとレイチェルの絵がかかげてある。カンバスは縦百五十センチほどの
大きなもので、実物大の2人が目の前にいるようである。
グレッチェンは胸の開いた白いドレスを着て椅子に座り、レイチェルはピンクの
可愛らしいドレスを着て母親に体を寄せている。グレッチェンはやさしくおだやかな
表情ながら、神の出現を待ちわびる夢見るような目をしている。レイチェルも
母の視線を追うように、思春期の不安をおびた目で遠くをながめている。
2人はブロンズの髪をして豪華な絹のドレスをまとっている。その光沢を画像を
見事にとらえ、2人の清楚な美しさを演出している。今から二十年前の姿で、
場所はウォーレン家の居間。朝河も何度か訪れた懐かしい場所である。
その頃の思い出にひたりながら絵の前で立ち尽くしていると、
「失礼ですが、イェール大学の朝河先生ではありませんか」
当のグレッチェンが背後から声をかけた。直に会うのは十年ぶりだった。
2025年04月26日<ふたりの祖国 219 安部龍太郎 第八章 独自の道 31>
「この時期に仏像を平和の使者と見立てるのは素晴らしい着想だ。喜んで書かせてもらうよ」
推古仏については、ラングドン・ウォーナーの著書を読んである程度のことは分かって
いる。それほど負担にならないだろうと朝河は思った。
「ありがとうございます。それからウォ―ナー先生とも話したのですが、研究委員会の
テーマに戦時における文化財の保護、救済の方策についても加えるべきではないで
しょうか」
「そうだね。京都や奈良を焼け野原にしたら、先祖に申し訳しわけないからね」
「たとえ日米戦争になっても、そうした事態だけは避けなければなりません。
よろしくお願い申し上げます」
京都で生まれた富田にとって、幼い頃に見た神社仏閣の美がふるさとなのである。
ボストン美術館に長年奉職できるのは、東洋部に収穫してある作品がふるさとその
ものだと思っているからだった。
朝河はもう一日滞在を延ばし、翌日ボストン美術館を訪ねた。推古仏についての
文章を書くには、仏像展示室を見ておいた方がいいと思ったのだった。
法隆寺の金堂を思わせる展示室は、岡倉天心、富田幸次郎が二代にわたって作り
上げたものだ。密閉された室内は薄暗いほど照明を落としてあり、白漆喰の壁を
背にして諸仏が安置されている。大日如来を中心にして阿弥陀如来や釈迦如来などが、
エンシスタの木柱で区切った部屋に配され、独立していながら調和を保っている。
展示室に入った瞬間、ぴんと張り詰めた荘厳な気に打たれるのは、完成された
形を持つ仏像に込められた悟りへの願いが、照明を落とした空間の中で曼荼羅と
なって迫ってくるからである。
朝河はそうした思いをめぐらしながら、調和と緊張を保った展示によって信仰その
ものに導こうとする岡倉や富田の仏教と仏教美術に対する理解は、尋常ではないと
思った。
おそらくこの仏教の位置が1センチでもちがったら、あるいは照明の明暗が少しでも
変わったなら、この曼荼羅は崩れ去ってしまうはずだ。
2025年04月25日<ふたりの祖国 218 安部龍太郎 第八章 独自の道 30>
日本研究委員会の会合が終わってから、朝河は美術館内の喫茶店で富田幸次郎とお茶を飲んだ。
富田は大正2年(1913)以来23年もボストン美術館に勤めている。この年に彼の師である
岡倉天心が他界し、偉業を引き継ぐと決意したのである。
京都生まれのはんなり(上品で優雅)とした顔立ちで、物腰も柔らかだった。
「さっきの4項目について、君はどう思ったかね」
朝河は17歳下の富田を教え子のように感じていた。
「先生が提案していただいた第3項までで、何とか対立を緩和してもらいたいものです。日米戦争に
なったら、どんな悲劇が起こるか想像もつかないほどです。」
「日本は石油の9割をアメリカからの輸入に頼っている。経済規模はアメリカから輸入に頼っている。
経済規模はアメリカの7分の1だ。そんな相手に戦争を挑むほど愚かではないと信じたいよ」
朝河は目の前に置かれたコーヒーに手を伸ばし、ゆっくりと口元に運んだ。
「先生、ひとつお願いがあるのですが」
富田が黒革のバックから「ハーバード大学創立三百周年記念、日本古美術展」と書かれた
ファイルを取り出した。
大学の創立三百年となる10月28日から、ボストン美術館で「日本古美術店」が開催される。
富田はそれを担当していて、日本から仏像や絵巻物、工芸品などを借り受けるために、
昨年と今年の2回帰国していた。
「これは美術展の出品リストです。お持ちいただいて構いませんので、興味を惹かれる作品がありましたら、
短い紹介文を図録にご寄稿いただけないでしょうか」
「締切りはいつ?字数はどれくらいなの」
「8月中までにお願いできれば助かります。字数は図録の2ページ分です」
「推古仏も結構あるね」
朝河は出品リストをめぐり、法隆寺や飛鳥寺の仏像も展示されることを確かめた。
「寺の貫首に直訴し、平和の使者としてつかわしてもらいたいとお願いしました。日本人がどれほど平和と
慈悲の心を大切にしてきたか、アメリカの人々に分ってもらいたいのです」
2025年04月24日<北斗七星>
「新しい活用法」とも訳されるイノベーションには、三つの”ない”があるという。
<①前例がない②無意味じゃない③不可能じゃない>である。・・・・・
2025年04月24日<ふたりの祖国 217 安部龍太郎 第八章 独自の道 29>
朝河は喜んで応じた。盟友である辻善之助が手紙に書いていたことが、こうも早く実現する
とは神のお導きだと感じていた。
「それなら文化人類学の研究者にも呼びかけようじゃないか。私の大学にもベネディクトという
有能な助教授がいるので、声をかけてみよう」
エバート・グリーンはそう言い、ちょっと私生活に問題があるようだがと肩をすくめた。
後に『菊と刀』を書くルーズ・ベネディクトのことだった。
「兄さん、アメリカ学術団体評議会(ACLS)にも働いてもらいましょう。こういう時のために、
長年財政的な支援をしてきたんですから」
勇気ある銀行家の異名を持つジェロームも、エバートには頭が上がらない。厳格なプロテスタント
の家に育ち、親子、兄弟の礼儀を厳しく教え込まれているからだった。
ジェロームが会長をつとめる太平洋問題調査会(IPR)の提唱で、1928年から29年にかけて
全米の高等教育機関の授業内容の調査が行われた。調べたのは中国や日本を対象とした授業と、
極東諸国とアメリカの関係に触れている授業はどれくらいあるかということである。
この調査結果は『アメリカの大学学科課程における中国・日本』として刊行され、ACLSの
研究に多大な貢献をした。
編集を担当したエドワード・カーターは本の序文で、大学教育における東洋への取り組みは
きわめて不充分だと警鐘を鳴らしているが、この指摘はACLSで取り上げられ、改善に向けて
動き出した。
それから7年、新しい教育の成果が現れ、研究者や大学院生の中に中国や日本についての知識を持つ
人材が育っている。その力を今度のプロジェクトに生かそうと、ジェロームは考えていた。
学問に対する認識の高さと応用の仕方は、アメリカの優れたところである。こうした姿勢は、
ヨーロッパからの移民たちが町を作るにあたって教会と大学を真っ先に建てたことにも現われている。
日米戦争にあたって英語を敵性語として禁じた日本とは、雲泥の差があると言わざるを得なかった。
2025年04月23日<ふたりの祖国 216 安部龍太郎 第八章 独自の道 28>
朝河は他の6人を見回しながら、日本とって悲劇的な見通しに同意した。
「しかし我が祖国の悲劇を、太平洋の彼岸から手をこまねいてながめていることはできません」
そこでグリーン博士が提案された項目の3番目に、「日米融和の方策」を入れてもらいたい。
朝河はそう提案した。
「それを3番目に入れ、日本敗北の再建策は4番目にするということでしょうか」
ウォーナーにたずねられ、朝河はその通りだと応じた。
「富田幸次郎君はいかがですか」
「朝河先生のお考えに賛成です」
富田は大正2年(1913)からボストン美術館に勤務し、アジア部長の
要職についていた。
「それでは朝河先生の提案を加え、この4項目を研究課題とします。ご異存は
ありませんか」
ウォーナーはグリーン兄弟とエリセーエフ博士、ACLS職員のグレイブスの承諾
を得て、それぞれの項目についての討議に入った。
行うべきは4項目について研究した論文や書籍を、アメリカ国内ばかりか
世界中から集めること。国務省や陸軍へ情報提供を求めることである。
「第一項の日本の現状と方向性については、留学中のヒュー・ボートンや
エドウィンとロバートのライシャワー兄弟に書かせたらいい。彼らはニ・ニ六
事件を現地で経験しているし、もうすぐ帰国する予定だから」
ジェローム・グリーンは彼らの留学を実現した立役者なので、これくらいの
仕事をさせるのは当然だと考えていた。
「それなら彼らの指導教官を、朝河先生にやってもらったらどうかね」
コロンビア大学の教授であるエバート・グリーンが割り込んだ。メンバー
の中では最年長だった。
「兄さん、それはいい考えですね。教授、いかがですか」
ジェロームが断わるはずがありませんよねと言いたげな目を朝河に向けた。
2025年04月22日<ふたりの祖国 215 安部龍太郎 第八章 独自の道 27>
「そうした事態に対して、我々はどうするべきだとお考えですか」
朝河はこの機会をとらえ、思う方へ話題を導こうとした。
「研究すべき項目は三つです。日本で何が起こり、どこへ向かおうとしているかを
正確に把握すること。日米開戦に備え、どんな戦いになるか、その時に日本はどう対応
するかを、日本人の民族性を踏まえて想定すること」
グリーンは指を折って数え上げ、三つ目を言いよどんだ。朝河よりひとつ年下の
優秀な学者であり、冒険心に富む投資家だった。
「それにもうひとつ。日本が我が国との開戦を決断する時には、中国やイギリスとも戦う
ことになるでしょう。そうなれば米英中と日本、ドイツ、イタリアとの戦いになるで
しょう。その時に問題になるのはソ連の動向ですが、ヒットラーが共産主義と手を組むとは
考えられません。ですからソ連に中立的な立場を取らせるか、取引によって味方に引き入れる
ことができれば、我々の勝利は疑いきれないと思います」
そうなれば日本は敗北する。その後で日本をどう再建するかが三つ目の研究テーマだと、
グリーンは冷徹に言い切った。
「朝河先生、今のご意見についてどう思われますか」
日本の敗北後の再建という提言に、座長であるウォーナーが気を遣った。朝河より8歳下の
美術家で、「推古朝仏像の研究」を発表した時には朝河が推せん文を書いた間柄だった。
「ヒットラーがソ連と手を組む可能性がないとは、私は言い切れないと思います。なぜなら
彼はゲルマン民族的な英雄主義におちいっていて、ヨーロッパを征服するためならどんな
手段を用いても構わないと考えているからです」
しかし彼の約束は自分の野望を達成するための一時しのぎで、状況が変われば平気で裏切る。
それは日本との約束も同じで、たとえ何らかの同盟を結んだとしても反故にされるだろう。
「ですから日本が敗北するというご意見に、反対はいたしません」
asa
2025年04月19日<ふたりの祖国 214 安部龍太郎 第八章 独自の道 26>
日本研究委員会の会合はフォッグ美術館の会議で行われた。
参加したのは朝河も含めて7名。座長はランドグン・ウォーナーで、他にはハーバード
燕京研究所のエバート・グリーン、ハーバード大学のジェローム・グリーンの兄弟。
ボストン美術館の富田幸次郎、ACLSの事務局のスタッフであるモルティマ・グレイブス。
いずれ劣らぬ有能な研究者たちである。
まず事務局のグレイブスがこの一年間で研究会が行ったセミナーや収穫した書籍、
出版した図書などについて報告した。成果の中にはヒュー・ボートンやエドウィン・
ライシャワー、チャールズ・ファーズ、弥永千利の4人を、東京大学の大学院に
留学させたことも含まれていた。
次にメンバーのそれぞれが現在行っている研究の概略を発表し、疑問点についている
質問を受けた。中でもニ・ニ六事件については皆が関心を持っていて、朝河への質問が
集中した。
朝河は現在分かっている範囲で説明し、この事件が日本の軍国主義をいっそう進め、
日米対立を激化させるだろうと語った。
「だから日米融和や日本再生を、これからの研究テーマに加えていただきたい」
そう提案するつもりだったが、正面に座っているジェローム・グリーンがその前に
口を開いた。
「4年前の血盟団事件以来、軍部と右翼団体が結託し、要人暗殺という汚ない手段を
用いて日本を乗っ取ろうとしてきました。IPRの仲間だった井上準之助や団琢磨が
殺された時の衝撃を、昨日のことのように覚えています」
グリーンは横浜市で生まれた銀行家で、ロックフェラー財団などの信託を受けて資金
管理をしている。
そうした資金を日本研究委員会の活動費用にし、ヒュー・ボートンのような若い研究者を
日本に留学させる事業も始めたが、留学生の人選については朝河のアドバイスに従っていた。
「そして軍部はついにニ・ニ六のクーデターを起こしました。やがて日米戦争の火蓋が切られる
ことでしょう」
2025年04月18日<ふたりの祖国 213 安部龍太郎 第八章 独自の道 25>
夏の盛りの7月下旬、朝河はハーバード大学付属のフォッグ美術館で開かれるアメリカ
学術団体評議会(ACLS)の日本研究委員会に出席するため、ニューヘイヴンから
ボストンに向かった。
ACLSはアメリカの主要な学術団体の活動を促進するために1920年に設立されたもので、
日本研究委員会がもうけられたのは1930年のことである。それまで中国研究促進委員会
はあったが、日米関係に暗雲が立ちこめる状況になると、日本についての本格的な研究機関が
必要だという声が上がった。
提唱したのは太平洋問題調査会(IPR)の会長であるジェローム・グリーンで、朝河も
設立メンバーの一人として参加した。あまり乗る気ではなかったが、一年に一度の会合に
参加することと研究会へのアドバイスをしてくれればいいというので引き受けることにした。
会合への出発は昨年の6月以来1年ぶりだが、朝河は密かに期していることがあった。
日本研究委員会のテーマはこれまで歴史や文化、信仰、芸術などが中心だったが、これから
は日米融和や日本再生の方策についてもテーマにしたいと提案しようと思ったのである。
朝河はイェール大学の特別講義で「日米融和について」と題した講演を行ない、反日世論の
逆風にさらされて手痛い目にあった。身の危険さえ感じ、大学構内のセイブルック・カレッジ
に住まざる得なくなったほどである。しかしACLS傘下の日本研究委員会であれば理不尽な批判を
受けることはないし、有能な学者たちの叡智を集めれば多大な成果を期待できる。それに
ACLSを通じてアメリカ政府に働きかけることもできるのだった。
フォッグ美術館はハーバード大学の東に隣接していた。ボストンの駅からタクシーに乗り、
チャールズ川にかかる橋を渡って10分ほど西に向かった所である。
実業家のウィリアム・ヘイズ・フォッグのコレクションをもとに1895年に開設され、
主に作品を収集している。この美術館の東洋部長は、朝河と親しいラングドン・ウォーナー
だった。
2025年04月17日<ふたりの祖国 212 安部龍太郎 第八章 独自の道 24>
プエルトリコ、ドミニカへの旅はわずか五泊六日だったが、精神的に疲れ切っていた
朝河貫一にとって大きな転機になった。そのことについて朝河は友人にあてた手紙に次の
ように記している。
「私は圧倒的な自然によって洗われ、吸い込まれ、溶解されたような気分で戻りました。この
気分は月曜日に始まり、今日クライマックスに達しました。このような絶対的な形の贈り物ーー
贈物としては最高の形ですがーーは、今度の小さな船旅の初めには予期しなかったもの
なのです。そしてこれは自己を放棄し、この土地の精神によって吸収されるよう努めた
私の決断たる努力に対し、私に授けられた褒美であると思います」(『朝河貫一書簡集』)
朝河は自己を放棄し土地の精神と同化することによって己を空にし、すべてを在りのままに
受け入れる境地に至った。
この境地は此岸にいる人にはなかなか理解しにくいと思うので、彼岸の住人となった
愚輩が解説されていただくとしよう。
たとえば禅宗の十牛図は、八番目の境地として「人牛具忘」を説く。人は悟りという
牛を造って修行の道に踏み出し、やがて人も牛も倶に忘れた空の境地に至る。空であるから
こそ、すべてのものを在りのままに認識できる。法華経で説く如実知見が可能になるのである。
尊敬する夏目漱石先生は、このことを「則天去私」と表現しておられるが、十牛図の修行は
ここで終りでない。すべてを在りのままに認識できるようになったなら「返本還源」、
俗世にもどって他者を救うために尽力しようというのである。
朝河は63歳にしてようやくこの境地に至ることができた。彼ほどの碩学でも、いや
碩学なればこそ自力を頼み、よりいっそう迷いの道に踏み込んでいた。それがカリブ海の
自然に溶け込むことで、自己を放棄しなければ物事の本質には到達できないと体感した
のである。
この旅をきっかけに朝河貫一は生まれ変わった。そして74歳で他界するまでの11年間、
祖国を救うために獅子奮迅の働きをするのである。
2025年04月16日<ふたりの祖国 211 安部龍太郎 第八章 独自の道 23>
大司教はサンタ・マリア・ラ・メノール大聖堂がコロンブスにとっていかに重要な場所で
あったかを力説したが、朝河貫一は距離をおいた礼儀正しさを保ちながら聞いていた。
コロンブスの遺骨の真義を問題にしている学者の実証的な説に共感していたからである。
しかしドミニカにおけるスペインの影響は圧倒的で、大航海時代に彼らがいかにこの地を
意のままにしていたかがよく分る。
山におおわれたプエルトリコとちがって平坦地が多く、地表は豊かな土壌におおわれて
いるので農作物の栽培にも適している。マホガニーの森は豊かで、木材を使った細工物は
島の特産品になっている。月桂樹をはじめ樹木の種類が多く、フランボヤン(火焔樹)はいたる
所にあって赤い炎を燃え上がらせていた。
この日の午後5時にサン・ファンにもどり、翌日はユンケ山に登った。標高3600
フィート(1097メートル)で、九十九折りになった道を車で登った。
太古から変わらぬジャングルを切り開いて造った登山道で、道の両側には熱帯の樹林が
密生している。大木は枝を張って頭上をおおい、樹皮や枝の又にさえシダ類や苔などを
寄生させている。
大木を宿主にして生えている寄生樹もあるし、つる状の茎が巻きついて花を咲かせている
ものもある。
そうした密林を車で抜け、金床に似た山の尾根に上がると、真っ青な海を360度の
パノラマで見渡すことができた。
昨日の雨が空気を洗い、驚くほどに澄みきっている。はるか東の水平線は、大きな弧を描いて
地球が丸いことを教えてくれる。その向こうにはイベリア半島のロカ岬がある。
朝河は雄大な自然とこの海を渡った人々の勇気に再び強い感銘を受け、真っさらな自分に
もどって立ち上がろうという気力がわき上がってくるのを感じた。
「大難来りなば、強盛の信心いよいよ悦びをなすべし」
なぜか日蓮上人の教えが脳裏をよぎり、躍り上がるような歓喜が体を突き抜けていった。
2025年04月15日<ふたりの祖国 210 安部龍太郎 第八章 独自の道 22>
南の空では雲の塊が2つに割れ、向かい合う二羽の鷲の姿になった。小さな方の一羽は頭を
前方に突き出し、全身は白く、かすかに光るピンク色を散りばめている。
大きな方は小さな方と向き合いながらも頭は後ろを向き、体は半透明の青みがかった灰色で、
大波のように水平にうねった白い雲の上に立っている。
まるで親子の鷲が天の一角で羽根を休めているようである。その雄大な姿に朝河は長い間見入って
いたが、夕闇が迫るにつれてゆっくりと消えていった。
空も海も漆黒の闇に包まれ、ライトを照らしたクルーズ船が大海原をすべるように進んでいく。
デッキに出て空をあおげば満天の星空がまたたき、金の真砂の天蓋におおわれたようだった。
「朝河さん、あれが南十字星ですよ」
同行した婦人が空を指して教えてくれた。菱形を描くように配置された四つの星が、ひときわ
鮮やかに輝いている。四つの星の上下を結んだ長い線は地上に対しておよそ60度に傾き、
左右を結んだ短い線は頂点から三分の一のあたりで長い線と交わって十字をなす。
「したがって、このような形です」
朝河は友人にあてた手紙に、十字架を斜めに倒したような図を描いた。初めて見た南十字星に、
ひときわ感銘を受けたのだった。
船は深夜の洋上に停泊し、翌23日の午前9時にサント・ドミンゴの港に入った。そのまま
車に乗り替えて市内の観光に出て、スペイン人が16世紀にきずいた頑丈な石の城壁や、天を
衝くほどの尖塔を持つ大聖堂を見学した。
この日はあいにくの曇り空で、時折小雨も降り落ちてくる。灰色の景色の中で見る城砦や
大聖堂からは、スペイン人の植民地収奪の激しさがうかがわれて不気味な感じさえした。
セビリア大聖堂をモデルにして造ったというサンタ・マリア・ラ・メノール大聖堂を訪ねると、
大司教が教会に安置されたコロンブスの棺まで案内してくれた。
「1506年に亡くなった本人の遺言に従って、ここに遺体が安置されました。お見せする
ことはできませんが」
2025年04月14日<ふたりの祖国 209 安部龍太郎 第八章 独自の道 21>
やがて車は山間部の道に入り、サン・ファンにもどっていく。プエルトリコで一番の高峰である
エル・ユンケ山の南麓から西側へと回る道である。
山は主に花崗岩でできているので、尾根の山々は鋭く角立ち、時には切り立った突起を見せている。
全体に台形状の山容で、鍛冶屋が用いる金床のように見えるので、スペイン語でユンケ(金床)という
名がついたのである。
「明後日はあの山に登ります。山頂からの眺めは天国のようですよ」
ガイドの青年が教えてくれた。彫りの深い浅黒い顔は、スペイン人、黒人、島の原住民の血が
入り混じっているようだ。
山の中腹からふもとにかけて人が住んでいるが、密着して村をなしているのではなく、小さな家が
風景一面に点在している。
畑や果樹園などで収穫できる量は限られているので、動物の縄張りのように土地を区切って
住み分けている。
山の斜面は暗緑色の固い葉を持つ亜熱帯性の樹木におおわれ、いたる所にフランボヤン(火焔樹)
が真っ赤な花を密集して咲かせている。それが厚塗りの油絵のように風景の中で浮き立っていた。
道路は舗装をされている所は稀で、むき出しの地面が雨でえぐられてデコボコになっている。
車はそれをかわしながら歩くほどの速さでしか進まないので、道端で遊んでいる半裸の子供たちが
面白がって追いかけてくる。
ハローとかグッバイと覚えたばかりの英語で挨拶して陽気に笑いかける子が多いが、中には
「マネー、マネー」とはやし立てる子らもいる。最初は金をせびっているのかと眉をひそめたが、
どうやら挨拶の言葉と誤解しているようだった。
午後4時にはサン・ファンの港にもどり、クルーズ船に乗り込んでドミニカ共和国へ向かった。
出港して2時間ほどたった頃、西の彼方を煙らせていたどしゃ降りの雨が上がり、空にはいくつか
の巨大な雲が塊を成して浮かんでいた。
沈みよく夕日に染められて空はバラ色の輝き、雲の緑を朱色や青に輝かせている。
2025年04月12日<ふたりの祖国 208 安部龍太郎 第八章 独自の道 20>
「私に? これを」ゆ
差し出されたチケットのは、真っ青な海と空の中を進む白いクルーズ船が描かれている。大学と
寮にこもりきりの朝河にとって、はるか遠い世界だった。
「そうだよ。君は近頃ふさぎこんでいる。祖国であんなことがあったのだから無理もないが、
こんな時には外の空気を吸うことが必要だよ」
「しかし、ずいぶん高価なチケットのようじゃないか」
「遠慮はいらないよ。私が関わっている全米健康協会が優良会員を招待するために企画したもので、
6月か7月なら都合のいい日に出発することができる」
「ありがとう。それなら行ってみることにするけど、一枚だけで結構だ」
朝河はフィッシャーの好意に応じ、カードでも引くようにチケットを抜き取った。
「誰か一緒に行く人はいないの?」
「残念ながら私は一人だ。それに気分を変えるにはその方がいいからね」
6月20日にフロリダ州マイアミを出航したクルーズ船は、バハマ諸島やヴァージン諸島の島々の
間をむって夜通し航海をつづけ、翌日の夕方にプエルトリコのサン・ファンの港に着いた。
ここは常夏の島で、湿気の多いうだるような暑さである。朝河は健康協会の4人のメンバーとともに
市内で一番のホテルに入ったが、気候の変化に体がなじめない上に、天井の扇風機がきしむ音を立てて
回るので、なかなか寝付けなかった。
翌日は5人で観光用自動車に乗り込み、島の東北部を回った。海沿いの曲がりくねった道を進んで
島の東海岸に出ると、目の前に北大西洋の真っ青な海が、満々と水をたたえて広がっていた。
イベリア半島のロカ岬に立った詩人は「ここに地終り海始まる」と詠んだが、大航海時代に西へ船出
したコロンブスは、はるかな海を渡ってアメリカ大陸に到達した。最初の上陸地はバハマ諸島だというが、
その時には目の前の海を渡っていったにちがいない。
そう思うと、広大な自然と歴史が一体となった壮大なドラマの中に立っているようで、
晴々とした気持になった。
2025年04月10日<ふたりの祖国 206 安部龍太郎 第八章 独自の道 18>
西洋流の議員内閣制を導入したことで、天皇は事実上統治権を失った。そこで皇道派や右翼は
武力によって天皇親政を復活させようとしているが、これは新たな王政復古に他ならない。
それゆえ、ニ・ニ六事件は、朝廷と武家の相克の歴史という枠組でとらえるべきなのである。
両者の対立の根本的な原因は、天皇が国を治めるべきだとする理想論と、天皇親政は機能しない
時代になったのだから、武家が実情に合わせて武力で統治するべきだという現実主義のちがい
にある。そして長い日本の歴史の中で、天皇親政が行われた期間は驚くほど短い。
こうした背景を踏まえてニ・ニ六事件を見るなら、皇道派の王政復古策が現実主義を
取ろうとする天皇によって否定されたことは、破滅の淵から日本を救った慶事と評すべきである。
これで軍部や右翼、マスコミにあおられて軍国化してきた国民は、天の声を聞いたように目を
覚ますだろう。
朝河はそう願っているが、実現がきわめて難しいことは重々承知していた。なぜなら軍部はすでに
日本政府を「強引」するために、満州や中国で侵略戦争を始めている。それを改めないかぎり、天皇
新政を大義名分として国民に戦争の負担を強いる状態がつづくからである。
(問題は軍部と国民が正しい歴史認識に立ち、真の反省力を発揮して天皇のお言葉に従うことが
できるかどうかだ)
朝河はそんな期待を胸に日本の動きを見守っていた。
朝河家は新田氏の流れを汲む南朝方だと伝えられている。朝河も天皇に対する尊崇の念を強く持ち、
日本人が大化の改新や明治維新を成しとげることができたのは、天皇の力があったからだと考えてきた。
日本の軍人や為政者も武士道を受け継いでいるのなら、天皇の言葉に従って正しい道に立ち返るはず
だと信じたかったが、期待は早々と裏切られた。3月になって天皇は開明的な外務官僚だった広田弘毅を
首相に任じる大命を下し、組閣にあたっては三つの条件を守るように指示された。
それは次の通りである。
2025年04月09日<ふたりの祖国 205 安部龍太郎 第八章 独自の道 17>
日本では五・一五事件の青年将校たちを「義士」と持ち上げてきたので、今度の事件を起こした
将校たちにも同情的で、鎮圧に対して批判的な論調が多い。だがアメリカでは海外侵略と軍部独裁を
目ざす陸軍が、現政権を倒そうとして起こしたクーデターだと見る者が多かった。その陰謀が天皇の英断に
よって防がれたと報じられ、天皇は平和主義者だという暗黙の理解がアメリカ国民に広まった。
朝河はこの事件に衝撃を受け、深く心を痛めながらも、事件の意味を天皇と軍部の対立という観点から
とらえようとした。両者の対立の背景には、朝廷と武家政権の相克があると考えれば、事件の本質はより
明確に見えてくる。
そもそも日本の政体が朝廷と武家に分かれたのは、源頼朝が鎌倉幕府を打ち立ててからである。もともと
坂東武者は東北地方の蝦夷を征服するために、朝廷が関東地方に配した実戦部隊だった。
古代中国の頃に辺境に配された兵戸や鎮と同じように、彼らは土地を開墾して生活を維持しながら独自の
世界を形成し、出陣命令が下ると「いざ、鎌倉」を合言葉に出陣した。
やがて平家が台頭し、朝廷を制して天下の権を握ると、東国にいた武士の多くは源頼朝のもとに結集して
平家打倒の兵を挙げる。平家を倒した後に源朝が征夷大将軍に任じられ幕府を開いたことが、朝廷と幕府の
相克の歴史の始まりだった。
鎌倉幕府は後醍醐天皇の建武新政によって倒されるが、やがて足利尊氏が天皇に反旗をひるがえし、天皇家を
分裂させて室町幕府を開く。室町幕府は織田信長や豊臣秀吉によって倒され、関白に任じられた秀吉によって
王政復古が成し遂げられた。
ところが秀吉の死後、徳川家康が江戸幕府を開いて260年ちかい平和を保ったものの、明治維新によって
再び王政復古が行われて昭和11年(1936)までつづいた。
ところがその内容をつぶさに見れば、天皇親政の内容はかなり変質していることが分かる。明治23年(1890)
に帝国議会が開かれて内閣が組織されて以降、天皇の統治権は議会と内閣に移ったからである。
2025年04月08日<ふたりの祖国 204 安部龍太郎 第八章 独自の道 16>
ニ・ニ六事件は2月29日に反乱部隊の投降によって収まった。決起から4日目に鎮圧され、皇道派の
勢力は大きく削がれたのである。
朝河貫一はセイブルック・カレッジのミーティングルームにあるラジオの放送によって事件を知り、刻々と
変わる状況を息を呑んで見守りながら、これは一体どういうことだろうと考えていた。
直接的な原因は、永田鉄山暗殺事件によって皇道派が追い詰められたことだ。彼らはこの窮地をクーデターに
よって逆転し、真崎甚三郎を首相にして自派を中心とした軍部独裁政権を作ろうとした。
その背景には、石原莞爾ら関東軍の急進派の策動があった。彼らは政党や官僚、財閥などに支配された日本を
改造するには、海外で軍事行動を起こして日本政府を「強引」するしかないと考えて満州事変を決行した。
そうして満州国を独立させて国家改造とアジア支配のための牙城にし、世界最終戦に備えようとしたが、
当時の犬養毅首相はこれを断固として認めなかった。そこで関東軍の急進派は、海軍の青年将校や大川周明ら
右翼勢力を動かし、五・一五事件を起こして犬養毅首相を暗殺したのである。
この謀略に成功したことが軍の改革派を勢いづかせ、やがて国家改造の方針をめぐって皇道派と統制派が
対立するようになった。本来天皇の統帥に服するべき軍隊が政治化してしまい、政治化した故に軍国化に
向けた主張のちがいがあらわになって分裂した。
挙句に皇道派の者たちは永田事件を起こして追い込まれ、天皇を奉戴して自派の政権を作ることで形勢を
挽回しようとした。それを実現するには、現内閣や統制派の将校は邪魔になる。そこで君側の奸を討つという
意味の「尊皇討奸」の旗をかかげて決起した。
ところが天皇は彼らの行動に激怒され、反乱軍として鎮圧するように命じられた。ここに皇道派の破綻が
如実になったと、朝河は一連の流れを受け止めていた。
この事件について、日本とアメリカの新聞では扱いがずいぶんとちがう。
2025年04月07日<ふたりの祖国 203 安部龍太郎 第八章 独自の道 15>
決起した青年将校たちは皇道派の大将たちを集め、天皇に奏上して真崎甚三郎を首班とする内閣を作って
一気に昭和維新を断行するつもりだった。
その方針はおそらく荒木、真崎、本庄の三大将もひそかに了解していたものと思われる。そこで皇道派の
意を受けた川島陸相は、午前9時30分に参内して天皇に状況を報告した。
ここで天皇の裁可を得られれば青年将校たちの決起は成功し、皇道派の目論見通りになる。ところが
昭和天皇は断固としてこれを認めず、すみやかに反乱部隊を鎮圧するように川島陸相にお命じになった。
驚いたのは侍従武官長を務めていた本庄繁である。彼は天皇に何度も拝謁を乞い、決起将校たちの国家を
思う気持ちを認めていただきたいと奏上したが、天皇の許しを得ることはできなかった。
激怒された天皇が「お前たちがあれこれ理由をつけて反乱部隊を鎮圧できないと言うなら、朕が自ら
近衛師団をひきいて鎮圧にあたる」と言われるのを聞くと、本庄も御意に従うしかないと観念したのである。
だがこのまま決起部隊の鎮圧を開始しては同志を裏切ることになるし、青年将校たちに顔向けができないと
思ったのだろう。本庄は2月28日に天皇に拝謁し、「決起将校一同は自決して罪を謝し、兵たちを原隊に
復帰させることになったので、勅使をつかわして自決の栄光(名分)を与えてほしい」と奏上した。
ところが天皇はこれに対してきわめてご不満で、「自決するのなら勝手にすればいい。このような者たちに
勅使を下すなどもっての外だ」と手厳しく拒絶された。
これで皇道派の計画は完全に生きず詰まり、翌29日午前5時を期して「反乱軍」の武力鎮圧が開始される
ことになった。しかし陸軍首脳は何とか皇軍相討つ事態をさけようと、決起将校たちに投降と原隊復帰を
呼びかけた。
「勅命下る軍旗に手向かうな」
日比谷交差点ちかくのビルに、そう大書したアドバルーンが上げられたのはこの時だった。
2025年04月05日<ふたりの祖国 202 安部龍太郎 第八章 独自の道 14>
事件は2月26日未明、雪の降りしきる東京で起こった。ヘンリーが危惧した通り、皇道派の
青年将校が配下の部隊をひきいて決起したのである。
中心となったのは、歩兵第三連隊第六中隊長の安藤輝三大尉、同じく第三連隊第七中隊長野中四郎
大尉、歩兵第一旅団副官の香田清定大尉、歩兵第一連隊附の栗原安秀中尉たちで、配下の兵は千五百名
ちかくにのぼった。
午前5時過ぎ、栗原中尉がひきいる約三百名は首相官邸を襲い、岡田啓介首相を殺害しようとした。
ところが首相秘書官の松尾伝蔵(陸軍砲兵大佐)と警固の警官4人を殺害しただけで、岡田首相の
脱出を許す結果に終った。
同じく午前5時過ぎ、別の一隊約百名は高橋蔵相の私邸を襲い、財政再建に手腕をふるった高橋是清を
殺害した。
ほぼ同じ頃、別の一隊は斉藤内大臣の私邸を襲い、五・一五事件後の混乱を総理大臣として収拾した
斉藤実を殺害。安藤大尉がひきいる約百五十名が侍従長官邸を襲い、天皇の信任厚い鈴木貫太郎侍従長
(海軍大将)に重傷を負わせた。
午前6時頃には別の部隊30名が渡辺教育総監の私邸を襲い、真崎甚三郎が罷免された後に教育総監に
なった渡辺錠太郎(陸軍大将)を殺害した。
同じ頃、事件は遠く離れた神奈川県湯河原町でも起こっていた。河野壽大尉ら六名は光風荘で湯治していた
牧野伸顕前内大臣を襲ったが、牧野はいち早く脱出して事なきを得た。
決起した将兵は内務大臣官邸、陸軍大臣官邸、陸軍省、参謀本部、警視庁などの占拠し、午前6時半頃に
陸相官邸で川島義之陸相と会って要求を突き付けた。
その主要な事項は次の四点である。
一、天皇に奏上して決起の主旨を認めてもらうこと。
一、決起部隊を弾圧せず、事態が安定するまで今の状態にしておくこと。
一、皇道派の大将(荒木貞夫、真崎甚三郎、本庄繁)などを陸相官邸に集め、昭和維新を遂行する強力内閣を
組織すること。
一、統制派に属する将校たちを処罰や罷免に処すること。
2025年04月04日<ふたりの祖国 201 安部龍太郎 第八章 独自の道 13>
「おっしゃる通りです。彼らは皇道派への処分を行ったのは君側の奸だと決めつけ、奸物を除いて
正しい御世を実現しようとしているのです」
「どこからそんな情報をつかんでいるのかね。国務省は」
ヘンリーが答えるはずがないと思いながら、朝河はたずねずにはいられなかった。
「日米関係が険しくなりつつありますから、情報収集のための人も予算も増やしています。
しかし得られる情報が錯綜しているので、どう解釈すべきか判断をつけかねていましたが、
先生のお話をうかがって腑に落ちました。皇道派の青年将校たちは、形勢を挽回するための
行動を起こそうとしているのです」
「狙っているのは現内閣の閣僚と統制派の中心人物だと思われます。政府や軍の主要機関を
占領し、一気にクーデターを起こすつもりかもしれません」
「ヘンリー、それは機密事項だろう。私に話していいのかい」
「職務上は許されることではありません。私の立場としてはクーデターが起こるのを待ち、
さらなる混乱をしかけて日本が弱体化するように仕向けるびきでしょう」
しかし朝河は尊敬する先輩だし、日本は父の祖国だ。ヘンリーは拳で胸を叩いてそう言った。
「だから先生にだけはお伝えしておくべきだと思ったのです。この情報をどう扱われるかは、
すべてお任せいたします」
ヘンリーが店を出て行った後も、朝河はしばらくソファに座って中庭の雪景色をながめていた。
またしても五・一五事件のようなことが起こるのではないかと、不安に胸がざわめいている。
大規模なクーデターが起こり、日本が内乱状態になるおそれもある。しかしヘンリーの情報が事実だ
とは限らないし、何か意図があって偽の情報を流しているのかもしれない。
そう考えればうかつに動くことはできないと、朝河は底冷えのする孤独の中でじっとうずくまっていた。
2025年04月03日<ふたりの祖国 200 安部龍太郎 第八章 独自の道 12>
「日本では神道や儒教の教えに従い、天皇や主君は絶対に正しいと千三百年ちかくにわたって信じられてきた。
しかし実際の政治においては、権力者は間違った判断や行動をすることがある」
「それは今の日本でも言えることですね」
「その通りだ。しかしその過ちを認めれば、天皇や君主の正当性が疑われることになる。そこで
間違っているのは側に仕えている家来たちで、天皇や主君に罪はないという理屈で体制の温存をはかって
きた。そんな場合に天皇や主君に間違いを犯させたと見なされ、批判の対象とされる家来を君側の奸と呼ぶ。
奸とは奸物、悪者という意味だ」
朝河は日本の政治風土にまで視野を広げて説明しながら、ヘンリーはなぜこんなことをたずねるのだろうと
考えていた。
「それでは神聖不可侵と称される日本の天皇は、ますます過ちを犯すことはできなくなる。その分、君側の奸に
対する批判は激烈になるという訳ですね」
「その通り。それが最も過激な形で現れたのが、明治維新の直前に横行した天誅組だ。幕府を倒し天皇親政の世を
きずこうとした者たちは、天皇に仕えながら倒幕に反対する者たちを君側の奸と呼び、天が下す罰だと称して暗殺
した。そうして朝廷内の政敵を封じ込め、王政復古の世論を作り上げていったのだ」
「そうですか。だから君側の奸を討ち、昭和維新を成し遂げるという発想になるわけですね」
ヘンリーはようやく頭のパズルが解けた顔をした。
「昭和維新とは軍部や右翼が国家改造のスローガンとして用いている。五・一五事件を起こした青年将校たちも
使っていた」
「実はそのスローガンを用いて再び行動を起こそうとしている者たちがいます。東京からの断片的な情報なので、
真偽のほどはいまひとつ分かりませんが」
「それは皇道派の青年将校たちかね」
「なぜそう思われますか」
「皇道派は永田鉄山暗殺事件を起こし、統制派によって粛正されている。これを挽回するには、クーデターを
起こすしかないと考えたとしても不思議ではない」
2025年04月02日<ふたりの祖国 199 安部龍太郎 第八章 独自の道 11>
何か新たな目標を見つけ、高みに向かって邁進する気力を取りもどさなければ、生きる屍になってしまう。
時にはそんな焦燥に駆られて部屋を飛び出したくなるが、行く当てはどこにもなかった。
2月15日、ヘンリー・ナンプから久々に電話があった。
「用事があって大学に来ました。研究室を訪ねてもいいですか」
意外な申し出を受け、朝河は学内のコーヒーショップで会うことにした。
厚く積った雪を踏んで店に行くと、ヘンリーは腰を下ろして新聞を読んでいた。
「元気そうだね。久々に会えて嬉しいよ」
朝河は久々に日本語を使った。
「私も嬉しいです。どうしておられるか気になっていました」
「大学には何の用かね。フィッシャーに会いに来たのかな」
「先生に会いたくて来ました。教えていただきたいことがありますので」
「それは光栄だね。私に答えられることだといいが」
「失礼があればお許しいただきたいのですが、日本人にとって天皇とはどういう
存在なのでしょうか」
ヘンリーが栗色の瞳を朝河に真っ直ぐに向けた。
「それは日本の歴史の本質は何かと問うくらい大きな質問だよ。十冊の本でも
書きつくせないだろう」
だからどんな問題意識を持ってたずねているのか明らかにしてほしい。
朝河はそう迫った。
「失礼しました。日本における天皇の権力とは何か。国民はそれをどう受け止めているのか。
これではどうでしょうか」
「それもきわめて難しいが、テキストとして最適なのは大日本帝国憲法と、作年岡田内閣が二度に
わたって発令した国体明徴声明ではないかと思うね」
「分かりました。それではもっと絞り込ませていただきますが、日本では君側の奸という言葉は、どんな
ニュアンスで理解されているのでしょうか」
朝河の学者的な厳密さにたじろきながらも、ヘンリーは質問をつづけた。
2025年04月01日<ふたりの祖国 198 安部龍太郎 第八章 独自の道 10>
2月中旬になって雪はいっそう激しくなった。時には水分の多い重い雪がすだれのように音もなく
降り、時にはざらめ雪が風に吹かれて窓を水平に横切り、時には粉雪が蝶が舞うように空中に
ただよっている。
雪は刻々と表情を変えながら30センチ、50センチと降り積もって町を白一色に塗りつぶしていく。
イェール大学の中庭も建物も白銀に輝く中で、ハークネスタワーだけが天を衝く高さにそびえている。
信仰と学問の府であることを内外に示す威厳に満ちた塔だった。
朝河は巣ごもりする小動物となってセイブルック・カレッジの部屋に閉じこもっていた。日本に
帰国してどこかの大学で職を得ようという望みは断念したものの、この先どうすればいいか目標を
見失っている。大学に残ってこれまで通り仕事をつづけることはできるものの、日米融和のために貢献する
自信も手段も失っていた。
日本が中国侵略を加速させるにつれて、アメリカ国内の反日世論は激しくなっている。しかも日本は先月ロンドン
海軍軍縮会議から離脱し、アメリカやイギリスに公然と軍拡競争を挑んでいる。
そのためにアメリカに住む日本人は日に日に肩身の狭い立場に追い込まれ、町を歩くのも馴染みの店に
入るのも二の足を踏むほどである。
朝河は大学内に住んでいるので身の危険こそ感じないが、それは守られている反面、自由を制限されている
ことでもある。講義や研究、発表の内容もおのずから限られてくるし、大学の上層部や秘密結社のS&B
(スカルアンドボーンズ)の目も気にしないではいられなかった。
(こんなことで、光と真実の府と言えるのか)
時には毒突きたくなるが、それは天に唾するも同じである。言葉を呑んでじっと耐えるしか、朝河にできる
ことはないのだった。
そうした暮らしが2年ちかくつづくうちに活力は少しずつ失われ、心気や頭脳の働きが停滞していく。
(駄目だ駄目だ。これでは駄目だ)
朝河は激しく頭をふって己を責めた。
2025年03月31日<ふたりの祖国 197 安部龍太郎 第八章 独自の道 9>
朝河もヒュー・ボートンとはアメリカで何度か会い、日本史や仏教について話をしたことがある。
東京大学には他にもエドウィン・ライシャワーやチャールズ・バートンなどが留学していて、辻善之助の
教えを受けていた。
辻はこれら有為の研究者たちを高く評価していて、やがて彼らにしか書けない日本論が世に出てくると
期待を寄せている。
しかも彼らが一様に朝河に対して尊敬と信頼を寄せていることを目の当たりにし、こうした能力を結集すれば
アメリカにおいて新しい日本研究を始めることができるのではないかと記していた。
そして手紙は、次のような悲しい末尾で終わった。
「なお本書簡は他見をはばかるゆえ、御一読の後には火中に投じていただきたく、衷心よりお願い申し上げる次第に候」
手紙を誰にも見られないように焼き捨ててくれというのである。
研究者の間では私信の写しを作り、他に回覧することが普通に行われている。その写しが日本に伝わり、軍部や警察に
目を付けられるのを、辻善之助は危惧しているのである。
美濃部達吉が晒し者のように糾弾された後、日本の学会はそれほど深刻な状況におかれているのだった。
(辻君、あなたは・・・・・)
そんな危険にさらされながら、この手紙を書いてくれたのか。そう思いながら、朝河は和紙の封筒をなでさすった。
そしてこれを封印したと、しばし手を合わせている感慨にふけり、手紙を暖炉の中に投げ入れた。
内容は一言一句覚えている。その優しくも厳しい忠告が、朝河の胸に反省の念を呼び覚ました。結局自分は
反日世いっそう論が吹き荒れるアメリカにいるのが辛くなり、日本に逃げ帰ろうとしただけである。
しかもイェール大学での研究実績があれば、日本の大学は双手をあげて歓迎してくれるはずだとうぬぼれていた。
辻はそれを見抜き、禅の修行者に警策をくれるが如き厳しさで心を矯めてくれたのだった。
2025年03月28日<ふたりの祖国 195 安部龍太郎 第八章 独自の道 7>
実は三カ月ほど前、朝河は辻善之助に手紙を送り、「日本国内に自分を教授として迎えてくれる
大学はないだろうか」とひそかに問い合わせていた。
理由は二つある。ひとつはアメリカ国内での反日世論が激しくなり、朝河への風当たりも強くなるばかりで、
研究発表もままならなくなったこと。
もうひとつは日本の大学に籍を置き、新聞や雑誌に論文や時評を発表することで、軍国主義者に引きずられて
いる世論を立て直したいと考えたことだった。
これに対して辻善之助は、配慮の行き届いた返信を送ってくれいぇいた。まず日米関係の行き末を案じる朝河の
書簡に深い感銘を受けたと明記し、このように心労の多い時期にもかかわらず懇切の便りをいただいたことに
感謝を表していた。
「しかしながらご依頼の件については、深甚なるご配慮が肝要と存じ候。たとえ東京大学や京都大学、あるいは
他の私立大学に職を得られるとも、お望みのような活動を成し得るはきわめて難しきものと愚考する故に
御座候」
辻は明治十年の生まれで、朝河より四歳下である。日本語で手紙を書くとどうしても古めかしい候文になる。
日本を離れて久しい朝河にはそれがほほ笑ましくもあるが、手紙の内容は想像以上に厳しいものだった。
たとえ朝河が日本に戻っても、期待している活動はできない。その理由について、辻は次の三点をあげていた。
一つは軍部の状況。昨年皇道派の真崎甚三郎中佐が教育総監の職を罷免されたことをきっかけに、同派の
相沢三郎が永田鉄山軍務局長を陸軍省内で斬殺する事件を起こした。
そのため皇道派は厳しい処罰を受け、永田が所属していた統制派が陸軍内の主流となった。ところが皇道派は
青年将校を中心にして水面下で巻き返しをはかっているので、軍内で内乱が起こりかねない緊迫した状況である。
二つは大学の状況。軍部や彼らと結託した政治家による学問の自由に対する攻撃は、この十年来さまざまな形で
行われてきたが、美濃部達吉博士の天皇機関説事件でとどめを刺されることになった。
2025年03月27日<ふたりの祖国 194 安部龍太郎 第八章 独自の道 6>
セイブルック・カレッジの朝河の住居は六部屋もあり、一人で住むには広すぎる。そこで寄宿舎に
住む学生達のために三つの部屋を図書館や集会室として開放しているが、こうした待遇を受けること
ができたのはアーヴィング・フィッシャーが尽力してくれたからだった。
朝河の家が反日の暴漢に襲われたと知ってフィッシャーは、エンジェル学長に直談判してセイブルック
・カレッジに入居させることを認めさせたばかりか、準フェロー(評議員)の役職につけてカレッジに
住みつづける権利を与えたのだった。
「さあ、貫一、ここが君の終の棲家だ。思う存分、研究や論文執筆に打ち込んでくれ」
部屋に案内した時、フィッシャーは涙ぐんでそう言った。ラジオ放送で迷惑をかけた申し訳
なさと、半日世論の高まりで行き場をなくした親友への同情を持ちつづけていたからである。
朝河はフィッシャーから裏切られた失望は忘れていなかったが、昔と変わらぬ友情をもちつづけて
いることが分かってずいぶん安心した。
寄宿舎の南にはテニスコート二面分くらいの中庭が広がり、その向こうにはイェール大学の
象徴であるハークネスタワーが天を衝くほどの高さにそびえていた。
もともとこのあたりがセイブルックという地名で、寄宿舎の名前もそれにちなんでいる。
朝河は奇しくもイェール大学発祥の地に住んでいるのだった。
部屋の郵便受けには手紙が三通入っていた。一通は出版社からのもので、朝河の書評が届いた
という報告とお礼。一通は反日系の新聞社から、朝河に釈明を要求する弾劾文。
そしてもう一通は東京の辻善之助からの手紙だった。
辻善之助は東京大学教授で、東大史料編纂所の所長も務めている。きわめて論理的、実証的な
研究を身上とするので、朝河は手紙や論文、著作などのやり取りをしながら親交をつづけてきた。
25年ほど前には、辻がニューヘイヴンの家に訪ねて来たほどの間柄である。
朝河は心急くままに辻の手紙の封を切った。
2025年03月25日<ふたりの祖国 192 安部龍太郎 第八章 独自の道 4>
「それは軍部や国家主義者の意見が強くなったからでしょう。ロンドン軍縮会議から脱退したことで、
ますます歯止めがかからなくなったと聞いたわ」
イナは朝河の力になろうと、日本の政情に注目しつづけていた。
「ともかく中国への侵略をやめないと駄目だ。少なくとも塘沽停戦協定での合意を守らなければ、
日本は中国ばかりかアメリカやイギリスまで敵にすることになる」
「実は夫のギャリソンが急にサンフランシスコに赴任したのは、そのことと関係あるらしいの。
我が国は日本に対抗して太平洋艦隊を強化することにしたようです」
「そのように聞いている」
「そのためにカリフォルニアの造船会社や軍需産業が拡大されることになり、投資会社から巨額の
金が注ぎ込まれるそうよ。ギャリソンは投資会社の顧問弁護士をつとめているので、先方の会社との
契約を取り仕切ることになったと言っていたわ」
「そういうこともあるだろうね。戦争を金儲けのチャンスととらえる経営者は大勢いるから」
朝河は声をひそめた。待合室にはスーツ姿の男たちが大勢いて、日本人が何を話してやがるかと
聞き耳を立てている気がした。
「残念ながら何年先にもどれるか分からないけど、再会した時には人類の平和と幸福のために貢献したと
胸を張れる生き方をしましょうね。あなたならきっとできると信じているわ」
ヘレンとオリーブがもどるのを待って、イナはニューヨーク行きの列車が着くプラットフォームへ行った。
ニューヨークでサンフランシスコ行きの大陸横断鉄道に乗り換えるのだった。
朝河もプラットフォームまで行って三人を見送った。列車は最新型の電気式である。ニューヨーク・
ニューヘイヴン・アンド・ハートフォード鉄道が導入したものだが、世界恐慌のあおりを受けて倒産し、
今は管財人の管理下で運営されていた。
「それではさようなら。私のハムレット」
イナが朝河を抱き締め、頬に軽くキスをした。
2025年03月24日<ふたりの祖国 191 安部龍太郎 第八章 独自の道 3>
朝河は店を出て3人を迎えに行った。
「おはよう、イナ。ヘレンとオリーブも見送りに来たのかい」
誰にともなく声をかけると、ヘレンが真っ先に応じた。
「私たちも母を送ってサンフランシスコまで行くことにしました。向こうは暖かそうなので、
一カ月くらい滞在することにしました」
「ハリウッドやラスベガスも身に行く予定です。ちょうど就職前の休暇期間ですから、時間は
たっぷりとあります」
オリーヴは5月から陸軍省に採用されることが決まり、最後の自由を謳歌しようとはりきっていた。
「そうか。二人が一緒だと心強いだろう」
朝霞はイナのために喜んだが、母親としては必ずしもそうではないようだった。
「この娘たちはいつの間にか禿鷹のようにたくましくなって、この機会にバカンスを楽しもうとして
いるのよ。同行してくれるのは嬉しいけど」
「汽車の出発は11時50分だったね。あち1時間ほどあるけど、軽く食事でも取ったらどう」
「朝食が遅かったから、おなかが空いていないの。寒いのでラウンジで待つことにしましょう」
イナの希望でファーストクラスの待合室に行ったが、ヘレンとオリーヴは買い物をしてくると
席をはずした。
「体調はどう?少しやせてスリムになったみたいだけど」
イナが気遣った。
「問題はないよ。雪が多くて散歩に行くこともないから、運動不足になっているようだ」
「我が国と日本の関係は、ますます悪化しているようね。これ以上悪くならないといいけど」
「私もそれを案じている。日本に方針を改めてもらいたくて、政治家や関係者に手紙で忠告して
いるのだが」
近頃は返事が来ることも少なくなった。来たとしても自分にはどうすることもできないという
悲観論ばかりで、日米の和平と親善のために行動を起こそうという者はいないのだった。
2025年03月22日<ふたりの祖国 190 安部龍太郎 第八章 独自の道 2>
ニューヘイブン駅の駅舎には大きな時計が取り付けてあり、午前10時20分を指している。
日付は1936年1月20日。まさに冬の盛りで、気温は氷点下まで下がっていた。
待ち合わせの11時までには、まだ40分ちかくある。朝河は駅舎の一階にあるレストランに入り、
タクシーの降車場が見える窓際の席に座って、コーヒーとサンドウィッチの朝食を取ることにした。
食欲はあまりないが、健康を維持するためには食べなければならない。そう自分に言い聞かせて
タマゴと野菜のサンドウィッチを口に入れ、ミルクをたっぷりと入れたコーヒーで腹の中に流し
込んだ。
店に置かれた新聞には、5日前の1月15日に日本がロンドン海軍軍縮会議から脱却したという
ニュースが大きく取り上げられていた。日本は1934年12月にワシントン海軍軍縮条約を破棄して
いたが、ロンドン会議からの脱退によって英米とのルールなき軍縮競争を挑む姿勢を明らかにしたのだった。
アメリカはこれに対抗して太平洋艦隊の強化を急いでいる。そうしてハワイやグアム、フィリピン
まで進出して太平洋の制海権を確立しようとしているので、日本との対立が激化するのは避けられない
情勢になりつつあった。
朝河は新聞から目を上げ、ぼんやりと窓の外をながめたながらイナとの長い付き合いに思いを馳せた。
マンスフィールド通りに住んでいた頃は家族ぐるみの付き合いをしていたし、互いに伴侶を亡くした後には
悩みや苦しみを打ち明け合う親密な間柄になった。
そうして互いに再婚を意識した時期もあったが、朝河には踏み切ることができなかった。
そのためにイナはギャリソン氏と結婚してニューヘイヴンに新居を構えていたが、夫がサンフランシスコに
転勤したので、後を追うことにしたのだった。
(これで良かったのだ)
朝河が己に言いきかせてコーヒーを飲み干した時、降車場に着いたタクシーからイナとヘレン、オリーブが
降りてきた。三人とも毛皮のコートを着て、華やかな色のマフラーをしていた。
2025年03月21日<ふたりの祖国 189 安部龍太郎 第八章 独自の道 34>
イェール大学内のあるセイブルック・カレッジを出た朝河貫一は、エルム通りに向かった。
数日前に降った大雪に、町も通りも白くおおわれている。車道の雪は市の除雪車によって
取り除かれ、車の通行に支障がないようにされているが、歩道の雪は残されたままである。
商店やレストランに面していれば、店員が雪かきをして客に不便がないようにしているが、
店のない所は放置されている。その雪が踏み固められて凍結しているので、用心しなければ
転倒して地面に腰を打ちつけることになりかねなかった。
朝河は冬用の底の厚い長靴をはき、滑らないように慎重に歩いた。幼少期をすごした伊達郡
立小山(現・福島県福島市)は雪の多いところなので、雪道の歩き方は心得ているつもりである。
だが64という歳のせいか、心労がつづいて体が弱っているためか、踏ん張りがきかずに足元が
おぼつかなかった。
ニューヘイヴンの冬は雪が多い。ロングアイランド湾から蒸発した湿気が空中にとどまり、
北から吹きつける風に冷やされて雪になって舞い落ちてくる。1月から2月にかけては2メートル
ちかい雪が積もり、町の機能が止まる日がたびたびあるほどだった。
広大なニューヘイヴングリーンも一面の雪におおわれている。アメリカが経済的な大恐慌に
襲われた時には、職や家を失った者たちが公園に集まり、仮設の小屋でその日暮らしをしていた。
だが、今ではそうした者たちは施設に収容され、小屋は撤去されていた。
朝河は公園の先の四つ角を南に折れてニューヘイブン駅に向かった。このあたりは市の中心部なので、
雪かきも行きとどいている。だが、朝河の足取りは重く、心は鉛色の雲におおわれた空のように
暗かった。
敬愛するイナ・ギャリソン(旧姓パリッシュ)が町を出てサンフランシスコに旅立ってゆく。
駅に向かっているのは、それを見送るためである。いつかはこんな日が来ると分っていたが、別れは
予想よりずっと早くやって来たのだった。
2025年03月20日<ふたりの祖国 188 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 33>
8月12日の正午過ぎに東條英機から電話があった。双宜荘の庭に植えた草花の手入れをしていた蘇峰は、
「今は手が離せん。会食の誘いだろうから、日時と場所を聞いておいてくれ」
静子に頼んですまそうとしたが、ただならぬ様子だと急かされて自ら受話器を取った。
「どうした東坊、いや旅団長」
「先生、大変です。永田少将が難に遭われました」
東條の声は動揺に上ずっていた。
「どういうことだ。落ち着いて話せ」
「今朝9時45分、軍務局長室に相沢中佐が乱入し、軍刀をもって斬殺したのでございます」
「な、何だと」
蘇峰の脳裏に紺色のスーツをスマートに着こなした永田鉄山の姿が浮かんだ。
「相沢中佐は皇道派の中心的なメンバーで、真崎教育総監を更迭した永田少将に天誅を加えたと
供述しているそうです」
「取り押さえたのか。相沢中佐を」
「本人が整備局長の山岡中将に投降したと聞きました。今日の午後、石原大佐が参謀本部に
着任することになっています」
永田と石原が陸軍の掌握に乗り出すことを阻止しようと、皇道派は相沢を送り込んだ。
絶対に許せない暴挙だと、東條は怒りに声を詰まらせた。
「本官も電話で報告を受けただけなので詳しいことは分かりません。しかし会食が出来なくなり
ましたので、早くお知らせしなければと思って電話しました」
話を聞きながら蘇峰は富士山をあおいだ。数日前の赤富士は瑞兆ではなく、凶事を予告して
いたのかもしれなかった。
蘇峰は4日後の『日日だより』で、この事件について次ように書いた。
「正直に言えば、我等にも最近何か事件が出来はせぬかと、ある予感に襲われていた。(中略)
ただ我等はそれを杞憂として我と我心を打ち消していた。今やこの事件に接して、実に
痛恨の極みである」
永田斬殺事件が半年後の二・ニ六事件の引金になるとは、事情に通じた蘇峰でさえ予想だに
していなかった。
2025年03月19日<ふたりの祖国 187 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 32>
蘇峰は7月24日に一日東京にもどり、翌日の午前7時40分から8時半まで、ラジオで
『国史を通じて観たる国体』と題した講演をした。
天皇機関説問題が起こって以来、日本の国体とは何か、天皇を中心とした国家はどうあるべきかを
明徴にするべきだという世論が盛り上がっている。蘇峰はこの問題についての方向性を全国民に向けて
示したのだった。
ちなみに時の岡田啓介内閣は8月3日に「国体明徴声明」を発し、「日本は万世一系の天皇が統治し
給うもので、天皇は統治権を行使するための機関であるという学説は、万邦無比なる我が国体に反する
ものだ」と宣言するが、蘇峰のラジオ講演はこれに先鞭をつけたものだった。
無事に講演を終えた蘇峰は、午後2時25分の東京駅発の列車に乗って双宜荘にトンボ返りした。わずか
一泊二日の帰京だが、この間も静子をともなっていた。
8月になって天気が荒れた。曇りや雨の日がつづき、時折西からの突風が吹きつけ、双宜荘のまわりの
木々を吹き祈らんばかりだった。
しかし山の天気は変わりやすい。激しい風雨が去ると空がからりと晴れ、夜には満天の星がまたたいて、
雄大な天蓋を成す。その中で富士山が黒い影となってそびえているのを見ると、大宇宙と対峙している
感動にとらわれ、世俗のわずらいを忘れるのだった。
蘇峰はある朝、尿意に迫られて明け方に目を覚ました。老齢のせいで腎臓の機能が落ち、4時間か5時間
に一度はトイレの窓を開けると、朝陽に照らされた富士山が赤く輝いていた。雪をかぶってもいないのに、
山肌が日に照らされて赤胴色に染まっている。
「静子、静子」
蘇峰はこの景色を見せてやりたくて起こそうとしたが、さすがに早過ぎると思いとどまった。
2025年03月18日<ふたりの祖国 186 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 31>
7月10日から、蘇峰は静子と共に山中湖畔の双宜荘に滞在した。目の前には山中湖が空を映して
美しく広がり、西側には富士山が天を衝く高さでそびえている。
双宜荘という名前は、双つの景色が宜しいという意味で蘇峰が付けたが、実は静子と仲良く過ごせる
場所にという願いも込めていて、二人で来るのを恒例としていた。
7月16日に真崎甚三郎教育総監が更迭されたことも、東京日日新聞社からの電話で知った。
双宜荘にいる間、外信部にいる西川大蔵が重要なニュースは電話で知らせてくれるのである。
「永田鉄山軍務局長からの働きかけがあり、最後は林銑十郎陸軍大臣が決断を下されたそうです」
西川は蘇峰が論評しやすいように、周辺の事情までこと細かに報告した。
蘇峰は翌日には「皇軍の使命」と題する一文を新聞社に輸送した。7月21日の『日日だより』に
掲載された文章は次のような書き出しである。
「皇軍の幹部でも、人間である。神様ではない。されば彼等とても人間に通有する弱点、もしくは
欠点ある可きは、決して不可思議ではない。我らは彼等にのみ聖人たらんことを望むことは出来ない」
しかし彼らは皇軍であり、天皇陛下の統制のもとに錦の御旗のもとに集まり、国家の防衛と国民の
活動の保護に当たっているのだから、その責任は重大である。
そう記した上で、皇軍とはいえ時には派閥に分かれて争ってきた歴史があると書き、今もそうした
弊害があるので皇軍の巨頭諸君は反省するようにとうながしている。その続きは次の通りである。
「林陸相は元来公平にして、戦々競々、その職務に謹恪の士と称せられる。されば今回の教育総監更迭
一件の如きは、定めて確乎たる信念の下に、敢行したものであろう。我等は何れにしても事後において、
之を論評する必要を認めない。ただ雨降りて地固まるの事実を、今後における、我が皇軍の上に
見んことを望むや切」
真崎を更迭した林陸相を擁護し、今後の陸軍の一致協力に期待すると記したのは、東條たちの
意向にそってのことだった。
2025年03月17日<ふたりの祖国 185 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 30>
「溥儀皇帝と引き合わせてくれと頼んだのは、そのための布石だったか」
「あれは永田少将に命じられてもことです。関東憲兵隊の司令官を拝命するとは、夢にも思って
おりませんでした」
「そうかな。満州へ行くと言っておったが」
「その必要があるとは考えていましたが、具体的な計画があった訳ではありません」
東條の弁説は近頃隙がなくなっている。それにつれて人間的な可愛げも失われていた。
「それで、頼みとは何かね」
「8月中頃に、石原大佐が参謀本部に着任いたします。本官も8月16日に上京しますので、
会食の機会をいただけないでしょうか」
「何の用だ」
「石原大佐を先生に紹介したいのです。永田少将も同席なされますので、日本が進むべき道について
ご教授を願いたいと考えています」
「それなら言いたいことがある」
「何でしょうか」
東條が警戒心を強めたのが、電話の向こうから伝わってきた。
「梅津・何応欽協定を見直すことだ。日本は塘沽停戦協定を順守し、中立地帯や河北省から手を
引かねばならぬ。そうしなければ中国との全面戦争になり、欧米からも厳しい制裁を受けることに
なりかねぬ」
漢民衆には満州が自国だという意識はあまりない。蒋介石の国民党政権が満州国の独立を事実上認めた
のはそのためだが、北京や天津、河北省となると話は別である。これを取られたなら政権の正当性に
関わるので、全力を挙げて反撃してくるにちがうなかった。
「おおせの通りでございます。これは皇道派と通じた者たちが独断で行ったことで、永田少将も大変
心配しておられます」
「分った。わしは来月から山中湖の別荘へ行く予定だが、参加するのに支障はない。日時が決まった
ら知らせてくれ」
永田、東條、石原の3人は、これからの陸軍を背負って立つ逸材である。その3人に誘われたことに、
蘇峰は少なからず自尊心をくすぐられていた。
2025年03月15日<ふたりの祖国 184 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 29>
[粛正とはおだやかじゃないな。どういうことだ」
陸軍内では東條英機や永田鉄山を中心とする統制派と、荒木貞夫、真崎甚三郎の皇道派に分れ、
国家や軍の方針をめぐって鋭く対立していた。
「皇道派が主上の統帥権を盾に取って、軍部による独裁政権を打ち立てようとしているとは、
以前に申し上げました」
「確かに聞いた。そのために野党と組んで天皇機関説問題を引き起こしたということだが」
「それを画策したのは陸軍三長官の一人である真崎甚三郎教育総監です。それゆえ陸軍大臣の
ご協力を得て、真崎総監を罷免することになりました。後任には我らと考えを同じくする、
渡辺錠太郎大将が就任されます」
「それはすでに決まったのか」
蘇峰の背筋に不気味な寒気が走った。皇道派は二年前まで陸軍を牛耳っていた。それを永田鉄山らが
中心になって切り崩してきたが、ついに真崎の首を取るということである。そんなことをすれば
過激なことで知られる皇道派の将校たちが何を仕出かすか分からなかった。
「決まりました。多少の困難や混乱があろうと、国家のためにやり遂げなければなりません」
「抑えきれるか。皇道派を」
「ご安心下さい。その指揮をとるために、石原莞爾大佐を参謀本部に作戦課長として配属することに
なりました。これが二点目の報告事項です」
「満州事変を起こした石原か」
「やがて永田少将が参謀総長に就任され、石原大佐が右腕として支えます。今の日本で考えられる
最強の布陣です」
「東條旅団長はどうする。東京にもどらないのかな」
「報告の第三点は、それについてです。トンボは満州に飛んで行くことになりました」
「何か不始末でもやらかしたか」
「関東軍の秩序を維持するために、関東憲兵隊司令官を拝命いたしました。満州にいる皇道派を
封じ込め、統制派の指揮下におくのが本官の役目です」
2025年03月14日<ふたりの祖国 183 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 28>
日本の新聞は梅津・何応欽協定を称賛し、我が国の正義が中国の奸計を打ち破ったとして
もてはやしたが、蘇峰はそうした熱狂を苦しく見つめていた。
発端となったのは中国側の犯罪である。しかしそれを好機と見て、独断で中国側に協定の締結を
強要した日本軍のやり方は明らかに不正である。
これでは朝河が『日本の禍機』で指摘した、「少数者の知察と道念とをもって、一国の行路に導くに
任する時は、日本の前途は極めて不安心のものといわざるべからず」という予見を地でいくようなものだ。
この動きに歯止めをかける論評をしなければと知恵を絞っていると、6月末になって東條英機から
電話があった。
「あなた、トンボさんからお電話ですよ」静子に呼ばれて階下に行くと、電話の前に椅子が置いてあった。
長電話になるだろうと、気を利かせて用意してくれたのだった。
「あのな。もうトンボと呼ばんでくれ」
蘇峰は小声で注意した。
「あら、仲違いでもなさったのですか」
「そうではない。彼は今や久留米の旅団長なので、それなりの敬意を払わなければ面目が立つまい」
受話器から離れた場所なので聞こえないと思ったが、近頃の電話は性能が良く、東條に筒抜けになって
いた。
「先生、これまで通り東坊と呼んで下さい。本官にとって名誉なことですから」
トンボは退くことを知らないので勝虫と呼ばれている。軍人にとって誇らしい仇名だと東條は言った。
「君はもっと偉くなって、日本のために働いてもらわなくてはならぬ。その自覚を持ってもらうために
も、おごそかな呼び方をしたいのだ」
「分かりました。しかし二人だけの時は今まで通りでお願いします。初心を忘れたくありませんので」
東條はしおらしく下手に出てから用件を切り出した。
「本日はご報告が三点、お願いしたいことが一点あります。一つ目のご報告は、いよいよ皇道派の粛清に
乗り出すことです」
2025年03月13日<ふたりの祖国 182 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 27>
また日本の軍部は「今とは比べものにならない根本的な禍いを招いている」というご指摘をいただいたが、
満州事変以来の中国との対立は、塘沽停戦協定を結んだことで終息させることができた。これからは関係を
正常化し、共に発展していくことができるし、そうする努力をつづけなければならないと、蘇峰は考えていた。
塘沽停戦協定とは、昭和8年(1933)5月31日に日本と中国が河北省塘沽で結んだ停戦協定である。
その条件は中国軍が万里の長城以南の定められた地域から撤退し、日本軍は満州まで引き上げ、その間に
中立地帯をもうけるというものである。
これによって日本は、中国民国に満州国の独立を事実上認めさせ、満州事変以来の懸案を解決した。
今後はこれ以上の紛争を起こさず、日本の勢力圏内の充実をはかればいい。蘇峰はそう確信して
一気呵成に手紙を書き上げたが、その見通しは一月もしないうちに崩れ去った。
原因は塘沽停戦協定で設置した中立地帯で日中の対立が起こったことだ。その第一弾は天津の
日本租界において、日本と満州国に好意的な現地の新聞社の社長二人が、蒋介石直属の工作機関である
藍衣社によって暗殺されたこと。第二弾は国民政府系の義勇軍が満州国に乱入し、略奪、暴行を働いて
中立地帯に逃げ込む事件が多発したことである。
これに対して志那駐屯軍参謀長の酒井隆は、政府や陸軍省の許可を得ずに駐屯軍を展開して中国政府を
威嚇し、6月10日に中立地帯周辺からの中国軍の撤退などを条件とする協定を成立させた。
これを梅津・何応欽協定と呼ぶ。天津の日本軍司令官梅津善治郎と、北平(北京)軍事分会委員長の
何応欽との間で結ばれたためで、梅津らの狙いは中立地帯や河北省から中国軍を追い払い、日本の勢力圏
に組み込むことにあった。
この目的は半年後の12月25日に、冀東防共自政府が成立したことによって達成されたが、これは華北
地方を日本の傀儡政権の支配下に置き、第二の満州国をきずこうとしたもので、塘沽停戦協定での合意を
踏みにじるものだった。
2025年03月12日<ふたりの祖国 181 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 26>
一部の者たちに国の前途を任せ、その者たちが清国や満州、大韓民国に対して不正に植民地拡大を
はかったなら、識者は世論や国益に配慮して何も言えなくなる恐れがある。朝河は27年も前に、
満州事変とそれ以後の日本の状況を正確に予見している。
蘇峰は山王草の書斎で『日本の禍機』を再読し、朝河の洞察力の確かさに舌を巻いた。いったいどの
ような才能と努力によってこんな力を得たのかと、自分の非才と非力が恥ずかしくなるほどだが、感服ばかり
しているわけにはいかなかった。
日本の世論を主導してきた者として、祖国をどのように導こうとしているのかを示さなければならない。
蘇峰は何糞と気合いを入れ、愛用の原稿用紙を用いて朝河への返信を書き始めた。
まず諸用繁多のために、一年半も返事を書けなかったことをわびた。次に日本の現状に対する朝河の指摘が
おおむね正しいことを認め、それを立て直し正路を踏むための活動に取りかかっていると告げた。
その方針は各地の「蘇峰会」で語った通りである。日本は満州や中国を植民地にしようとしているのではなく、
共存共栄をめざしている。これは決して外国の物真似ではなく、欧米諸国に蹂躙されてきた東アジア諸国を解放
し、皇道にもとづいた公平、平等、慈愛の同盟国家を築かんとしてのことだ。
また貴殿は、「暴力を以って防御力乏しきものを撃破して国策を立て、又或は同じく蛮力もて武具なき人を
殺害するものを以て、その主義が忠誠なる故に恕すべしと申すべく候」と書かれているが、この数年は
満州や中国でご指摘のような混乱があったものの、やがては正道にもどるはずである。
なぜなら日本の「軍人勅諭」を叩き込まれ、規律ある公正な行動を取るように訓練されているし、国民は
「教育勅語」によって天皇の赤子としての心得を植え付けられている。これから皇道教育を徹底し、
皇室中心主義を根幹とする国家をきずくことで、今の混乱から脱却して安定を取り戻すことができるだろう。
2025年03月11日<ふたりの祖国 180 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 25>
朝河貫一が言う反省とは、通り一遍の意味ではない。日本人が武士道によって培った、民族の本質に
かかわる精神的な美徳だと位置づけた。
朝河は明治41年(1908)9月、日露戦争の勝利に酔って軍国主義への道を歩き始めた祖国を
諫めようと『日本禍機』を書いた。
この中で日本人の反省力について、次のように記している。
「日本国民の最も祝すべきは、その古来」反省力を長ずる機会のはなはば豊富なりしがゆえ、
いやしくも日本人にして、この力の幾分を胸中に蔵せざるはなきことこれなり。余は欧米人と日本人とを
反省力において我が彼に秀ずること少なからざるを証し得たりと信ず」
だからこの特質を伸ばしていけば、世界に秀でた国民となり国家の安泰をはかることができる。
だが、その美徳を磨くことをおこたり、一部の者たちの専制に国政をゆだねるようなことをすれば、前途は
きわめて危ういと次のように警告する。
「国のためならば正義に反しても可なり、正しき個人の名誉を傷つくるも可なり、というがごとき思想は未だ
日本を脱せず。この思想一転せば、一時の国利を重んずるのあまり、永久の国害を論ずる人をすら非愛国者と
なすの傾きあるがゆえに、識者は世の憎悪を恐れて国の大事に関しても公言するを得ざるに至るべく(公言
できなくなり)、あるいは識者自ら習気に化せられて(世俗的考えにとらわれて)、独立の思考をなす能わざる
に至るべし」
こうした危険におちいる例として、朝河はこの先日本が清国や満韓において不正を重ねる行為をした場合、
これを公言すれば日本の名誉を傷つけると思って何も言わなかったり、これを妨げたなら日本の当座の利益を
減することになると思って口を閉ざすようなことが起こったなら、その結果はどうだろうかと問いかける。
「知らぬ間に日本は天下に孤立し、世界を敵とするに至るべし。これに加えて、第一に日本国民の愛国心なるものが
気うえて(生気をうしない)形のみ存するものとなる大危険あるべし、豈恐れざるべけんや」
2025年03月08日<ふたりの祖国 179 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 24>
だからと言って正しい政網とはいえないが、歴史的な必然性から生まれたものであって、外国人が
短見的に非難できえうような不自然なものではないと断言する。
「さればこそ国民の多数が衷心よりこれを渇仰するなれと存じ候。猶、不断に研究致居候」
これを読まれた方の中には、「朝河はナチスドイツを支持していたのか」と誤解される向きが
あるかもしれない。しかしこの部分は、『二十五カ条』がドイツ民族の深層心理に直結したものだ
と言わんとしたものである。そして日本軍部の政綱と比較するための前置きでもあった。
「之に対比すれば、今日日本軍部の政綱ハ、日本史の指す方向二ありと申すべき意義ハ遥ニありと
申すべき意義ハ遥ニ乏しく、むしろ之に背馳する或外国流儀の日本化と申すべく候。之を
皇国の政網なりと申候は僭越、偽善の極と存じ候」
ここから朝河の舌鋒は俄然鋭くなる。それを引用するのは煩雑なので、愚輩流の略文にして紹介
したい。
「その根本は某国の物真似にすぎず、それを杓子定規に現実に応用しただけです。今の困難を乗り切る
方針を立てられる者は誰もいませんし、軍部の政策は一見壮快で国民の虚栄心を満たすので、真面目に
信じている者が多いだけです。しかもこの愚策を行うためには、卑怯な手段ばかり使っているでは
ありませんか。暴力によって弱い者を撃破して国策を立て、蛮力をもって無防備な人を殺害している
のに、その主義が忠誠だから許すべきだと言うのは、日本の武士道にあるまじく卑劣なことです。
主義は忠誠ではなく、手段も陋劣きわまりない。
こんなことを許しておけば、将来どんな感化が日本人におよぶでしょうか。いわゆる皇国主義に
よって危険思想に対すると言いながら、これこそ一番危険思想ではありませんか。こうした傾向は
今後ますます激しくなるでしょうが、それさえ国難の最大のものとは言えず、さらに大きく根本的
な禍を今の軍部は招こうとしています」
こう書いた後で次のように結んでいる。
「小生只々真に日本らしき精神の反省が進み候て、真に日本的の政綱を以って指導する人の出でんことを
のみ祈居候」
2025年03月07日<ふたりの祖国 178 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 23>
国のために身を捧げる覚悟が定まったからだろう。蘇峰は朝河寛一から一年以上前に受け取った
手紙ともようやく正面から向き合うことができるようになり、各地への移動の間に熟読して
真意を理解しようとした。
この手紙は、蘇峰が朝河に送った「国策大綱私案」について感想を述べたものである。この頃
蘇峰は東條英機や統制派の若手将校たちの勉強会に参加し、今後の日本はどうあるべきかという
研究をしていた。その議事を自分なりにまとめたものを朝河に送り、批評を求めたのだった。
これに対する朝河の返書は、次のような書き出しで始まっている。
「御高見、日々新聞の社説よりも一層統一、徹底せる御意見らしく拝見仕候。此見地ニ到達せられた
る前年来の事情も略々拝察し、将来に関する御憂慮も了承仕候」
蘇峰の立場は理解していると言いながらも、これには多くの矛盾があり大いなる不自然があるので、
実行するのは不可能であると批判している。
「その大綱だけにても強行ニ就候はば、それこそ重大の危険を招き、国に禍害となるべきを
予想仕候」
朝河はそう記した後、過敏危害の反動勢力に貢献するのはかえって将来の日本に禍いを招く
と忠告し、新島襄先生が生きておられたら何と言われるだろうかと書いている。こんな体たらくで
新島先生に顔向けできるか、と言わんばかりの辛辣さだった。
蘇峰は大綱私案の中で、「めざすところはナチスドイツが策定した『二十五カ条綱領』の
不備を克服し、日本とアジアの状況に即した戦争遂行要綱を作り上げることだ」と記していた。
この点について朝河は、ドイツの状況については興味を持って考察しているが、第一次
世界大戦以後にこれほど歴史の継続と運命の深大に接したことはいまだにないと書く。
「ヒトラーは、戦後の現状に対する政綱として、之を実現せんと努力する外あらざるべく候へ
ども、彼の言行ハ(中略)独逸の本性をそのままに今日の言もて為したる所過半に候」
2025年03月07日<北斗七星>
・・・・夏目漱石は小説『虞美人草』で、登場人物にこう語らせている。「真面目とはね、
君、真剣勝負の意味だよ」「真面目というのはね、僕に言わせると、つまり実行の二字に
帰着するのだ」
2025年03月06日<ふたりの祖国 177 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 22>
5月12日 茨城県大田珂北蘇峰会
同日 茨城県水戸双蘇峰会
5月23日 宮城蘇峰会
6月 6日 東京で蘇峰会幹事会
6月27日 横浜蘇峰会
まるで国会議員の遊説なみの忙しさである。その間に各地の首長や有力者との談話、講演、
取材をこなし、『日日だより』や『近世日本国民史』の連載をつづけているのだから、
超人的と言わざる得ない。
それでも蘇峰は「蘇峰会」の例会や発足式を開き、信じるところを説いて回った。その主要な
論点は次の六つである。
一、明治維新の理想に立ち返ること。
一、天皇の大御心に従った国家再建。
一、満州国との共存共栄。
一、軍部の統制の確立と綱紀粛正。
一、挙国一致内閣の実現。
一、公正な官僚制度の構築。
中でも明治維新に立ち返ることが重要で、蘇峰は明治天皇の御前会議で有能、高徳の重臣・
元老たちが意見を戦わせて国の方針を決めた頃のやり方を理想としていた。これに従えば、
元老なき時代においても政党や官僚、軍部などの対立を乗り越えて挙国一致の体制を作れる
はずだと訴えた。
また、満州国の運営が軌道に乗り、政情が安定してきた今こそ、朝鮮、満州、台湾、南樺太、
南洋群島におよぶ協力体制を構築し、経済的にも軍事的にも欧米に劣らぬ国家にしなければなら
ないと力説した。
皇道派と統制派に分かれて争っている軍部についても、歯に衣着せない痛烈な批判をした。
将校の中には天皇の大権を掌握しようと画策している輩がいるようだが、これこそ国家を過まれせる
大罪で。軍人はすべからく軍人勅諭の精神を体して国家に忠誠を尽くさなければならないと
説いた。
蘇峰会のメンバーの中には在郷軍人会の退役軍人も多く、この発言はすぐに陸軍の両派に伝わる
はずである。それを承知で厳しい指摘をしたのは、軍の現状について深刻な危機感を抱いて
いたからであった。
「蘇峰先生、それ以上踏み込んで発言をされるとお命に関わりますよ」
冗談めかして忠告する退役軍人もいたが、それでも構わないと腹をくくっていた。
2025年03月05日<ふたりの祖国 176 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 21>
かく言う溥儀の詔書の引用は、次のようにつづく。
「朕、日本天皇陛下と精神一体の如し。汝衆庶ら、さらにとみに仰いでこの意を体し、友邦と
一徳一心、もって両国永久の基礎を奠定し、東方道徳の真義を発揚すべし。すなわち大局の和平、
人類の福祉、必ず致すべきなり」
この詔書には関東軍の検閲が入っていると想像されるが、溥儀が表明されていることは
まぎれもない事実である。
蘇峰はこの文章を絶賛し「我らはこれ以上には、一字も賛する(加える)ことが、不可能である。
至れり尽くせりとは正しくこの詔書である」と持ち上げているが、それ以上に重要なのは文末の
次の指摘である。
「我らは満州国皇帝の詔書を捧読して、さらに我が国民の深省をうながすの已む可らざるを見る」
この詔書を感激をもって紹介したのは、日本人に深い反省をうながすためだったというのだ。
それは満州の他の民族を劣等だと差別したり、満州は日本の属国だから植民地的に扱っても
構わないという傲慢な風潮への、怒りを込めた批判だった。その批判は国民ばかりでなく、満州を
日本改造の道具としか見ていない軍部へも向けられていた。
「諸君は東亜が共栄して欧米の植民地支配を打ち破るというが、満州国を真の友邦としえないようでは、
東亜諸国の賛同を得られるはずがないではないか」
そう叱りつけたのである。
蘇峰の凄いところは、こうした論評を新聞で発表するばかりでなく、実際に読者と意見交換する
ことによって世論を形成しようとしたことだ。
そのための拠点としたのは、各地に形成しつつある蘇峰会だった。それを一挙に拡充して世論を
喚起しようとしたのだから、若い頃に自由民権運動で用いたやり方をそもまま応用したのだった。
その精力的な行動を、4月から6月までの日程表から書き出すと次の通りである。
4月18日熊本蘇峰会
4月27日大阪蘇峰会
4月28日京都蘇峰会
2025年03月04日<ふたりの祖国 175 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 20>
日満の精神的結合の重要性を訴える蘇峰の文章には、これまでとは違う清純な覚悟が見て取れる。
それは溥儀と親しく対面して人柄と人格に感激したからだけではなく、満州国の健全な発展と
日満両国の友好に身を挺して尽力しようと決意したからである。
思えば蘇峰が自由民権論に転じ、西欧列強の外圧をはねかえせる強い国家を築かねばならない
と決意したのは、明治28年(1895)の三国干渉を体験したからだった。
日清戦争に勝った日本は、下関条約によって遼東半島を割譲された。ところがフランス、
ドイツ、ロシアの反対と妨害によって返還せざるを得なくなった。しかもその後ロシアは、
その恩義を盾に取って遼東半島に進出することを清国に認めさせた。
この無念、この屈辱を忘れてはならぬと決意した33歳の蘇峰は、半島の石を持ち帰り、
倦土重来を期して言論活動をつづけた。その十年後に日露戦争に勝ち、清国から遼東半島の
割譲を受け、ロシアから南満州鉄道を譲り渡させた。
これが日本の満州進出のきっかけとなり、満州国建国につながったのだから、蘇峰にとって
満州国は血を分けた子どものようなものである。これを守らなければ男がすたると、持ち前の
反骨精神に火がついたのだった。
蘇峰は5月4日の『日日だより』にも、「満州国皇帝陛下の詔書を拝読す」という一文を
寄せている。これは帰国した溥儀が5月2日に新京(長春市)において発した詔書に触れたもの
である。
この中で蘇峰は「恐れながら満州国皇帝殿下の、日本における御見学は、決して皮相のことで
はなかった。陛下は日本の国体の真相を看取し」と前置きして、昭和天皇に対面した溥儀の想いを
伝えている。
「その政本の立つ所、仁愛にあり。教本の重ずる所、忠孝にあり、民心の君を尊び、上に親しむ
(こと)天のごとく地の如く、忠勇公に奉じ、誠意国のためにせざるはなし。ゆえによく内を
安んじ、外をはらい、信を講じ、隣をあわれみ、もって万世一系の皇統を維持することを知れり」
2025年03月03日<ふたりの祖国 174 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 19>
溥儀との対面から11日後、4月18日の東京日日新聞に、蘇峰は『日満の精神的結合』と
題する一文を発表した。
この中で蘇峰は赤坂離宮で会った時の溥儀の言葉を紹介している。少し長くなるが忘れられた
貴重な証言なので、読みやすい文字に変換して紹介させていただきたい。
「欧西各国は、いずれも物質文明を採用されながらも、東洋文明について新たに検討する必要に
気付かれつつあるは、いかにも喜ぶべきことである。
日満両国の協力一致は、東洋平和の基礎にして、朕がもっとも専念とするところであるが、しかも
もし単に日満の利害のみを考慮し、利害によってのみ一致を計らんとするは、はなはだ危険であると
思う。そは、利害は時として一致を欠くことがあり、時としては衝突を招かれざることもある。
さあれいやしくも東洋道義の精神において一致するにおいては、区々の利害を超越して、永久あえて
変わることなき堅確なる結合ができる。これが朕の希望するところである」
この発言に感激し賛同した蘇峰は、次のように持論を開陳している。これも読みやすく変換させて
いただこう。
「しからばいかにして精神的結合をなすかいえば、我らはまず第一に、文化的結合の必要を感じる。
すなわち学問の上、芸術の上、宗教の上、文学の上、美術の上、あらゆる精神方面のおける結合である」
それを実現するには、満州の青年男女を留学生として日本に迎え、国民をあげて好遇することや、
満州の古代以来の文化を研究することが必要だと訴えた上、あらゆる精神方面における結合である」
それを実現するには、満州の青年男女を留学生として日本に迎え、国民をあげて好遇することや、
満州の古代以来の文化を研究することが必要だと訴えた上で、次のように論を結んでいる。
「およそ世の中に、精神的結合ほど有力のものはない。互いに共通の文化を持ち、共通の芸術、
共通の信仰、共通の趣味を持つ時においては、何人がその間に水を注さんとしても到底不可能のことである。
我らはここをもって、日満の将来については、よろしく精神的方面にその力を致さんとことを、
ここに満州国皇帝陛下の賜りたるご沙汰に感激して、特にこれを我が同胞各位に告ぐ」
2025年03月01日<ふたりの祖国 173 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 18>
東條が差し出した紫色の布に包んだ箱を、溥儀は開きもせずに秘書官に渡した。
対面を終えて応接室にもどると、蘇峰は茶を一杯所望した。
「食後はこれがないと、どうも胃の通りが悪くてね」
言い訳でもするように断って熱い茶をすすった。
東條が改めて礼を言った。
「皇帝は暗雲だという評判もあるようだが、それは爪を隠しておあられるのだろう。短い
時間だったが、たいしたお方だということはよく分かった」
「それゆえ関東軍では扱いに困っているようでございます。やがて本官が満州に行き、
ご助言申し上げる必要があるかもしれません」
引き合わせてもらったのはその時に備えてのことだと、東條は言外に告げていた。
東條の溥儀に対する見下したような態度は、おおむね日本陸軍、いや日本人に共通するもの
だった。日本人には明治維新以来、欧米人に対する抜きがたい劣等感がある。
その反動がアジアの諸民族に対する優越感や差別意識になっていた。
満州においてそれは顕著で、口では五族協和をうたいながら、日本人に比べて満州人、
漢人、蒙古人、朝鮮人は明らかに差別されている。
溥儀に対しても口では皇帝と敬いながら、関東軍の将校たちは腹の中では我らが擁立して
やった傀儡だと見下している。だから酒に酔うと皇帝の前で大言壮語したり、侍女たちを
追い回すのである。
これでは駄目だ。真の日満親善など実現できないし、欧米に対抗できる協力体制など
築けるはずがない。溥儀にあって好感を抱いたせいか、そのことがひときは痛切に感じられた。
(いかん、いかん、こげなこつじゃ乃木大将の苦労が水の泡になる)
それは食い止めるためには、真の日満親善と共存共栄を成し遂げる方策を、多くの国民
に訴える必要がある。蘇峰は悪い夢から覚めたようにそう思った。
2025年02月28日<ふたりの祖国 172 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 17>
万里雄航破飛濤 碧蒼一色天地交
此行豈僅覧山水 両国申盟日月昭
波頭を破って万里の航海をつづけている。まわりは碧蒼一色で水平線で天地が交わっている。
この旅は決して物見遊山のためではない。日本と満州国の盟約は日月のように明らかである。
「このように立派な書を、いただいてよろしいのでしょうか」
蘇峰は恐縮した。詩の内容はともかく、書体は唐代の顔真卿のような力強い堂々たるものだった。
「是非ともご受納下さい。今回の日本訪問」は今上殿下にお目にかかり、立派なご人徳とも国民に
対する思いの深さに感動いたしました。そのことと徳富先生のお人柄に触れたことが最大の喜びです」
やがてメインディッシュの肉料理が出て、会食は終わりに近づきつつある。その時になって
蘇峰は東條英機に釘を刺されていたことを思いだした。
「殿下、お願いがあります。わしをここまで車で送ってくれた久留米の旅団長がいるのですが」
紹介させていただいて構わないかと、遠慮がちにたずねた。
「どのような方でしょうか」
溥儀は明らかに迷惑そうだった。
「東條英機と言います。去年まで参謀本部におりました。私の弟子のような者です」
「その名前は石原莞爾や板垣征四郎から聞いた覚えがあります。軍人と会うのは好きでは
ありませんが、先生の弟子ということであれば断ることはできません」
溥儀の許しを得て東條を呼び入れた。
「本日はご拝顔の栄に浴し、恐悦至極でございます。久留米第二十四旅団長を拝命している
東条英機と申します。以後お見知りおきを願い上げ奉ります」
東條は部屋に入るなり直立不動で挨拶したが、その言葉や態度にはどことなく慇懃無礼な
ところがあった。
「話は徳富先生からうかがいました。今日は案内の労をとって下さったそうですね」
「微力をつくしたままでございます。これは陸軍省軍務局長の永田少将からお預かりした
陛下への贈り物でございます」
2025年02月27日<ふたりの祖国 171 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 16>
「我が日本帝国は、国際連盟を脱退した。しかれども千羊の皮は、一狐の腋にしかず、百人の面交は、一人の親友に
しかず。我らは何物を失うも、一の満州国なる我が親友を得れば、さらに何ら遺憾とするところはないーーー。
実に日本男児らしい気宇壮大な一文ではありませんか」
「おや、ソルベが来ましたよ。年寄りを苛めるのはこれくらいにして、フルーツのシャーベットを
いただきましょう」
「蘇峰先生は、お酒は召し上がらないのですか」
「飲みません。酒に酔っぱらって時間を無駄にすろほど、人生は長くありませんから」
「立派な心掛けですね。私の部下たちも見習ってもらいたいものだ」
「何かお困りですか。酒席のことで」
「ここだけの話ですが」
溥儀は話していいのかどうか迷ったようで、厚い眼鏡の奥の目を落ち着きなく左右に
動かした。
「ご心配には及びません。私は武家の生まれですから信義は守ります」
「実は関東軍の将校たちの酒癖が悪くて困っています。酔って大言壮語したり、侍女をしつこく
追い回したり。それを止める方法はないでしょうか」
「ありますよ。簡単な方法が」
「教えて下さい。お願いいたします」
「将校たちが酔って無礼を働いたなら、陛下は黙って立ち上げり、皇居に向かって遥拝して下さい。
ほら、このように」
蘇峰は上体を九十度におり、皇居に向かって頭を下げ続けた。
「分かりました。こんな風ですね」
溥儀も同じように遥拝の姿勢をとった。
「そうそう。これで将校たちも、軍人の本分に目覚めて行ないを慎むでしょう」
「愉快だなあ。先生と話しをしていると、大好きだった祖父を思い出します」
溥儀は感激に目をうるませて中座した。そうしたのだろうと思っていると、書状を入れた長い筒を
持って戻ってきた。
「これは日本への航海中にしたためた漢詩です。つたないものですが、受け取っていただけますか」
溥儀が広げた大判の紙には、墨蹟も鮮やかに七言絶句が記されていた。
2025年02月26日<ふたりの祖国 170 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 15>
「日本語がお上手ですね」
「天津で日本人のお世話になっていた頃から勉強を始めました。しかし満州では話さないように
しています。五族協和が満州国の目標ですから、蒙古や朝鮮の言葉も話さなければ不公平に
なりますから」
「素晴らしいお心構えですね。陛下のご配慮に感動いたしました」
蘇峰は大げさに褒めたたえたが、溥儀が日本語を使わないのには別の理由がある。通訳を通して
話した方が、関東軍の将校の要求を拒みやすいからだと、蘇峰は関係者から聞いていた。
食事はフランス料理のコースで、前菜のオードブル、スープ、魚料理のポワソンを食べながらの
話になった。蘇峰は一応、日露戦争以後の日満関係について進講したが、溥儀はすでによく理解していて、
これ以上杓子定規の話をするのは適当ではないようだった。
「先生、今日の『日日だより』を拝読しました。感激を込めて書いていただき、ありがとうございました」
溥儀が披露した東京日日新聞には、「満州国皇帝陛下を迎え奉る」と題した記事が載っていた。
「いや、これは・・・、弱りましたな。まさかお読みいただいているとは」
蘇峰は頭に手をやって大いに照れた。
「孔夫人は、朋遠方より来る、また楽しからずやと云うた。これは我ら臣民間相互の文句だ。我らは恐れ
多くも我が天皇陛下と満州国皇帝陛下との御間柄に、この文句をそのまんま適用せんと欲するものではない」
溥儀はわざと声色をつけて記事の冒頭を読んだ。それにつづく文章は「けれども我ら臣民の満州国民に
対する衷情は、まさにこの通りであると明言するを、もっとも愉快とする」である。
「おからかいになっては困ります」
「私がこの記事で一番好きなのは次の箇所です。発音は悪いけど、読ませていただきますよ」
溥儀はいたずらっ子のような表情になり、蘇峰の文章を読んだ。
2025年02月25日<ふたりの祖国 169 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 14>
朝河は1年半前、昭和8年9月16日付の蘇峰の発言について<御憂慮の余、過敏危害の反動勢力二
あまりご貢献被遊候事ハ、却て将来の日本の禍を招く果を生ずまじく候や>と苦言を呈していた。
碩学の士らしい幾多の忠告と鋭い指摘を書き連ねていたが、蘇峰は「日本にもおらん奴に、
何が分っとか」と心の内で一蹴していた。それは朝河が間違っているからではなく、
あまりに正鵠を射ているので、正面から向き合うことを避けていたのだった。
車は予定通り午前11時に赤坂離宮に着いた。皇室の迎賓館と言うべきこの宮殿に、満州皇帝溥儀が
昨日から滞在していた。4月6日の早朝に大連から軍艦に乗って横浜港に入った溥儀は、臨時列車で
東京駅に着き、多くの者たちが出迎える中を赤坂離宮にやって来た。
そしてその日の午後に皇居で天皇、皇后と対面し、夜には宮中晩餐会に出席した。
蘇峰の進講が組まれたのは翌日だから、晩餐会に次ぐ三番目の行事である。
蘇峰に白羽の矢が立ったのは、新聞人やジャーナリストとしての実績もさることながら、昨年4月に
満州事変における功績によって旭日重光章を受けたからだった。
会食は正午からである。まだ一時間ほどあるので、応接室で待つように指示された。東條も蘇峰の側に
ぴったりとついて、溥儀に引き合わせてもらう機会を逃すまいと身構えていた。
定刻5分前に、皇帝付きの日本人秘書が迎えに来た。東條は同行できないというのでドアの前まで
見送りに出て、上首尾を待っていますと言いたげな敬礼をした。
中庭に面した明るい洋室に会食の仕度がしてあり、溥儀がすでに席についていた。
主上より三つ下の32歳。細面の生真面目そうな若者で、度の強い丸眼鏡をかけ、きらびやかな勲章を
胸いっぱいにつけた大元帥服を着ていた。
「徳富先生、今日はお越しいただきありがとうございます」
溥儀は日本語で挨拶し、蘇峰の手を握りしめた。すらりと足が伸びた長身で、蘇峰と同じくらいの
背丈があった。
2025年02月24日<ふたりの祖国 168 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 13>
「それでは主上を人質に取るようなものだ。不敬きわまりない」
「薩長が維新の時に取った手法と同じですよ。今は幕末と同様に日本の浮沈がかかった非常時なので、
そうした手法を取るのはやむを得ないと彼らは考えているのです」
「君たちはそれでいいと思っているのかね。一夕会や統制派は」
「我々は憲法や法令を守り、主上のご意志を尊重します。ですから彼らに賛同することは絶対にありません」
ニュルブルク460は軽快なエンジン音を上げて品川駅を過ぎ、港区元赤坂離宮に向かっていく。蘇峰は静かな
揺れに身を任せながら、東條の言葉に何とも言えない不快さを覚えていた。
軍部はもはや天皇さえも意のままにし、独裁体制を打ち立てようとしている。満州事変が始まって4年。抗日勢力や
中華民国との闘いが激しくばれば日本の負担が大きくなり、旧来の体制では戦争を完遂できないという危機感が、軍部の
将校たちを暴走させ始めているのである。
東條はこれは皇道派のやり方だと言うが、同じ陸軍なのだから気脈を通じているはずである。このまま彼らの勝手を
許していたなら、国家を誤らせるという不安を覚えながら、蘇峰は朝河貫一の手紙の一節を思い出した。
「兵力にて贏ち得たる所を実施し保障せんが為には、さらに益々兵力に頼り、かくて日本は益々忌むべき軍国と化し、
農民が更に窮地におちいり、国内には危険の思想を激励し、同時に志那および列国を敵とする孤立の我儘物となる
の患いなく候や」
会食の席で牧野伸顕が手紙の写しを配った時、毎日新聞社の本山彦一社長は、「日本が忌むべき軍国と化す
というのは当たらない。なぜなら明治大帝が下された軍人勅諭によって陸海軍の規律は厳重に保たれているからだ」
と反論した。
しかし五・一五事件や皇道派の動きを見れば、朝河の方が正しかったことは明白である。軍部や右翼勢力は兵力に頼り、
国内には危険の思想を激成している。それなのに蘇峰は、彼らと論調を合わせる評論や発言を繰り返してきたのだった。
2025年02月22日<ふたりの祖国 167 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 12>
この時、皇道派に属する若手将校たちは、「君側の奸が主上の意をねじ曲げた」と騒ぎ立てたが、これは
昭和天皇の指示を受けて決められたことだった。
陸軍の皇道派が平沼を推していることに危機感を持たれた天皇は、西園寺に八項目にわたって指示をなされた。
その中に、一、ファッショに近き者は絶対に不可なり、一、外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑に努むること。
一、現在の政治の幣を改善し陸海軍の軍機を振粛するは、一に首相の人格に依頼す、などの文言があったために、平沼では
なく斎藤の首相就任が実現した。
このことを知った皇道派は、深刻な危機におちいった。彼らは天皇主権の国家、天皇が仁徳を持って国を治める政道が
皇道だと主張し、天皇のもとで軍が独占的に政治を行なう独裁体制の確立をめざしていた。ところが天皇が皇道派を拒否した
のだから、彼らの主張の基礎そのものが失われる事態になった。
「そこで彼らは考えたのでしょう。この問題を解決するには、官邸や枢密院、内大臣府の要人を君側の奸と決めつけて糾弾する
だけでは足りない。主上を意のままにできる体制を作らなければならないと」
東條は車の室内ミラーを真っ直ぐに見つめて語った。横長の大きなミラーを通して見る東條の顔は、思いがけないほど
冷酷な感じがした。
「主上を意のままにするとはおだやかではないが、それと天皇機関説排撃がどうつながるのかね」
「これはあくまで私見であり推論ですので、責任は負いかねます。それでもよろしいでしょうか」
「君の私見でも、ここだけの話ということでも構わんよ」
「主上は内閣や議会の輔弼を受けて政治を行なわれるという機関説の解決のままでは、主上を軍部だけの掌中の玉に
することはできません。そこで天皇主権論を取り、天皇は陸海軍を統制するという憲法第十一条と結び付ければ、軍が天皇の
勅令によって政を行う体制が作れる。彼らはそうしたいのです」
2025年02月21日<ふたりの祖国 166 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 11>
「皇道派はなぜ騒動を起こしたのだ」
「統帥権の万全を期すためです。彼らは主上の統帥権を盾に取って、国家を軍が総攬すべきだと考えていますが、
主上の主権が天皇機関説で制限され、議会や内閣の干渉を受けては軍による総攬は実現しない。そこで天皇主権を
確立し、議会や内閣の権限を奪ってしまおうと考えているのです」
「それは物騒な企てだな。議会政治、憲政の常道の否定ではないのか」
「今の国難を乗り切るには、軍による独裁体制をきづくしかない。そう考えているのです」
「それに対して、君たちはどうかね」
「我々は憲法や法令を尊重しながら国家の改造を行うつもりです。そうしなければ国民の支持を得ることは
できません」
「ある筋から聞いたことだが、機関説排撃の真の狙いは枢密院議長の一木喜徳郎君を失脚させることにあると
いう。これは事実かね」
その話を蘇峰にしたのは、内大臣の牧野伸顕である。一木は美濃部の学問上の師なので、美濃部を追求することで
一木にも責任を取らせる計画である。
「それが事実であるかどうか、本官は存じません」
「一木君は主上の信頼の厚い枢密院の重鎮だ。もしそんな計略があるとしたら、それこそ主上に対する不敬であり謀反
ではないのかね」
「ああ、君の推測には定評があるからね」
「三年前の五・一五事件の時、皇道派の面々は平沼麒一郎氏を推していました。ところが元老の西園寺公望公は
斎藤実海軍大将を推し、彼が首相に就任しました。これには主上の強いご意向があったことは、先生もお聞き及び
でございましょう」
犬養毅首相が凶弾に斃れた後、立憲政友会は総裁に選出した鈴木喜三郎を後継首相に推した。ところが
陸軍の強硬派が平沼を推したために事態は紛糾し、西園寺の推薦を得て斎藤実内閣が誕生した。
2025年02月20日<ふたりの祖国 165 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 10>
菊池武夫の批判は個人的なものではなく、天皇中心主義で国論を統一しようとする軍部や右翼、そして
岡田啓介内閣を倒そうとする野党の思惑がからんだ組織的な動きだった。
憲法学の権威である美濃部達吉は、「統治権は法人である国家に属し、国の最高機関である国家に属し、
国の最高機関である天皇が国務大臣の輔弼を受けて行使する」という天皇機関説を大正元年(1912)
に発表し、長い間憲法学の通説とされてきた。
しかし菊池らは統治権が天皇にあることは、大日本帝国憲法の第一条に「大日本帝国は、万世一系の天皇が統治する」と
謳われていることからも明らかで、天皇は国家の機関」であるとする解釈は、天皇の神聖性を冒瀆するものだと
決めつけた。
これには同じ貴族院議員の井田磐楠らが同調し、貴衆両院有志懇談会を作って機関説排撃を決議した。
これに対して美濃部達吉は2月25日に貴族院で演説を行い、「機関説というのは国家を法人と解釈し、
法人たる国家元首の地位にある天皇は、国家を代表して一切の権利を総攬されるので、天皇が憲法に従って行わう
行為力は国家の行為たる効力を生じる、ということを述べたものであります」と弁明した。
そもそも憲法第四条には「天皇は国の元首であって、統治権を総攬し、この憲法の条規により、これを行う」と
記されているので、美濃部の解釈は正しいはずである。
しかし反対派は第三条の「天皇は神聖にして侵すべからず」の条文を盾に、天皇の大権が国家に拘束されるという
説は不敬であり謀反であると言い立てた。
しかも新聞各社がこの説に便乗し、天皇主権こそが日本の国体であるというキャンペーンをくり広げていたの
だった。
「あれには我々は関与しておりません。陸軍の一部が野党と組み、岡田内閣打倒をめざして始めたことです」
「陸軍の一部とは、王道派のことかね」
「そう考えていただいて結構です」
東條は明言を避けたが、陸軍は荒木貞夫や真崎甚三郎を中心とする皇道派と、永田鉄山や東條を中心とする統制派に
分かれて対立し、この問題についても方針がちがっていた。
2025年02月19日<ふたりの祖国 164 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 9>
車はなだらかな坂を下って、東海道へ向かっていく。松並木がつづく細い通りにさしかかった時、
フロントガラスの間近を黒いものが横切った。
運転手はぶつかるものを避けようと反射的にブレーキを踏み、ニュルブルク460は硬直したように
急停止した。
「な、何だ。今のは」
東條が運転手に問い質していると、黒いものは逆方向から飛来し、車の中をジロリとにらんで
通り過ぎていった。
「あれはハシブトガラスのクマ公だ。見慣れない車だじゃら、わしがどこかに連れていかれると
心配したのだろう」
「ああ、あの山王草堂航空隊ですね」
東條は前に草堂を訪ねた時、クマ公に軍帽を取られたことを覚えていた。
「わたしの友だちだ。あの小さな体でこの車を止めるとは、相変わらず度胸がいい」
「さすがは蘇峰先生でございますな。カラスでさえ慕い寄るのですから」
車は大森駅の近くで東海道に出て、都心部に向けてひた走った。駅の近くには鮮やかな
レモン色をした檸檬屋の様式ビルがあった。
「東坊、君は満州国皇帝に会うためにわしをだしに使おうとしているようだが」
会えるかどうかは先方次第で、責任は持てない。蘇峰は目論見あって東條を突き放した。
「それは困ります。永田少将から託された皇帝陛下へのおみやげを持参していますので、
挨拶だけでもさせていただけなければ参謀本部に戻れません」
「ならば努力はしよう。そのかわり君にもわたしの役に立ってもらわねばならん」
「もちろんです。東坊は先生の下僕ですから、何でも申し付けて下さい」
「それならたずねるが、菊池武夫議員や井田磐楠議員の動きに陸軍は関与しているのかね」
菊池は陸軍軍人で貴族院議員をつといめているが、今年2月18日に開催された貴族院本会議において、
美濃部達吉(東京帝国大学名誉教授)の天皇機関説を国体に背く学説であると批判したのである。
2025年02月18日<ふたりの祖国 163 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 8>
東條は名前を出すことを慎重にさけたが、蘇峰は4月7日に赤坂離宮で満州国皇帝溥儀と昼食を
共にすることになっていた。
当日の午前10時、東條が参謀本部の専用車で迎えに来た。メンセデス・ベンツのニュルブルク460で、八気筒、4622CCの
エンジンを積み、時速100キロまで出せる、日本には10台ほどしかない高級車だった。
しかも前輪の上のホイールカバーには日章旗が立ててある。これはさすがにやり過ぎではないかと、蘇峰は東條の大げさな
出迎えに苦言を呈した。
「何をおっしゃいますか。先生は皇帝のご依頼で、満州国皇帝にご進講なされるのです。日の丸をかかげるのは当然では
ありませんか」
東條は詰襟に階級章をつけた真新しい軍服を着込んでいる。スーツ姿だと役所勤めの課長のようにしか見えないが、
軍服姿だとあたりを払う威厳があるから不思議だった。
「君は去年から、九州の久留米に赴任していたのではないのかね」
蘇峰は車の後部座席に東條と並んで乗り込んだ。
「歩兵第24旅団長を拝命しております」
「それなのに息子の結婚式に出席し、十日以上も東京にいる。軍務は大丈夫なのかね」
「久留米の旅団は我が国最強とうたわれている部隊です。鉄の規律を保っておりますので、
旅団長が留守にしても何の不都合もありません」
「分からないのは、なぜそこまでして今日の対談に同行したかということだ。そろそろ
本当の理由を話たまえ」
蘇峰が溥儀と対談することになったのは、内大臣の牧野伸顕の依頼による。年若い湾州皇帝に、
日満の歴史について進講してほしいと頼まれたのである。
東條はどこからかこれを聞きつけたらしく、お供をするので是非とも溥儀に引き合わせてほしいと
頼み込んだのだった。
「先生、申し訳ありません。永田少将のご指示もあり、軍事機密に属するのでお話しできないので
あります」
2025年02月17日<ふたりの祖国 162 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 7>
蘇峰はこのスピードにつづいて、式の終りの親族代表の挨拶もつとめ、武雄の結婚式は無事に
お開きとなった。そして会場の出口で、新郎新婦や新婦の両親と並んで列席者を見送った。
その列が終わったさしかかった頃、ベージュのスーツを着た東条英機が永田鉄山を連れて挨拶に来た。
「先生、今日は我々までお招きをいただきありがとうございました」
こちらが陸軍省軍務局長の永田少将だと、あたりをはばかる小声で紹介した。永田は面長の顔にロイド眼鏡を
かけ、髪を短く刈り込んだ小柄な男だった。
「先生のことは東条から折に触れて伺っております。本日はまことにおめでとうございます」
永田も紺色のスーツをスマートに着こなしている。駐スイス公使館付駐在武官をつとめていたので、服装の
センスも磨きかかったものだった。
「愚息の式にご苦労いただき、感謝申し上げます。永田少将は陸軍きっての知性派だと、各方面でうかがって
おります」
「先生のご偉業に比べれば、永田の知性などは猫の額ほどにすぎません。そこでひとつうかがいたいのですが」
「ほう、何でしょうか」
政治や軍事について問われるかと、蘇峰は内心身構えた。
「例の桃源郷の話です。先生のご家庭もそのようでしょうか」
「金婚式を迎える近頃になって、ようやくその境地に近づいてきたようです。その大半は家内の功績と
言うべきですが」
蘇峰は静子を前に押し出してそう言った。
「うらやましい限りです。奥さま、蘇峰先生は我が国の宝ですから、これからもしっかりとお支え下さい」
永田はにこりと笑って一礼すると、足早に立ち去っていった。
「先生、七日は山王草堂にお迎えに参ります。よろしくお願いします」
東条は声をひそめたまま言ったが、蘇峰は咄嗟には予定を思い出せなかった。
「ほら。赤坂離宮での例のお方との会食に、同行させていただく件ですよ」
2025年02月15日<ふたりの祖国 161 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 6>
あれから11年、武雄は立派な社会人になり、こうして家庭を持つまでに成長した。もはや父親として
思い残すことはなにもない。これからは言論人として、国家を正しく導くために力を尽くすばかりである。
それが幕末の文久3年(1863)に生まれ、明治という時代とともに生きたような陶酔にひたりながら、
そんなことを考えていた。
「あなた、司会の方がお呼びですよ」
静子が肩をゆすって蘇峰を現実に呼びもどした。司会者が「ここで新郎のご尊父であられる徳富蘇峰先生に」
と、名指しで挨拶を頼んでいるのだった。
蘇峰は落ち着き払ってマイクの前まで進み、「何だね。親戚代表としての挨拶ではないのかな」と司会者に
たずねた。
「申し訳ございません。ご列席の皆さまから、高名な徳富先生に今日の感想などを交えてスピーチしてほしいと
いうご要望がありましたので」
「それは困りましたな。ご覧のような年寄りですので、末子が華燭の宴を迎えた幸せと春の香りに酔って、
しばし桃源郷に遊んでおりました」
それを無慈悲にこの世に引き戻されたと肩をすくめて皆を笑わせ、ご列席の方々のお陰で今日の日を迎える
ことができたと礼を言った。
「桃源郷とは南朝宋の詩人であった陶淵明が、『桃梅源記』の中で詠った理想郷、ユートピアであります。
しかしここに入りたいという欲を持った者は、入ることは」できないと陶淵明は記しています。ただ己の魂と
無私無欲で向き合う者だけが、桃源郷に至ることができるのです」
これはある意味、夫婦の円満にもつながる言葉ではないだろうか。蘇峰はそう言って会場を見回し、列席者の
注意を引き付けた。
「つまり夫婦はお互いに我を張ってはならない。相手を意のままにしようとしてはならない。ただ無私無欲に
伴侶と向き合い、慈悲の心をもって接することで、家庭を桃源郷にすることができる。今日から家庭人となる
武雄と芳枝さんには、懐心よりこの言葉を贈りたいと思います」
2025年02月14日<ふたりの祖国 160 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 5>
自分は決していい父親ではなかった。蘇峰はそう思っている。仕事と研究。『近世日本国民氏』や『日日のだより』などの
執筆に追われ、家族とゆっくり過ごす時間もなかった。だが武雄とは一度だけ、二人で遠足に出かけたことがあった。
あれは関東大震災の半年後だから大正13年(1924)3月のことだ。水筒とパンと少しのチョコレートを持ち、鎌田から
電車に乗って大岡山で下車し、洗足池に行った。
洗足池の名は、日蓮聖人が湯治に向かう途中、この池に立ち寄って足を洗われた故事にちなんでいる。灌漑用水としても
使われている池の周りには、桜の並木が植えられていたが、開花にはまだ早かった。
それでも蕾を結び始めた桜には、春の気配と命の輝きが満ちている。それが青空を映した池の面の悠久のたたずまいと
相まって、あたりは神聖な気配に包まれていた。
蘇峰と武雄は池のほとりを歩いて一周し、勝海舟の墓に詣でた。側には西郷隆盛の詩碑と留魂祠がある。海舟が戦死した西郷を
悼んで建立したもので、2人は大政奉還の江戸城明け渡しの交渉を成功させ、江戸の町を戦火から救った間柄でもあった。
「わしは明治19年に上京して以来、勝先生の教えを受けた。若い頃には生活が苦しかったので、5年ほど先生宅に書生として
住み込み、先生の蔵書を片っ端から読みあさったものだ」
蘇峰は海舟の墓の前で武雄に語った。今日の遠足の目的のひとつは、青年期にさしかかった武雄に海舟を身近に感じてもらうこと
だった。
「このまわりの楓は、西郷隆盛公の詩碑を建立された時に勝先生が植樹されたものだ。その心を先生は次のように
詠じておられる」
植えおかばよしや人こそ問わずとも
秋の錦を織り出すらむ
蘇峰は歌を詠じながら、不覚にも涙声になった。海舟の西郷に対する思いの深さや、書生として教え受けた若い日々を思い出し、
胸が熱くなったのだ。
この時武雄が何と言ったか、蘇峰は覚えていない。ただ初めて男同士で向き合った手応えは、今も鮮明に胸に残っていた。
2025年02月13日<ふたりの祖国 159 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 4>
都内の某有名式場で、蘇峰の四男徳富武雄と新婦の芳枝の結婚式が行われていた。
武雄は蘇峰が47歳の時に生まれた子で、大学では考古学の研究に熱中していたが、卒業と同時に日本勧業銀行
に就職し、昭和恐慌以来の打撃に困窮している農山村の復興のための融資に当たっている。
入行3年目に同じ銀行に勤める芳枝と知り合い、一年の交際を経て結婚することになった。
武雄は26歳、芳枝はひとつ上の姉さん女房である。
新郎新婦の入場後、仲人が2人の経歴となれそめを紹介し、主賓である日本勧業銀行総裁の挨拶が
あった。それにつづいて岡田啓介首相の代理である松尾伝蔵秘書官が乾杯の発声をし、各テーブルごと
の会食となった。
列席した客は200人を超え、政官財界の有力者ばかりか、大本営からも東条英機、永田鉄山ら一夕会の
メンバーが、目立たねようにスーツ姿で出席していた。
蘇峰は静子夫人と並んで親族席に座り、祝福を受ける2人の様子を遠くから見守っていた。武雄は掌中の
玉のように大切に育ててきた。まして長男の太多雄と次男の萬熊をなくしてからは、武雄に対する期待は
ますます大きくなったが、こうして立派に成長し、蘇峰も目をみはるほど美しい令嬢を妻にしている。
それを見ると、幸せのあまり身も心も浮き立つようだ。
「静子、お前のお陰だよ。武雄を立派に育ててくれてありがとう」
蘇峰はついに涙声になり、両手をついて頭を下げた。
「いやですよ、お父さん。飲み過ぎたんじゃありませんか」
「そうかな。乾杯のシャンパンを半分ほど飲んだばかりだが」
「お顔が真っ赤ですよ。この後親族代表として挨拶していただくのですから、用心して下さいね」
静子は相変わらず手厳しい。だがこうした厳しさが武雄を一人前にしてくれたのだと思うと、
腹が立たないばかりか有難さが身に染みて、ついつい飲み馴れないグラスに手が伸びるのだった。
2025年02月11日<ふたりの祖国 157 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 2>
いったい何が彼らを誤らせ、日本を破局に導いたのか。愚輩はそのことを明らかにしたくて物語の筆を
執っているが、その真因を明らかにするのは容易なことではない。ただひとつだけ言えるのは、時代が
これほど過酷でなければ、誰もが普通の社会人として人生をまっとうしていたということだ。
それを許さない時代を招いた理由は二つある。ひとつは国際的、ひとつは国内的な問題である。
国際的な問題は、欧米列強による植民地を温存したままのブロック経済、ソ連をはじめとする共産主義
国家の大頭、言論の自由を認めない全体主義国家の登場などによって、平和主義、国際協調主義が
否定されたことだ。
日本も昭和8年(1933)の国際連盟からの脱退によって、満州国建国をめぐる国際紛争の平和的解決を
あきらめ、自国の利益と権益は自国で守る方針を取った訳だが、これが中国ばかりか英米までも敵にする
外交的失敗につながった。
国内的な問題について言えば、経済的な不況による農山村や下層民の困窮、重工業生産を支えるための
資源の不足、人口増加による働き口や食糧の不足、などが挙げられるが、
より根本的な原因は明治維新以来、日本が目ざした国家の在り方にあった。
今日でも明治維新礼賛論が優勢のようだが、これはそろそろ見直されなければならない過ちである。なぜなら
明治維新は光と同じ程度に影の要素を持った、功罪半ばする革命だからである。
何が影であり罪なのか。愚輩はこの物語の中で朝河貫一の分析の結果として次の3点を挙げた。
一、明治政府が作り上げた天皇中心の軍国主義体
一、維新の指導理念となった吉田松陰の海外進出政策。
一、薩長を中心とした幕藩中心の政治。
おそらく維新を成し遂げた指導者たちは、この方針が当面の危機を乗り切るための方便だと分かっていただろう。
ところが時代が下がり、明治の元勲の子どもや孫の代になると、大局的な判断ができずに教条主義的になり、
次第に硬直化していった。
2025年02月08日<ふたりの祖国 156 安部龍太郎 第七章 国家の岐路 1>
読者諸賢は十年前の自分を覚えておられるだろうか。古稀の方は還暦の頃を、還暦の方は
知命の年をふり返れば、十年という時の短さを痛感されるはずである。
そんな昔のことは覚えていないとおっしゃる方は、近くの公立図書館に行って新聞の縮刷版を
ご覧いただきたい。十年前の記事を見れば当時の世相とともに、自分がどんな生活をし、何を
考えていたかを思い出されるはずである。
そして時の流れの早さ、来し方行く末の頼りなさに思いを馳せるにつれて、人生とは
何だろうという疑問に直面されるのではあるまいか。
愚輩がなぜこのように申し上げるかというと、これから昭和十年から二十年までの徳富蘇峰と
朝河貫一の物語を書きたいからである。日本が軍国主義体制をととのえ、中国や米英との戦争に
突入し、昭和二十年敗戦を迎えるまでの十年を、蘇峰は日本、朝河はアメリカにおいて
経験した。
時代はあれよあれよという間に緊張の度合いを高め、昭和十二年に日中戦争、昭和十六年に
太平洋戦争に突入し、日本は昭和二十年に無条件降伏のやむなきに至った。
それがたった十年のことである。この間、蘇峰は日本の言論主導者として戦争に勝利する
ための提言をしつづけた。その主張を戦後の価値観から
裁断するなら、天皇絶対主義や八紘一宇をとなえて国家と国民を戦争へと駆り立てた過激な
国権論者だと評されるのもやむを得まい。
それは戦前の日本のすべての指導者、中でも軍部の首脳たちが受けなければならない批判で
あることは論を俟たない。だが、それは結果から見た後世の判断であり、それをもって激動の
渦中にあった者をすべて否定するのは、公平公正な態度とは言えまい。
もしまた世界が同じような混乱と対立の時代に突入したなら、我々は蘇峰や戦前の指導者の
ような誤ちを犯さないと言いきれるだろうか。
そのことを我が事として真摯に受け止めるなら、必要なのは彼らを裁断することではなく、
彼らの経験から学ぶことだとお分かりになるはずである。
2025年02月07日<ふたりの祖国 155 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 31>
これははたして本当なのか。本当だとしたらどうすればいいのか。朝河は悶々と悩み、食事も
喉を通らない日々を過ごしたが、9月1日になって思いがけない事件に巻き込まれた。
夕暮れ時に帰宅すると、家の前に、数台の車が止まり、玄関のドアのあたりに人だかりが
していた。そのうちの2人は制服制帽の警察官で、フラッシュ付きのカメラを構えた
新聞記者らしい男もいた。
「朝河です。いったい何があったんでしょうか」
人をかき分けて前に出た朝河は、玄関先で立ちすくんだ。
玄関のドアに釘が打ち付けられ、首を針金で縛られた鶏が吊り下げれていた。しかも腹が
切り裂かれ、血がしたたり落ちて土間を赤く染めている。白いドアには黒いペンキで
「Death by hanging」(縛り首だ)と大書してあった。
「朝河教授、州警察のものです。近所の方から通報があって駆け付けました」
警察官が事情を聞かせてほしいと歩み寄ってきた。
「犯人に心当たりはありますか」
「いいえ、まったく」
朝河は茫然としたまま答えた。
「以前に脅迫されたことは」
「ありません」
「犯人の目的は何だと思いますか」
「分かりません」
打ちのめされた朝河を鞭打つように、地元の新聞社の記者が質問をあびせた。
「我が社に犯人を名乗る男から電話がありました。先生のラジオ放送を聞いたが、
あのようなファシストは縛り首にするべきだと主張しています」
「誤解です。私は日本のファシストの論文を紹介しただけで・・・」
朝河が答えるいる間にも、フラッシュが顔に向けて容赦なくたかれる、その閃光に
目がくらむばかりか、足元から生臭い血のにおいが立ち昇ってくる。それに耐えながら
事情を説明しようとしているうちに、朝河の意識は次第に遠ざかっていった。警察官が
倒れそうな朝河を支え、「病院だ、急げ」と叫んでいあたことは覚えている。その先は
記憶がぷっつりと途切れたのだった。
2025年02月06日<ふたりの祖国 154 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 30>
ラッセル商会は会社を発展させるために、イェール大学の優秀な人材を採用したかったが、
阿片の取引をしていることをアメリカ社会に知られる訳にはおかなかった。
「そこでラッセルらは、毎年入学してくる学生の中から優秀な十数人をスカウトし、莫大な
奨学金を出してエリート教育をほどこし、忠誠心の強い人材を育て上げることにしたの」
「そうかも知れないけど、ラッセル商会はすでに力を失っているだろう」
「そうだけどS&Bが創設されて50年ちかくは、そうしたやり方がつづけられたわ。
それが今でも踏襲され、S&Bの出身者がアメリカの政、財、官界や軍隊において主要な地位を
占めている。彼らは今やS&Bを同志の家と称し、『死を誓い合った兄弟』を合言葉に固い結束を
保っているの。だから組織とメンバーを守るためなら、部外者は平気で犠牲にするわ」
だからフィッシャーがどんな約束をしたとしても、決して信用してならない。頼みを断りづらい
なら、明日からでも病気と称して長期休暇を取ったらどうか。
「私の叔母がボストンの病院に入院していると言ったでしょう。そこでそばらく静養すると
いいわ」
イナはあわただしくコーヒーを飲み干し、サングラスをして出ていった。
一人残った朝河は、中庭の様子をぼんやりとながめていた。テーブルのコーヒーはかぐわしい香りを
立てているが、心労のせいで胃が弱っているので手をつける気にはなれなかった。
朝河は石原莞爾らの『満蒙問題解決案』を読んで以来、彼らの計画を世に知らせるために、もう一度
ラジオ放送に出てもいいと考えていた。たとえそれがアメリカの反日世論を激化させることになっても、
このまま日本が石原らに牛耳られて日米戦争に突入するよましだと思ったのである。
ところがイナは、フィッシャーらがS&Bの総意にもとづいて朝河を利用し、やがてイェール大学から
放逐しようとしていると言う。
2025年02月05日<ふたりの祖国 153 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 29>
「彼らとはS&B,スカルアンドボーンスよ。私のフィアンセが、メンバーだと話したでしょう」
婚約者のギャリソンの家を訪ねた時、電話でラジオについては話したていたのを、
イナは偶然耳にしたのだった。
「待ってくれ、フィッシャーは確かにもう一度ラジオ放送させてくれと言ったが、講演を編集したり
選挙キャンペーンに利用しないと約束した」
それを破るはずがないと、朝河はフィッシャーへの信頼と自分のプライドをかけて信じたかった。
「ハムレット、これはアーヴィング・フィッシャー個人の問題ではなく、S&Bの方針なの。フーヴァーを
再選させ、今の体制を守るための戦略なのよ」
「そのためにフィッシャーが私を裏切ったというのか?」
「貫一、どうしてS&Bのような秘密結社が、イェール大学にあるのか知ってる?」
「百年ほど前にサミュエル・ラッセルが創設したとは聞いているが、理由は分からない。
私は部外者だからね」
朝河はいたたまれなくなって中庭に目をやった。美しく手入れされた芝生に置かれた四脚のテーブルで、
学生たちが熱心に何事かを話し込んでいた。
「サミュエル・ラッセルと従兄弟のウィリアム・ラッセルが創設したと言われているわ。彼らは1824年に
ラッセル商会という貿易会社を設立し、清国の上海を拠点としてアジア諸国との貿易を行っていた」
「ラッセル商会は日本の横浜にも拠点をおき、明治維新の頃には武器商人として大きな利益を
上げたはずだ」
「その頃アメリカでは南北問題が終り、大量の銃や弾薬が不要になった。それを日本に売り付け、幕府と倒幕
勢力の戦争をあおったと、ヘレンとオリーブが話していた」
イナは知識の出所を正直に打ち明けた。
「でもラッセル商会の主要な仕事は、トルコやインドで阿片を買い付けて清国に売りさばくことだったの。
それによって巨万の富を得た彼らは、1832年イェール大学にS&Bを創設して、ラッセル商会に必要な人材を
確保しようとしたの」
2025年02月04日<ふたりの祖国 152 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 28>
電話はイナ・パリッシュからだった。
「至急お目にかかってお伝えしたいことがあります。明日の午後、あのコーヒーショップで
合えないかしら」
「午後三時からなら空いているけど、急にどうしたの?」
「あなたの身に危険が迫っているの、詳しくは明日話すわ」
翌日、ブックセンターの隣のコーヒーショップに行くと、この間と同じ奥まった場所にある席に
イナが待っていた。まるでマスコミの目をさける映画女優のように帽子を目深にかぶり、茶色のサングラス
をかけていた。
「驚いたよ。私の身に危険が迫っているとは、おだやかじゃないな」
自分を呼び出すために大げさなことを言ったのだろうと、朝河は軽く考えていた。
「学問はあなたの命じゃないの」
「もちろん、その通りだ」
「研究に自由に打ち込めるのは、イェール大学に在籍しているからじゃなくて」
「ああ、そうだよ」
「だったらイェール大学にいられなくなることは、あなたにとって命を奪われるに等しいはずよ。
だから身に危険が迫っていると言ったの」
イナがサングラスを取り、青みがかった大きな目を向けた。
「どういうことだろう。大学にいられなくなるとは」
「あの忌まわしいラジオ放送のせいよ。フィッシャー教授に、もう一度ラジオ放送に出てくれと
頼まれなかった?」
「9月3日のゼミを収録して、放送させてくれと頼まれたよ」
「引き受けたら駄目よ、ハムレット。彼らはあなたの講演を利用してもう一度反日世論を激化させ、
大統領選挙を有利にしょうとしているの。しかしそんなことをすれば、イェール大学への批判も
激しくなるでしょう」
「・・・・・」
「そうなったら、あなたに責任を押しつけて休職か定職処分にするつもりよ」
「イナ、彼らとは誰のこと。君はどうしてそんなことを知っているの」
2025年02月03日<ふたりの祖国 151 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 27>
<好機再び来りて遂に満蒙領土論の実現する日あるべきを期するものなり>
これを読めば石原らが綿密な計画を立てて満州事変を起こし、満蒙の領土化を目ざしていた
ものの、政府や参謀本部(建川は参謀本部作戦部長)の反対によって、薄議を頭首にして独立国に
せざるを得なかったことがわかる。
日本政府は事変の翌日にはこうした報告を受け取っていながら、スティムソンの通告に対して
本質を隠蔽した回答をした。しかもこの文書を国務省が入手しているのだから、姑息なやり方は
アメリカ政府に筒抜けになっていたのである。
(いったい、どうやって)
関東軍の機密文書を手に入れたのか、ヘンリー・ナンブに確かめたいほどだが、冷静な諜報部員で
ある彼は「敵に手の内を知られる訳にはいきませんから」と言ってやんわりと断るだろう。
ともかく石原は土肥原や板垣、片倉という陸軍きっての有能な将校たちと手をむ組み、満州情勢を
激化させることで、政府や参謀本部を引きずり回し、国家そのものを改造しようとしている。
これが彼らの言う昭和維新のやり方で、それは明治維新の時に薩摩が薩英戦争を、長州が下関戦争を
起こして幕府を追い詰めていった手法ときわめて似ている。
この計画を達成するには、満州の領有化ばかりか満州国を独立国として承認することを拒否している
犬養毅首相を、何としてでも除かなければならない。
そこで石原らは大川周明に手を回し、陸海軍の青年将校や愛郷塾の農民塾生を動かして五・一五事件
を起こさせた。事件の一年後か始まった裁判では、彼らが国を憂えて決起した義士のような演出が
行われたが、事件の本質は犬養首相の暗殺にあったのである。
(このようなことを、許してはならぬ)
朝河は祖国の危機に鳥肌立つ思いがした。石原らの動きを阻止するには、本当の敵、日本を破壊に
導こうとしているのは誰かということを、世界に知らしめなければならない。そう考え始めた矢先に、
思いがけない電話があった。
2025年02月01日<ふたりの祖国 150 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 26>
朝河は石原の思想や方針、計画をもっと知りたいと思い、国務省のヘンリー・ナンブに電話をして、
関東軍の内部資料で石原莞爾に関するものを持っていないかとたずねた。
「一通だけあります。大学宛に郵送しますので極秘扱いにして下さい」
A級の機密扱いで送られてきたのは、『満蒙問題解決策案』だった。日付は昭和6年9月22日で、
関東軍が柳条湖事件を起こして満州の大半を占領下におさめた4日後だった。宛先は陸軍大臣と
参謀総長で、文書の前書きには[同日関東軍で宮家光治参謀長はじめ、土肥原賢二、板垣征四郎両大佐、
石原莞爾中佐、片倉哀大尉らの幕僚が鳩首協議の上作成したもの]というただし書きがついている。
第一、方針
我国の支持を受け東北四者および蒙古を領域とせる宣統帝(愛新覚羅溥儀)を頭首とする志那政権を
樹立し在満豪各民族の楽土たらしむ。
第二、要領
一、国防外交は新政権の委嘱により日本帝国において掌理し、内政その他に関して新政権みずから
統治す。
二、党首および我が帝国において国防外交等に要する経費は新政権において負担する。
三、地方治安維持に任ずるために概ね左の人員を起用して鎮宇使とす。
・・・・・
四、地方行政は省政府により新政権県長を任命して行う。
以上が本文だが、石原は後書きとして次のように注記している。
<本意見は9月19日の満豪占領意見(が)中央の顧るところとならず、かつ建川(美次)少将すら
全然不同意にて到底その行われざるを知り、万石の涙を呑んで満豪独立国案に後退し最後の陣地となし
たるものなるも、>
2025年01月31日<ふたりの祖国 149 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 25>
「君の放送が注目されるようになって以来、大学には抗議が殺到している。日本の軍国主義の
代弁者を、どうして大学の教授にしておくのか。そんな電話や投書がひっきりなしだ」
「それは君たちが、私をキャンペーンに利用した結果だ。それぐらいのことは当然予想して
いたと思うがね」
「予想を上回る事態で、大学では対応に苦慮している。だから君の真意を聴衆に聞いてもらう
ことで事態を鎮静化したいのだが」
「少し考えさせてくれ。たとえ引き受けるにしても、守ってほしい条件がある」
一つは前回のように講演の編集をしないこと。一つは共和党のキャンペーンに利用しないこと
だった。
「分った。約束する代わりに、事前に講演の内容を教えてほしい。大学の評価に関わることなので、
エンジェル学長も気をもんでいるだ」
フィッシャーが同意を求めて右手を差し出した。朝河は返答を保留しながらも握手に応じた。
次の講座の内容を考える上で、気になっているのは石原莞爾のことだった。『満州問題私見』を
取り上げたためにこんな問題が起こったにもかかわらず、朝河は石原に対して悪い感情を持っていな
かった。
それは戊辰戦争の敗北以来、東北地方の人々が持ちつづけている明治政府に対する怒りとも
怨念ともつなぬ感情を、石原も根底に持っていると感じるからだ。
石原は明治22年(1889)の生まれだから、朝河より17歳下である。山形県西田川郡鶴岡
(現鶴岡市)の出身なので庄内藩。徳川家の譜代で、朝河の父が属していた二本松藩とは近しい間柄
である。
戊辰戦争では列藩同盟の中心的存在となり、敗戦後に藩主酒井忠宝の移転の処罰が下されると、
家臣領民をあげて30万両を集め、明治政府に献金することで領内に呼びもどしている。
そうした君民一体、至誠純朴の藩風を受け継いでいることが、石原の文章から感じ取れるからだろう。
自分の信念とは相容れない人物なのに、親近感さえ覚えるのだった。
2025年01月30日<ふたりの祖国 148 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 24>
「あれも計略のうちじゃなかったのかね」
「誓って言うが、私は何も聞いていなかった。そこで昨夜のうちにスティムソンに電話をして
抗議したよ。すると彼はやむを得ない事情があると言うんだ」
「何だろう。その事情とは」
「フーヴァーの支持率が、想像以上に低いことだ。ルーズベルトの人気が凄まじく、大半の州で
劣勢に立たされている。そこで選挙対策本部では打開策をこうじる必要に迫られ、あのような
キャンペーンに打って出たという訳だ。スティムソンがそれを知らされたのは、放送の直前
だったらしい」
だからフィッシャーに知らせて了解を取ることができずに見切り発車となったのだが、
放送に対する聴衆の反応が素晴らしく良かった。そこでキャンペーンや選挙集会で
くり返し用いることにしたのだった。
「しかし君には大変な迷惑をかけた。このことについて、私もスティムソンも申し訳ないと
思っている。だから選挙が終わったなら、君の名誉と地位を守る措置をこうじるつもりだ」
「私個人の問題なら、我慢することもできる。だが私の講演が反日世論形成のために利用され、
日米戦争に備えた軍備拡張の論拠にされことにはたえられない。しかもそれを経済復興の
切り札とするのなら、日本と敵対する方針は変更できなくなる」
その結果、戦争を始めるために公然と日本への挑発が行われるだろう。こんな論理(ロジック)
を認めることは、朝河に断じてできなかった。
「オッケイ、寛一。君がそう言うならひとつ提案がある。9月のゼミで日本の現状と今後の
展望を語ってくれないか。それをもう一度ラジオで放送し、君の真意を全米に分かってもらえる
ようにしたい」
朝河はあまりに無理な申し出に二の句が継げず、白いひげをたくわえたフィッシャーの彫りの
深い顔をまじまじと見つめた。君は一度ならず二度までも、私を食い物にするのかと言いたかった。
「誤解してもらって」は困る。こんなことを頼むのは、イェール大学のためでもあるのだ」
「今度はエンジェル学長かね。君のエージェントは」
2025年01月29日<北斗七星>
「20年後に失望するのは、やったことよりもやらなかったことだ」とは、
米国の作家マーク・トウェインの言葉である。・・・・
2025年01月29日<ふたりの祖国 147 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 23>
共和党は気鋭の政治学者の主張を劣勢挽回の切り札とし、選挙キャンペーンや選挙集会で、
くり返し用いた。そのたびに朝河の講演が引き合いに出され、日本がアメリカとの戦争を計画
している証拠とされた。
イェール大学教授という立場がこの説の信憑性を保証していると受け取られたし、日本人である
ことが反日世論をかき立てる格好の材料になったのだった。
8月の下旬、朝河はフィッシャーに呼び出された。フィッシャーは出勤した直後で、スーツ姿で机に
向かっていた。
「おはよう、寛一。朝早くからすまない」
「私も君に話したいことがある。ちょうどいい機会だよ」
「ともかく腰を下ろしてくれ。君が何を言いたいかはよく分かっている」
フィッシャーが応接用のソファに案内し、コーヒーと紅茶のどちらにするかとたずねた。
「ミルクティーにしてくれ。最近ストレスで胃が荒れている」
朝河は事実を言ったのだが、フィッシャーは辛辣なジョークと受け取ったらしい。
「そのことについては申し訳ないと思っている。それを詫びるのが、来てもらった理由のひとつだ」
「何をどう詫びるのかね」
「半年前に君に特別ゼミを開いてほしいと頼んだのは、スティムソンの提案があったからなんだ。
その時彼は、日米関係の現状を分析するのに君ほどの適任者はいないと言った。私もそれに同意
したから説得役を引き受けたのだ」
「しかし国務長官の狙いは別にあった。それに君は気付かなかったと言いたいのか」
朝河は先回りして皮肉を針を刺した。
「気付かなかったといえば嘘になる。何しろ11月に大統領選挙があるのだから、スティムソンも
そのことに無関心ではいられないからね。ただ、今度のように露骨なことをするとは思っていなかった」
「私のラジオ放送が共和党のキャンペーンに利用された。仕組んだのは君だろう」
「君がそう思うのは無理もないし、私に責任があることは言うまでも無い。しかし、私も再放送の後で
流されたコーネル野郎の解説を聞いて驚いたよ」
2025年01月28日<ふたりの祖国 146 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 22>
コネール大学教授という政治学者は「朝河教授の講演と日本の方針」というテーマをかかげ、
「朝河教授が紹介したレポートが、日本政府と軍部の狙いを明確に表している」と決めつけた。
「それゆえ皆さん、スティムソン国務長官は日本のこうした恥ずべき野望を阻止するために、
日本に対してパリ不戦条約に反するいかなる状況、条約、合意も承諾するつもりはないと通告した
のです。これが我が国が長年堅持してきたモンロー主義に反するという批判もありましたが、
それを変更してでも対処しなければならない凶悪の国に日本はなりつつあるyのです」
政治学者はそこでしばらく間をおき、万一戦争になった場合に備えて太平洋艦隊を編成し
直す必要があると言った。
「十年前に結ばれたワシントン海軍軍縮協約において、日本の軍艦保有数は米国の6割と
定められました。しかし日本がこうした無法の国になったからには、これに反して新艦の
建造を行なっているにちがいありません。我が国はこれに対抗するために、太平洋艦隊の編成に
必要な艦船の建造を5年の間に成し遂げます。そうすれば国内の重工業生産は復興し、他の分野の
生産にも波及して景気回復を実現できるのです」
これがルーズベルトがとなえる国内での公共投資よりもはるかに堅実な政策であり、
アメリカの繫栄と新時代に即した国防の強化につながるものだ。気鋭の政治学者は
自信たっぷりの口調でまくし立て、「星条旗よ永遠なれ」の演奏に送られ退場したのだった。
(やはり、そういうことか)
朝河はベッドに腰を下ろしたまま失望の溜息をついた。
フィッシャーが朝河の講演に手を加えてラジオで流したのは、反日世論をきっかけにして
軍事費の拡大を訴え、産業界や選挙民の支持を得るためだったのである。
朝河もそうした懸念を抱いていたが、スティムソンや大学上層部の意向に背くのは得策では
ないと判断して引き受けた。その保身的な妥協が、これから自分を抜きさしならない立場に
追い込むだろう。
その不吉な予感は、哀しいことに数日後には現実になった。
2025年01月27日<ふたりの祖国 145 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 21>
昨日の朝、ラジオ放送を聞いた後で電話したが、フィッシャーは居留守を使って出ようと
しなかった。あれがすべてを物語っているではないか。
そう言いたかったが、フィッシャーや大学の上層部に対する何重もの
配慮が朝河にそれを許さなかった。
「寛一、本質的な話をしよう。君は石原ペーパーに記された方針は間違っているし、
大きな危険をはらんでいると考えている。そうだろう」
「もちろんそうだ。だから先日の講座で取り上げることにした」
「それはアメリカ国民に、日本が危険な方向に進んでいると警告したかったから
じゃないのかね。その役割をあの放送は見事にはたした。君を傷付けるような形で
編集されたことは申し訳ないと思うが、ラジオでより多くの人々の関心を引き付けるには、
あのようなエンターテインメントの手法を用いるしかないんだよ。お陰で大きな
反響があり、スティムソンも君に感謝している。
昨日わざわざ電話をくれて、大学でもしかるべき処遇をするようにエンジェル学長に
申し入れると言っていた」
フィッシャーは一方的に強弁すると、腕時計を見て立ち上がった。これから用事があるので
退出してくれという意味だった。
その夜、朝河は午後9時からの再放送を聞いてみた。こんな風に扱われていると分かっていた
ためか、昨日ほど衝撃を受けなかった。もし一般の聴衆なら、受けを狙って過剰な演出をした
他の番組とさして変わらないと聞き流したかもしれない。
それに番組の最後には、アナウンサーと知性派と評判の女優が、「この放送は日本の陸軍参謀が
記した『満州問題私見』というレポートについて論じた朝河教授の講演を、リスナーの皆さんに
分かり易いように編集したものです」というコメントも入れていた。
フィッシャーが言ったことは嘘ではなかったのである。もしかしたら自分は世論の反発を気にする
あまり、神経質になりすぎていたかもしれない。朝河はそんな反省心にとらわれたが、楽観的な
希望はすぐに打ち砕かれた。
番組の後で、共和党の論客という気鋭の政治学者が登場したのである。
2025年01月25日<ふたりの祖国 144 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 20>
「そうだよ。君がラジオの収録を入れたいと言った時、私は講演の真意が伝わらないからと
言って反対した。しかし君が迷惑はかけないと保証したから、仕方なく承諾した。
このことに間違いはあるまい」
朝河は順を追って冷静に真偽を質すことにした。
「間違いない。君の言う通りだ」
「それなのに石原ペーパーを、まるで私の意見のように編集してあった。あれでは私を
断頭台に送るようなものじゃないか」
「誤解だよ。寛一。放送を最後まで聞いてくれたかね」
「途中で切ったよ。聞くに堪えなくて」
「だからそんな風に思ったのだろうが、番組の最後にちゃんと釈明を入れさせたよ。
これは石原ペーパーについての君の講演を、多くの聴衆に分かりやすいように編集
したものであると」
「それは聞いてはいないが、私があれほど片寄った主張をしていると印象付けた後で
は、釈明など何の役にも立たないだろう」
「君の不満や怒りは分からないでもないが、私も君の立場を守るために精一杯の
努力をしたのだ。今日の夜9時から再放送があるら、最後まで聴いてくれたまえ」
「フィッシャー、君はそのたくましい腕で私を殴り付け、君の痛みを分からないでも
ないと言っている。そんな言葉が殴られた者の慰めになると思うかね」
感情を抑えて冷静に話そうとすればするほど、朝河の胃は引きつるように痛んだ。
「前にも話したが、私は君の立場を守ろうと努力している。殴ったなどという比喩を
用いられては、当惑するばかりだよ」
「まるでアドルフ・ヒトラーの演説のように加工されたあの放送が、私の良心と自尊心
をどれほど傷付けたか考えてほしい。しかも君はこうなることを予見しながら、
ラジオの収録を強引に承知させたのではないのかね」
「私がスティムソンの求めに応じるために、長年の友人である君を犠牲にした。
そう言いたいのか」
「君の心の内は分からないが、結果としてそうなっている。私はそう言いたいのだ」
2025年01月24日<ふたりの祖国 143 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 19>
朝河は悪夢から覚めた思いで7階建ての図書館を見上げた。教会の塔を思わせるバロック様式で、
石造りの壁にアーチ型の入口と縦長のガラス窓を配した重厚なデザインである。この巨大な
図書館を配した重厚なデザインである。この巨大な図書館の三階にある研究室こそ、自分の砦であり
拠って立つ場所だと、朝河は大理石を積み上げた階段を踏みしめながら登った。
そうした研究室のドアの前に立ち、鍵を取り出そうと上着のポケットをさぐった。右にも左にも
入っていない。あわててズボンのぽポケットも確かめてみたが、指先は空をつかむばかりである。
どうやら鍵を置いたまま家を出てきたらしい。そのことが朝河をさらなる失望と無力感に突き落と
した。
イェール大学に四半世紀も勤めているのに、鍵がないだけでこの有様である。それは大学の
上層部や秘密結社の意向ひとつで職を失う自分の立場を、残酷なほど的確に表しているように
思えた。
(何が真理と正義だ。何が光と真実だ)
朝河は憤懣やるかたない思いで立ちつくし、肩を落として帰路についた。
人は誰でも一度や二度は人生に絶望することがある。朝河のように人並はずれた才能と実績を
持った学者でも、愚輩のような取るに足らない凡人でも、それは同じと言うべきだろう。
だがこうして彼岸の住人になってみると、ひときわ懐かしく思い出されるのは、絶望に打ちの
めされ、溺れかけて淵から命からがらはい上がった経験なのである。
そんな辛いことは御免被るという方もおられようが、苦しみこそが人生とは何かを教えて
くれる恩師である。絶望に突き落とされた時が、新たに悟りに向かう最大の契機なのだ。
それゆえ朝河寛一にも何とかこの境地を乗り切り、不死鳥のように空高く舞い上がってもらいたい。
そう願いながら話を進めることにしよう。
翌8月8日の月曜日、朝河はアーヴィング・フィッシャーの出勤を待って部屋に押しかけた。
「おはよう、フィッシャー。今日は君と膝を交えて話したいことがある」
「おだやかならざる権幕だが、昨日のラジオ放送のことかね」
2025年01月23日<ふたりの祖国 142 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 18>
若い女性は受話器をおき、奥に向かって走っていった。どうやらメイドらしい。やがてフィッシャーjに
向かって呼びかける声がしたが、「留守だと言いなさい」という冷たい声が返ってきた。
「もしもし、ただ今先生は外出しておられます」
ぎこちなく嘘をつくメイドに向かって、朝河は何も言わなかった。無理押ししても彼女を困らせるだけである。
平気で居留守を使うことが、フィッシャーの真意をはっきり表していた。
朝河はベットの縁に腰を下ろし、頭を抱えてうずくまった。フィッシャーとの思い出が切れ切れに
頭に浮かび、怒りと悲しみが喉元まで突き上げてくる。
部屋にいると絶望に押し潰されそうで、よろめきながら表に出た。ブナの原生林を抜ける道をどこも
しらず歩いているうちに、いつしか丘の頂まで来ていた。
このまま丘を下っていけば、ウィンチェスター社のの鉄骨造りの巨大な工場がある。同社のライフル銃は
レバーアクション方式を用いることで連発が可能になり、「西部を征服した銃」と呼ばれている。
第一次世界大戦中はヨーロッパに輸出して大きな利益をあげ、今また満州事変、上海事変の
影響で需要が高まり、中国を中心として東アジアに輸出を伸ばしている。
全米ライフル協会(NRA)の主要なメンバーで、共和党の有力な支援者である。同社からの献金は
共和党の活動資金や選挙資金になるのだから、フーヴァーやスティムソンが対日強硬政策をとるのは、
ウィンチェスター社の意向に添ってのことだと言ってもあながち間違いではなかった。
朝河はライフル銃を頭に突き付けられた気がしてぴたりと足を止めた。頭上ではブナの葉が風に
吹かれてさわさわと揺れている。ウィンチェスター社の工場は見えないが、火薬と血の臭いが
ただよって来るようで、きびすを返して来た道を引き返した。
マンスフィールド通り墓地の横を抜けてイェール大学に足を踏み入れた。20年以上通いなれた道を
体が覚えていて、無意識に足を向けさせたらしい。
大学図書館の入り口に立ち、朝河ははっと我に返った。
2025年01月22日<ふたりの祖国 141 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 17>
「次に申し上げたいのは、この問題をどのような手段によって解決するかですが、満蒙を日本の
領土だと肝に銘じ、領土化できる実力を有することが必要です。これは日本国民に与えられた
使命ですが、日本の行動は欧米人の嫉妬を招き、アメリカが武力を用いて反対するかもしれない。
つまり満蒙問題は対中国ではなく対アメリカ問題であり、この敵を撃破する覚悟なくしてこの
問題を解決することはできません」
刺激的に加工された朝河の声は、ドイツ民族主至上主義をとなえるアドルフ・ヒトラーのようだった。
「この講座のタイトルは『日米融和をめざして』だったのではないですか」
知性派の女優が皮肉まじりにたずねた。
「そのように聞いていますが、どうしたんでしょうね」
「もしかして決勝戦に日本が勝って、アメリカを従属させる。それを融和と呼んでいるのでは
ありませんか」
「朝河教授は比較法制史の専門家ですから、日本が勝てば日本流の法制度をアメリカに施行して、
両国を統一しようと考えているのかもしれません」
「刀を腰にさして駕籠に乗って暮らすんですか。天皇の命令は絶対だと強制されて」
「そうなるかもしれませんね。日本が占領地でどんなひどいことをしているかは、満州や上海での
行動を見れば明らかですから」
これはもうあまりにも酷い。朝河は聞くに堪えなくなり、ラジオのスイッチを乱暴に切った。
いったいこれはどうしたこよだろう。フィッシャーは君に迷惑をかけないと約束したではないか。
そんな疑問と怒りがわき上がり、初めから罠にはめるつもりで仕組んだのではないかという
疑念に変わっていった。
(そんな・・・・。そんなことが許されてなるものか)
朝河は鳥肌立つ思いでフィッシャーに電話をした。すると長い間待たされた後で、年若い
女性が対応に出た。
「イェール大学の朝河だが、フィッシャー教授につないでくれ」
「しばらくお待ち下さい」
2025年01月21日<ふたりの祖国 140 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 16>
放送の開始を告げる華やかな音楽の後に、アナウンサーがニュースを伝えた。トップは
大統領選挙の動向で、次は政府の金融政策、三番目は満州事変をめぐるリットン調査団の動向と、
日本政府が満州国を承認する方針を固めているということだった。
どうやら講演はニュースにしないらしい。ほっと胸をなで下ろしていると、8時半から
特別番組を放送するというアナウンスが流れた。タイトルは「イェール大学朝河教授、日本の
方針を語る」で、アナウンサーと知性派と評判の女優が担当していた。
まず石原莞爾の『満蒙問題私見』の第一項について語ったところが流れたが、それは
朝河にも自分の声と分からないほど加工されていた。声の調子に強弱をつけ、間合いを
入れてラジオ局が強調したいところが刺激的に伝わるように編集されていた。
「第一次世界大戦の世界の統制は、西洋の代表たる米国と東洋の選手たる日本の間の
争覇戦によって決定されるでしょう。その戦いにそなえるためにも、日本の勢力圏を
すみやかに所要の範囲に拡張する必要があるのです」
朝河は石原ペーパーを引用しながら批判的に語ったが、放送ではあたかも朝河が
そう主張していると聞こえるようにしてあった。これを聞いた知性派女優がいくつか
質問し、アナウンサーが答える趣向である。
「朝河教授は比較法制史の世界的権威だと聞いていましたが、こんな主張をされるとは
驚きですね。わが国と日本が世界の覇権を争うなんて、オリンピックゲームと勘違いなさって
いるんじゃないでしょうか」
「そうですね。こんな発想や野心が日本にあるとは意外でした」
「その戦いのために日本の勢力圏を拡張する必要があるとは、東アジアにおいて植民地を
拡大するということでしょう。満州事変や上海事変はそのために起こしたと、認めているじゃ
ありませんか」
「そうなんです。その方針について朝河教授はさらに詳しく語っていますので聞いてみましょう」
アナウンサーはそう言って朝河の録音に切り替えた。
2025年01月20日<ふたりの祖国 139 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 15>
「何だろうか。別のこととは」
「講演の間、先生がずっと悲しそうにしておられたことです。お話からも・・・」
ヘレンはそう言いかけて口ごもった。
「遠慮は無用だ。思ったことがあれば率直に言ってほしい」
「失礼ですが、お話からいつもの信念と愛情が感じられませんでした。何か特別な
ことがあったのでしょうか」
「別に変わったことはない。私も石原ペーパーには憤りを感じている。そうした反感が
無意識に表に出たのだろう」
「そうですか。母にもそう伝えておきますが、くれぐれも無理をしないでくださいね」
ヘレンは慈愛に満ちた目を向けると、オリーブをうながして部屋を出ていった。
翌日の日曜日、朝河はいつものように午前6時に目を覚ました。体は疲れきっているのに
神経は張り詰めていて、寝過ごさないように監視の目を体中に張りめぐらしていた。
朝河はベットから下りて椅子に座った。頭にはまだ眠りの薄膜がかっているが、
こうしていると次第に思考の焦点が合ってくる。その間は仕事が手につかないので、
昨日の講座に使った石原ペーパーを何となくめくり返した。
石原の私見には『陸軍当面の急務』と題した第5項があり、次の3点が挙げられている。
一、満蒙問題の解決とは、我が領土となすことだという確信を徹底すること。
一、戦争計画は政府と軍部が協力して策定すべきだが、一日も無駄にはできないので、
軍部が率先してこれに当たり成案を得ること。
一、中心力の形成。これは皇族殿下の御力を仰がなければ至難である。
朝河は講演ではこの項目に触れなかった。時間が足りなかったこともあるが、会場が
冷え切っていたのでこの項に触れると反発が大きくなると危惧したのだった。
昨日は地元のラジオ局が収録に来ていたが、いったいどんな風に放送するのだろう。
そのことが気になり、午前8時から放送される「グットモーニング・ニューヘイヴン」に
周波数を合わせた。
2025年01月18日<ふたりの祖国 138 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 14>
朝河は椅子に深々と腰をおろし、後ろにもたれて目をつむった。そうすると胃の痛みが少しは
楽になる。だが動揺と後悔に波立った胸は鎮まりそうもなかった。
こんな時、父ならどうしただろう。戊辰戦争で薩長を敵として戦いながら、彼らが作った維新政府には
従わざるを得なかった父正澄は、どんな信念をもって己を律していたのか。ふいにそんなことが思われた。
その時、遠慮がちなノックの音がした。ヘレンとオリーブが、薄いシャツにスラックスという姿で訪ねて
きた。
「先生、お疲れさまでした。お体の具合が悪いのではありませんか」
ヘレンが明るい瞳を向けて気遣った。
「ありがとう。少し疲れただけだよ」
「母が心配して様子を見てきてほしいと言うので、お忙しい時にお邪魔しました。すみません」
「君たちが来ていることは壇上からも分かったよ。今までとちがう論調になったが、どんな風に受け取った
か聞かせてもらえないか」
朝河はそう頼んだが、ヘレンは返事をできずにオリーブを見やった。
オリーブはチアリーダーとして運動部の応援に駆け回っていて、ゴーギャンが描いたタヒチの娘の
ように日焼けしていた。
「先生のお話をうかがって、私は陸軍情報部に就職するという決意を固くしました」
「ほう、どうしてだろうか」
「ご紹介いただいた石原ペーパーには、満州事変の計画のすべてが記されています。それがこの紛争の
核心であり、核心を知らなければ日本の次の動きを予測することはできません。敵方の核心に触れる情報を
得ることは、時には十万の軍隊の働きに勝ります。その情報を集め、分析し、我が国の勝利につながる
働きをしたいのです」
「相変わらず勇ましいね。オリーブはきっと世界を股にかけて活躍するようになるだろう。そう思わないか。
ヘレン」
朝河は愛弟子のヘレンに話を向けた。
「オリーブならどの国に行ってもいきていけると思います。でも私は陸軍情報部には関心がありませんので、
別のことを思いながら先生のご講演を拝聴していました」
2025年01月17日<ふたりの祖国 137 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 13>
第四項は『解決の動機』です。この点については石原は、日本政府が満蒙問題の真価を正当に
判断し、その解決が正義であって、我が国の義務であることを信じて戦争計画を確定することが
重要で、その他の動機は問うところにあらずと記しています」
朝河はもう一度『満蒙問題私見』を高くかざし、今日はこのペーパーに従って話していることを
強調した。
これにつづいて石原は、「然れども国家の状況これを望み難き場合には」と断り、軍部が主導して
国家を強引することは困難ではないと述べている。
「国家を強引するとは、無理に引きずって自分たちの方針に従わせるという意味です。しかもその機会を
謀略によって作ると明記しています。これはまさに柳条湖での鉄道爆破によって満州事変を引き起こし、
錦州占領、上海事変と紛争を拡大して、日本を戦争に引きずり込んだ関東軍のやり方を予見したものです。
そして5月15日に犬養毅首相が暗殺されたことによって、この方針を阻止しようとする勢力は壊滅的な
打撃を受けました」
だからこの先、日本は関東軍やこれと結んだ軍部の中枢によって支配され、石原の方針通りに突き進んで
いく恐れがある。アメリカがこれを阻止するのは、世界の平和を保つばかりでなく、軍部の独裁から日本
国民を守るためにも重要である。
朝河はそう断言して話を終えた。これに加えて、「だからスティムソン国務長官が日本に対して激しい
通告を突き付けたのは、日本国民にとって感謝すべきことだ」と言おうかと思ったが、そこまで追従する
ことはできなかった。
失策を挽回しようという朝河の懸命の努力にも関わらず、会場の空気は冷えきったままだった。いつしか
セミの鳴き声さえ消えている。こんな時にマスコミからインタビューを受けては、失策を重ねることに
なりかねないので、急いで図書館三階の研究室に逃げ帰った。
心も体も疲れ切っている。ストレスが高じて、胃のあたりにヒリヒリと焼けるような痛みが走った。
2025年01月16日<ふたりの祖国 136 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 12>
会場は一瞬静まり返り、やがてざわめき始めた。アメリカを敵として撃破すると言ったのだから、
聴衆が懸念や怒りを抱くのはやむを得ないことだった。
「これはそうした行動を取るということではなく、そうした心構えをしておく必要があるという意味
です。また、私が皆さんに石原の私見を紹介しているのは、関東軍の行動の根底にある考えを知って
いただきたいからで、日本政府や日本国民がこのような考えを持っているわけではありません」
朝河は脇の下に汗がにじむのを感じながら弁明したが、いつまでも鎮まらない場内の空気が、失策を
挽回できそうもないことを示していた。
「私も満州事変以後の日本軍の行動に深刻な懸念を持っており、日本政府の要人に方針を改めるように
求める書簡を何度も送っています。またこの講座も日米融和を目的としていることを強調して、
話をつづけさせていただきます」
第三項は『解決の時期』だった。日本の改造は国内から着手するべきだという意見も多いが、
国内にはいろんな考えの者たちがいて、戦争に向けた挙国一致の体制を築くことは難しい。
しかし関東軍が戦争計画を確立し、資本家たちにこれで勝利できると信じさせることができた
なら、日本政府を動かして積極的な方針を取らせることも不可能ではない。それに緒戦に勝利し
たなら庶民は歓びに沸き、一致団結して軍部を支持することは歴史の示すところである。
「それに戦争によっのて経済的な苦境におちいった時は、戒厳令を発動して有無を言わさず、
改革を断行すれば、平時におけるよりはるかに効率良く国家改造ができる。石原はそう
述べています」
実際、石原はそのことについて、「我が国情はむしろ速に国家を駆りて対外発展に突進せしめ、
途中状況により国内の改造を断行するを適当とする」と記している。朝河が洞察したように、
石原らは満州事変や上海事変などを、日本政府を動かして国家改造を成し遂げるきっかけに
しようとしていた。犬養毅首相はこれを阻止しようとしたために、大川周明が用意した銃弾で
射殺されたのだった。
2025年01月15日<ふたりの祖国 135 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 11>
「『満蒙問題私見』の項目は5つ。その第一項は『満蒙の価値』で、政治的と経済的の分野に
分かれています」
まず政治的価の値前提として、石原は世界の大局をどう見るかという問題を提示している。
第一次世界大戦後の世界の統制は、「西洋の代表たる米国と、東洋の選手たる日本の間の
争覇戦に依り決定されるべし」と言い、その戦いにそなえるためにも「速に我が勢力圏を所用の範囲に
拡張するを要す」と主張する。満蒙はその足掛かりとなる所で、ここを日本の勢力下に置けばソ連の
東進を防ぐことができ、防衛力の負担が軽くなって、中国本土や東南アジアに進出することが可能に
なる。
次に経済的価値における農産物によって日本の食料問題を解決できること。
一、満蒙における農産物によって日本の食料問題を解決できること。
一、鞍山の鉄、撫順の石炭などによって、日本の重工業の基礎を確立できること。
一、満蒙における各種企業は、日本の失業者を救い不況を打開する力となることだ。
「第二項の『満蒙問題の解決』では、どのような目的と手段によってこの問題を解決するかを
述べています」
その要点は満蒙を日本の領土とすると肝に命じ銘ずることである。そのためには正義の策を実行すると
いう気概と、領有化できる実力を有することが必要だという。
また在満三千万民衆の共同の敵である軍閥官僚(張学良一派など)を打倒するのは、日本国民に
与えられた使命であり、満蒙の安定統治は、中国における欧米諸国の経済発展のためにも歓迎されるだろう。
「そう述べる一方で、石原はあ次のような懸念も持っています。日本のこのような行動は欧米人の嫉妬を招き、
状況によってはアメリカ、あるいはイギリス、ソ連が武力を用いて反対するかもしれない。つまり満蒙問題は
対中国ではなく対アメリカ問題であり、この敵を撃破する覚悟なくしてこの問題を解決しようとするのは、
木に登って魚を探そうとするようなものだ」
朝河は内心ひやりとしながらも言い切った。『私見』にそう書いてあるし、スティムソンの要望に応じ
なければという義務感もあった。
2025年01月14日<ふたりの祖国 134 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 10>
8月6日土曜日の午後1時から、イェ―ル大学の講堂で朝河寛一のゼミが開かれた。第6回の演題は
『関東軍の日本改造計画』で、300人ほどの聴衆が集まっていた。その中にはイナとヘレン、オリーブの姿もある。
イナはギャリソン氏との婚約を承諾したものの、挙式や入籍には至っていなかった。
今回は今までとちがってラジオ局の収録チームが入っていた。朝河はどんな風に録音を使われるか分からないので
拒否してほしいと言ったが、アーヴィング・フィッシャーが悪用はさせないと誓約して押し切った。
演壇に上がりマイクの前に立った朝河は、ゆっくりと講堂を見渡した。夏の盛りで場内は蒸し暑いので、ドアも
窓も開け放っている。窓からは明るい光が差し込み、セミの声が聞こえていた。
「君に日本擁護論を展開してもらい、反日世論に火をつけたい」
フィッシャーの言葉が朝河に重くのしかかっている。いつも以上に緊張し、ラジオのマイクが尖った凶器のように
感じられた。
「皆さん、こんにちは。これから日本が起こし満州事変の歴史的背景について分析を進めていきますが、この事件には
きわめて特殊な要因があります。それは満州に駐留する関東軍が、日本政府の許可なく軍事行動を起こしたことです」
しかしそれは最前線での偶発的な衝突がきっかけでなく、関東軍の指導者たちが日本そのものを改造しようとして
決起したものだ。朝河がそう語ると、会場は水を打ったように静まり、セミの声だけが大きく聞こえた。幸い窓から
そよ風が吹き込むようになっていたが、演台の周りだけは蒸し暑さがこもっていた。
「この計画を立案したのは石原莞爾関東軍参謀ですが、彼がどのような計略と方針のもとで計画を立てたのか、これまで
分かりませんでした。ところが先日、彼が書いた『満州問題私見』という内部資料が日本から匿名で送られてきました。
今日はこのペーパーをもとに、彼の構想を紹介します」
朝河はヘンリーとの約束通り出所を伏せ件の資料をかかげて聴衆に示した。
2025年01月13日<ふたりの祖国 133 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 9>
「構わないよ。どんな話でも」
「さきほど南部忠平がオリンピックの三段跳びで金メダルを取りました。日本人が陸上競技で世界一になったのです」
「一族は明治維新で故地を追われ、北海道に入植しました。親戚かどうか分かりませんが、
その時に入植した一族だと思います」
「ん?ちょっと待てよ」
朝河は南部忠平の写真が載った日本の新聞を探し出した。ヘンリーに似ているかと思ったが、
面長のおおらかな顔立ちをしていた。
「南部選手は昨年、走幅跳で7メートル98センチの世界新記録を出しました。オリンピックでは
記録が伸びずに銅メダルに終わったのですが、三段飛びで挽回してくれました」
「フィッシャーも注目選手だと言っていた。もう一人、西田選手もいたようだが」
「棒高跳びで銀メダルをとりました。4メートル30センチを跳びましたが、アメリカの
ウィリアム・ミラーに1センチ5ミリ及びませんでした」
「日本人が健闘してくれるのは嬉しいね。まして一族の方となればなおさらだ」
「ありがとうございます。先生に聞いていただいて良かったです」
この嬉しさは祖国の方と分かち合いたかったと言いながら、ヘンリーはアタッシュケースから
一通の書状を取り出した。
「これは石原莞爾が記した『満蒙問題私見』です。入手経路や時期は明かせませんが、
お求めの資料に合致すると思います」
「ありがとう。拝見させてもらうよ」
朝河は日本語のタイプライターで打たれた資料に目を通し、頭を痛打されたような衝撃と不思議な
感動を覚えた。衝撃はここまで過激なことを考えていたかという驚き。感動したのは朝河が分析した
通りのことを石原が書いているからだ。
「この資料はゼミで公開していいだろうか」
「構いません。ただし、朝河先生が個人的なルートで入手したことにして下さい。我々がこれを持っていることを、
まだ敵に知られたくありませんので」
2025年01月11日<ふたりの祖国 132 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 8>
日本の新聞は5・15事件と関東軍のつながりにほとんど触れていないが、青年将校らに銃5丁と
実弾150発、活動資金3500円(約990万円)を提供したのは大川周明である。
大川が石原や板垣らと行動を共にしているのは周知のことだから、5・15事件は関東軍が青年将校らを
使嗾して犬養毅を暗殺させたとみるべきだ。朝河はそう分析していた。
それにしても驚いたのは、内大臣の牧野伸顕までが襲撃されたことだ。朝河は去る2月に大久保利武に
当てた手紙を、牧野に回覧してくれるように頼んだ。牧野なら軍部の暴走を危ぶむ自分の意見を、
政府や皇室の要人に伝えてくれると思ったからだが、そのことが襲撃の理由にされたのではないかと
案じられた。
2時間ばかりの思索の末に、朝河は満州事変を関東軍による国家改造計画の第一段階として語ることにした。
講座の要点は以下の通りである。
1,関東軍の日本改造計画
2,関東軍を生んだ歴史的背景
3,柳条湖事件以後の計画の進行
4,日本改造と日米関係の行方
これはスティムソンが求めている、日本擁護によって反日世論に火をつけられる内容ではない。
だが関東軍の本質を明らかにすることで、事変以後の満州の占領が日本政府の説明とはまったく
違う理由で起こったことを立証できるのだから、役目を果たしたと言えるはずだった。
翌日、朝河は国務省のヘンリー・ナンプに電話して、石原や板垣の日本改造計画と関東軍の
軍事行動が関連していることをうかがわせる情報はないかとたずねた。
「心当たりがありませんが、現地のエージェントとも連絡を取って対応します」
ヘンリーは8月4日の午後に午後に訪ねて来た。いつものように引き締った厳しい顔立ちを
しているが、今日は何やら嬉しそうだった。
「目出たいことでもあったようだね」
そう気楽にたずねるほど、朝河はヘンリーと親しくなっていた。
「個人的なことですが、お話ししても構いませんか」
2025年01月10日<ふたりの祖国 131 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 7>
関東軍の石原莞爾や板垣征四郎らがこうした決断をしたのは、このままでは満州を中国やソビエト連邦に
奪われてしまうという危機感があったからだ。それと同時に世界大恐慌に苦しむ東北地方の農民への日本政府の
無策、政党や財閥の腐敗に対する怒りが、関東軍の力をもって国家の改造を断行するしかないいう覚悟を
うながした。
(彼らが大胆な行動に出たのは、戊辰戦争で賊軍とされた奥州の出身だからである)
朝河はそう考えていた。不条理な戦争によって屈服させられ、薩長などの藩閥が牛じる軍隊の中で
差別されてきた奥州人の怒りが、どんな手段を用いても昭和維新を断行すると彼らに決断させたのである。
朝河も奥州二本松の出身なので、そうした情念はよく分かる。父正澄は戊辰戦争をかろうじて生き延び、
立小山小学校の校長職を得たが、戦争や明治政府の是非については一切語らなかった。
何を言っても負け犬の遠吠えとしか取られないと分かっているので、口を閉ざし心を閉ざして日々の
暮らしに耐えてきたが、心の奥底には激しい憤りややり場のない悲しみを抱えていた。同様のことは、
奥羽越列藩同盟に加わったほとんどの藩で起こっていたし、そこで育った子や孫の世代も敗戦と差別の
負の遺産をを背負って生きざるを得なかった。
そんな時に奥州を大恐慌や凶作が直撃した。貧しい小作農たちは餓死の危機に直面し、娘を売って
生き延びる暮らしを余儀なくされた。そのことが戊辰戦争での怒りの情念を呼び起こし、奥羽越出身の
有為の青年に国家改造の必要を痛感させた。
石原も板垣も、大川周明も北一輝もそうである。満州事変は単に関東軍が満州支配を実現するために
起こしたものでではなく、満州国を建国することによって日本を抜き差しならない立場に追い込み、
一気に国家を改造しょうと狙ったものだった。
ところが首相となった犬養毅は、政党政治家としてこの謀略に真っ向から立ち向い、満州国を
認めようとしなかった。そのために大川周明らの意を受けた海軍の青年将校らに射殺されたのである。
2025年01月09日<ふたりの祖国 130 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 6>
講演も論文も同じだが、最初はおおまかな構想を立てるところから始まる。関東軍の本質をどう
とらえるか。ノートにテーマを書つけ、周囲にいくつかの関連用語を配していく。
日露戦争、講和条約、南満州鉄道、遼東半島、関東軍の編成、満州をめぐる国際情勢、日韓併合、辛亥革命、
ロシア革命、九カ国条約、中国の領土保全、石原莞爾、板垣征四郎・・・。
思いつくままに書いているうちに、言葉のまわりに関連する用語や史実が浮かんでイメージが広がっていく、
そうしてイメージの輪が関連し合い、徐々に頭の焦点が合って全体的な構想が像を結んでいく。すると脳が
手応えを感じて動き出し、新たな活気を呼びさますのだった。
満州問題は日露戦争に勝利した日本が、ポーツマス条約で遼東半島の租借権や南満州鉄道の経営権を得たことに
始まる。以来日本は鉄鉱石や石炭の供給や、余剰人口の入植地として満州を開拓してきた。
ところが辛亥革命によって成立した中華民国政府は清国時代に結んだ条約や対華21カ条要求を認めて
提供した利権の破棄を目ざし、9カ国条約を盾にして革命外交を展開した。
1927年の北伐以降、中華民国は満州の軍閥だった張作霖と一体化し、アメリカやイギリスの後押しを
得て満州における日本の利益を奪い取ろうとしてきた。
米英両国が中華民国を支持したのは、東アジアにおける日本の台頭を恐れたためで、ワシントン会議で結ばれた
九カ国条約、日英同盟破棄につながった四カ国条約は、日本を封じ込めるためにされてしまった。
このままでは満州での既得権を奪われかねないという危機感に駆られた関東軍の石原や板垣は、柳条湖事件を
きっかけにして満州事変を起こし、九カ国条約やパリ不戦条約に抵触することを避けるために満州国を独立国に
しようとした。
これは米英中が仕掛けた包囲網から逃れるための自衛行動だと主張する日本の識者が多いが、忘れてならないのは
満州事変が日本政府の決定ではなく、関東軍の謀略と独断によって引き起こされたことである。
2025年01月08日<ふたりの祖国 129 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 5>
8月になってマンスフィールド通りの風景が変わった。ブナの原生林を抜けてウィンチェスター社までつづく道を
往来する従業員やトラックが増えた。
満州事変や上海事変を機に東アジア情勢が緊迫しているために、各方面からウィンチェスター社にライフル銃や
機関銃などの注文が殺到している。そこで社では朝夕の交代制にして生産量を上げることにした。
そのために資材を積んだトラックが夜8時まで朝河寛一の家の前を通り、カーキ色の作業服を着た
従業員たちが三々五々と帰路についてゆく。それが済むまでは、家にいても危害を加えらそうで
落ち着くことができなかった。
(まるで臆病なニワトリのようだ)
武士にあるまじき覚悟のなさだと自嘲したが、胃弱の持病をかかえた老人には屈強な男たちと対峙することは
できない。こんな状態で日本擁護のゼミを行えば、どんな目にあわされるか分かった。
それでもフィッシャーの依頼を断わったなら、イェール大学に在職することができなくなる恐れがある。
それを避けるためには、8月6日のゼミでスティムソン国務長官の要望に応える講義をしなければならない。
それにはどんな内容にすればいいか、朝河は仕事が手につかないほど思い悩んでいた。
今月のテーマは満州事変である。これを日本の立場を肯定して評価するには、どのような観点から
語ればいいのか。それは嫌いな料理のレシピと味を語るのに似て、一向に気持が乗らないしアイデアも
浮かばない。
考えられるのはスティムソンの通告に対する日本側の回答を各条ごとに解説することか、大阪毎日新聞社
社長の本山彦一の『満蒙問題に関する米国民に訴ふ』に沿って論を組み立てることだが、どちらも稚拙で
史学の水準で語れるものではなかった。
(そうなれば残る手段は)
柳条湖事件を仕掛けた関東軍の本質を、明治維新以後の日本の歴史を背景に分析するしかない。朝河の
疲れた頭にそんな着想が浮かんだ。
2025年01月07日<ふたりの祖国 128 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 4>
「アーヴィング、私は学者だ。広告塔ではない」
朝河は冗談めかして反論した。そんな風に受け流すしかない悲しい提案だった。
「君とは20年ちかい付き合いだ。この提案をどんな気持で受け止めるかくらい分かっている。
それでもスティムソンの頼みを伝えざるを得ない、私の立場も分かってくれ」
「学者としての良心を捨て、共和党の宣伝マンになれと言うのか」
「日本が満州事変を起こすに当たって、関東軍や軍部の暗躍があったはずだ。そのことを
史学的に論証してくれるだけでいい。後はプロの宣伝マンが世論をあおるさ」
「私にとっては同じことだ。良心に背き学問の自由を放棄することになる。それに・・・」
祖国を裏切ることにもなると言いたかったが、口にすることはできなかった。
「寛一、アメリカにおいて選挙がどんな意味を持っているか分かっているだろう。国民の
支持を得ることが政権の唯一の根拠で、選挙に勝つためなら非常の手段を使わざるを
得ない時もある」
「しかし勝つために煽情的な世論で国民を誘導するのは、正しいこととは言えないよ。
民主主義は国民の良心と良識に支えられると、アメリカ建国の理念にも謳っているじゃないか」
「今はワシントンやジェファーソンについて話をしている場合ではない。ただひとつ言いたい
のは、これは君の上司としての頼みだということだ」
「私の立場に関わるということだろうか」
「私は何としてでも、君にこのまま大学にいてもらいたい。だが学内には、批判的な意見が
あることも事実だ。君がスティムソンの頼みを断わると、そうした意見を抑えきれなくなる。
私の立場も分かってくれと言ったのはそういうことだ」
フィッシャーは青みがかった目で朝河を見つめ、断る余地はないと言いたげに首をふった。
朝河は三階の研究室にもどり、遠くにそびえるハークネスタワーをぼんやりと見つめた。
大学とは真理と正義の砦であるはずである。だが不穏な世界情勢の前で、その砦が揺らいで
いるのだった。
2025年01月06日<ふたりの祖国 127 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 3>
・・・・・
フィッシャーは正確に5分間走りつづけ、別室で着替えてから朝河の前に座った。
「待たせてすまない。毎月のゼミも順調だね」
「ありがとう。何とか乗り切れそうだよ」
「学内での評判は上々だよ。それでも、ひとつ頼みがあって来てもらった」
フィッシャーはボトルに入れた栄養ドリンクを飲んで話をつづけた。
「これはスティムソンからの要望なんだが、ゼミの論調をもう少し鋭くしてもらえないだろうか」
「どういうことだろう。論調を鋭くとは」
「君も知っている通り、フーヴァーは大統領選挙で苦戦している。ルーズベルトのニューディールに押され
気味でね。経済政策で対抗することが難しくなっている」
「この不況だからね。現職はどうしても不利だろう」
「これを巻き返すには、外交問題で優位に立つ以外にない。そこで対日圧力を強めることで世論の支持を
得たいのだ」
「・・・・・」
「実はスティムソンがこのゼミを依頼したのは、君に日本擁護論を展開してもらい、反日世論を巻き起こし
たかったからだ。正直に言えば、スティムソン・ドクトリンを発表して日本に強硬な姿勢を取ったのも、
大統領選挙に勝つために強いアメリカをアピールしようとしたんだよ」
ところが朝河はゼミにおいて史学にのっとったきわめて穏当な日本論を展開したために、マスコミにおいて
反日世論のきっかけになる取り上げ方をされなかった。しかもスティムソン・ドクトリンに対しても、
旧来のモンロー主義から逸脱するという批判があって、期待していたほどフーヴァー支持にはつながらなかった
のである。
「そこでスティムソンは、君のゼミでもっとエッジの立った日本擁護論を展開してもらい、反日世論に火をつけたい
と考えている。そうすれば彼のドクトリンが日本の野望を封じるために重要だと認識されるからね」
2025年01月04日<ふたりの祖国 126 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 2>
そうした負の側面にも触れながら、維新後六十有余年の日本の歩みを光と影の両面から丹念に論じてきたのである。
幸いこの議論はイェール大学内でも一般市民にも好評だった。回を重ねるごとに受講者が増えていることが評判の
良さを示しているし、質の高さが評価されて国務省や陸軍情報部の日本担当者が聴講に来るほどだった。
しかも有難いことに、この講座が新聞やラジオでセンセーシナルに報道されることはなかった。朝河は慎重に言葉を
選んでそうなることを避けていたし、世の関心が民主、共和両党の大統領候補や、7月30日に開催する第10回
ロサンゼルスオリンピックに向いていたことも幸いしたのだった。
次の講座は8月6日で、満州事変を語らなければならない。これは昨年9月に起こったばかりで、今年1月の関東軍に
よる錦州占領や上海事変、国際連盟によるリットン調査団の派遣につながっている。
まだ真相も明らかではなく評価も定まっていない事件を、独自の解釈や視点で語るのはきわめて難しい。そこで真相を
解明するための情報を一つでも多く集めようと、日米の新聞記事を精査するとともに、国務省のヘンリー・ナンブに
頼んで関係方面に働きかけてもらっているところだった。
8月1日の月曜日、大学に出勤した途端にアーヴィング・フィッシャーから呼び出された。部屋を訪ねると、フィッシャーは
ランニングシャツとトレーニングパンツで運動中だった。
開発中のランキングマシンは、ゴムベルトを使いローラーをいくつも並べることで、走りやすく騒音も少ないものに
改良されていた。
「やあ、寛一。悪いがあと5分待ってほしい。毎朝20分走って、マシンの性能のデータを取っているんでね」
「構わないよ、気がすむまで走ってくれ」
朝河はソファに腰を下ろし、窓からさし込む強い陽射しに目を細めた。
「昨日オリンピックの開会式があったが、日本選手も活躍が期待できるね。水泳ばかりか陸上競技にもいい選手が
いるようだ」
2025年01月01日<ふたりの祖国 125 安部龍太郎 第六章 大統領選挙 1>
1929年10月に起こった世界恐慌は、1932年7月になってもアメリカ経済に深刻な打撃を
与えていた。7月7日のニューヨーク株式市場のダウ平均株価は41.22ドルに下落。恐慌前の
最高値である381.17ドルの10.8%になった。
こうした中でアメリカは、11月に大統領選挙を予定していた。現職のハーバート・フーヴァーは2期目を目指し、
6月の共和党の大会で大統領候補に指名された。
一方の民主党は、7月2日の党大会でニューヨーク市長であるフランクリン・ルーズベルトを大統領に指名した。
ルーズベルトは世界恐慌から脱出するための「ニューディール(新規まき直し)政策」を発表し、多くの党員の支持を
得ていた。
11月8日の投票日に向かって両陣営の対立と論戦が活発化する中で、朝河寛一は『日米融和に向けて』と
題した講座の準備に忙殺されていた。
3月の第一土曜日から始めた講座は、毎月順調に回を重ねていた。朝河は満州事変に至った日本の歴史的背景を
説明するために、4月は明治維新、5月は日清戦争、6月は日露戦争、7月は第一次世界大戦と時代を区切り、
何が日本人をこうした行動に向かわせたのかを語った。
分析の柱となったのは三つ。一つは明治維新によって生まれた天皇中心の軍国主義体制。一つは維新の指導理念
となった吉田松陰の海外進出政策。一つは薩長を中心とした維新勢力による藩閥政治。この三つによって維新後の
日本は運営されたが、憲法制度後は藩閥も徐々に政党化していった。
ところが政党同士の熾烈な競争が、三つの要素とあいまって日本の混乱を招く原因となった。天皇中心主義は
政争の具にされ、統帥権の干犯問題を引き起こして軍部を暴走させるきっかけになった。松陰の提言に従って
植民地を得たために、政権交代のたびごとに植民地での利権争いを引き起こして政党を腐敗させる温床となった。
藩閥政治によっていちじるしく差別された奥羽越列藩同盟や徳川幕府譜代の藩の出身者の中には、石原莞爾や
板垣征四郎のように軍隊内で出世をとげた後に日本改造を目ざす者も出てきた。
01月01日<新春対談 新時代へ!大衆とともに 山口奈那津男公明党代表
佐藤優氏>
・・・・・
山口 ・・・・日本の政治がさらに前へ進むには、新しい時代も大衆の”願い”を的確につかみ取ることが、
より求められるはずです。
佐藤 全く同感です。私は、基本的には時代とともに大衆の思考は健全化し、良識へ向かっていると思います。
一時的に逆風が吹いたとしても、人間主義に立脚し、平和を作り出すことを大衆は必ず理解してくれると、
私は楽観的に見ています。反対に、大衆を操作する対象として見るのは、大衆を蔑視した考えかたです。
私が公明党に良いイメージを持っているのも、その根を考えると、やはり大衆がいるからです。
山口 公明党には「大衆とともに」の立党精神が脈々と議員一人一人に受け継がれ、今も生きています。
この「大衆直結」の姿勢は、今後も変わることはありません。
・・・・